第13話 感じたくない記憶の質量

 膜が割れた。

 海上の霧が深く立ち込める海域で、敏感にその事を察したものが居た。

 まさか。あの結界の内部は、どれだけ通ってみようと思っても、弾かれてしまう禁忌の領域だった。もしそこが破られるとしたら…何があるかも分からない、内側からくらいしかないんじゃないだろうか。

 だが、それだけじゃない。結界の中から何かが出てきた。

 一つは、神聖を感じる、恐らく結界の中の主だった存在。そして、もう一人は…小さい姿の気配。おそらく子供だろうか?


「……」


 ちゃぷちゃぷと、海に何度も入れたり上げたりして持て余していた、穴の開いた柄杓を引き上げる。そして、口元に手を当てて悩む。

 まさか…。これは何かの間違いじゃないだろうか?

 神聖の者が連れている子供の存在だが、あまりにも膨大なオーラをその体内に内蔵していた。子供がこんなオーラを溜め込んでいるなんて意味が分からない。


「…ふーっ」


 腕を伸ばし、息を大きく吐いた。

 …つまり、、久しぶりという事じゃないだろうか?

 霧の中ただ一人居る存在は、心の内が熱くなり、久々のイベントに高揚している自分を実感した。

 ぴょんっと跳ぶと、霧の中のその存在は、海に沈むことなく、その会場を滑るように進みだした。そして、くるりくるりと、柄杓をあちこちにつけては、渦を作るようにかき回す。


「はっははぁ、いいねぇ。わくわくだぁ」


 今は気配だけを感じる神聖の者達は、そのまま進めばこちらにやって来る。いいぞ、今日は久々の狩りだ。

 そう言って、にやにやと笑いだした。






 私は、和泉ちゃんと一緒に日差しの強い海の上を旅していた。時折、水平線に行きかう船を見つけては、和泉ちゃんを泡の中に入れて海に潜ると言った事を何度か繰り返している。

 何度も船という物を見かけるが、私の中に散在しているというものから見て見れば、驚きの連続ばかりだった。


「和泉ちゃん、今の船ってなに?」


 ついつい、そのたびに和泉ちゃんに聞いてしまう。


「今のは…たぶん、漁船です。私の町の漁師さん達も、ああやって遠くまで漁に…」

「へぇ…最近の船は白いんだねぇ。それに、なんか唸ってる!」


 機械というものに燃料を注ぎ込むことで、自動的に船を漕がせることに成功したらしい。私の知っている時代でも、水車が手間のかかる作業を代用し、製粉などを自動でやってくれたりはしてくれた。ある特定の場所の、自然の力という物をそのまま頼れるわけだ。

 だが、和泉ちゃんが言う機械というのは、それ以上に幅が広い。使用者自身が用意する燃料で、自然の状態をある程度別として、家の中でも、外で、海の上でも動かせるというわけだ。

 頼りの在りどころと言うのは、どんどん時代の流れで変わっているようだった。ずいぶん遠い所に来ちゃったなぁ……なんて、今更ながら思った。今、私は和泉ちゃんの知識で現代の事情説明を頼っている、和泉ちゃんは海の上の旅路と、神様関係の事柄に関する知識を頼っている。きっと、私があと数回か寝たら、頼りにするものがもっと別なものに変わっていくのだろう。


「不思議だねぇ…」

「そうなんですか?」

「ずっとあの中に居たからね、私にとってはほとんど不思議だよ」


 私の方が今のあれこれを不思議に思っている、と言いたげにこちらを見上げる和泉ちゃんの頭を撫でる。


「昔は、神様頼みだったのにねぇ…。心ぼそかった人間達は、時代を越えて、さらに頼れる存在達を隣に置いてるみたいだ。おかげで余裕が出来て、余裕があるから、新しい事に手を回せるようになって…。 なんだか、ちょっと寂しくなっちゃうね」


 そう、人間達の成長が嬉しく思えるけれど。どこか寂しくもなってしまう気がした。機械とかじゃなくて、ずっと神様である私たちを頼ってほしかったみたいな、そんな縁故関係の嫉妬みたいな気持ちが沸き上がってきてしまう。


「…あの、湖畔お姉ちゃん?」


 しみじみと思っていたら、和泉ちゃんが再び声を掛けてきた。


「湖畔お姉ちゃんって、元は人間だったの?」

「…えっ?」


 いつ頃から居た神様なの? って聞かれると思っていた私としては、その言葉に驚いた。


「え、どうして、そう思ったの?」

「なんか……生まれた時から、あそこに居るって言ってるけれど、人間の事にも詳しいから。神様になる前に、人間だったりしたのかなーって」


 ずいぶん、飛躍した疑問だった。その言葉に対して、私は…私は……


「それは……分からないわ」

「へっ?」


 分からない、としか言いようが無かった。


「記憶が無いのよ。あの結界で、自分が泡神様であると自覚した日よりも前の事が。でも、それと同時に……たしかに、人間っぽい記憶もあるのよね、あはは……」


 そう、そんな記憶がある事もまた、事実だ。


「思い出せるのは、どこかの漁村に居たぐらいかなぁ……でっかいお屋敷に、私が居て…そこの社に居た神様、っていうにしては。記憶の中で会話する人は、もっと身近な、人に対して話をしてる、って感じなのよねぇ……」


 夢の中や、フラッシュバックのように、断片的に思い出される記憶は、私自身の少女時代の記憶のようだった。何か、家族と言う括りの中で生活し、誰かと仲良く暮らして居た思い出。

 その記憶の断片の最後は、海に身を投げている記憶だ。……だから、身を投げる以前は、和泉ちゃんの言うように人間である可能性が高い。……でも。


「…ま、思い出せないことだから。きっと夢だと思うけどね。 人間恋しさに、漂流物とかの情報から、人間っぽい生活を夢見てるのよ」


 忘れるぐらいの事なのだから、どうでもいい記憶だと捨て払った。その思い出を思い出すのだけは、どうしてもやりたくない。

 きっと、その記憶を思い出せば……。もう届かないって諦めていたものを思い出せば。

 そんな確信があった。記憶が無く、殆ど思い出せない私だけれど。自分の無くなった記憶を思い出す事だけは、したくなかった。私は、ずっと欠けたままでいたい。


「そうなのかな…私、湖畔お姉ちゃんの大切な思い出だと思うけどなぁ…」

「……」


 大切だと思うよ。でも、大切なのにもう届かないだろうから、思い出したくない。壊れない為に、忘れるという事は大事な事だ。それは、記憶を分離しないと怪物になり果ててしまう、取りこぼし達と同じ様なものだ。


「…ほら、今日はもう少し先へ行くよ」

「あ、待って-」


 和泉ちゃんが付いてきたところで、私は彼女の手を握り、先へと進んだ。

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