第9話 同じ目の少女との旅立ち
「っと」
海に叩きつけられる直前、自分の背中に泡を生成し着地した。起き上がってみれば、朝であるという事を除き、いつもの静かな海が広がっていた。
もうどこにも、イクチの体液さえも見当たらない。まるで、そんなの存在しなかったようだ。
いつも通り、魂をあの世に送っただけの事だ。その後に、自分以外の言葉は何もない。
言葉が無い。
掛けられる言葉が無いというのも、言葉が通じないというのも。こうしてその場面に会ってみると、悲しくて仕方ないものだった。
もし、今のイクチの言葉が分かっていたらどうなっていただろう? もし、自分がこの先生きていく過程で、この時、言葉が通じる方法があったと見つかったら、どうなるだろう? 後からどうにか出来たと方法を学ぶことになったら、そのたびに、何度も何度も、学んでいなかった時の失敗を悔やむのだろう。
そう思うと、和泉ちゃんを喰おうとしたあの怪物と交わした事が、あまりにもやるせなくて辛かった。
「……! 和泉ちゃん!」
そうだ、悲しんでいる場合じゃない。イクチを絶ってでも守ろうとした子がすぐそこに居るんだ。
私は遠くの方を見渡し、どこに離れたかと探す。ふと、結界の壁近くの辺りできらりと輝くものが見えた。
「あそこね!」
急ぎそちらへ向かう。たどり着いてみれば、海上に浮かぶ泡の中で、こちらを見ている和泉ちゃんの姿があった。
その顔は、今さっきまで泣いていた様子だった。当然だ、自分を一人逃がして、喰われにいったようにさえ見えたのだろう。もしそんな事になっていたら、私が和泉ちゃんなら、どうしていいか分からなかった。
「お待たせ。もう大丈夫、あの子は眠りについたわ」
倒したとは言わない。あのイクチ、あの人はようやく人間として眠りにつけたのだ。
私はそっと和泉ちゃんを泡の中から抱き上げる。
「う、ううぅ。うああぁぁぁん!!」
和泉ちゃんはまたも涙があふれ、私に強く抱き着いて来た。
「…ごめん、ごめんね。不器用で……」
そんな和泉ちゃんに、ただ謝ってしまった。和泉ちゃんが来てわずか1時間前後だろうか、そんな些細な時間の中で、初めて生きた人に会った私は、自分の拙さにあまりにも多く気づかされた。
これが、何百年も人間社会に生きれる、見た事も無い妖怪とかだったら、きっと上手い世渡りができるのだろう。だが、自分はただ誰とも交わさず、静かに役目をするだけの、するだけの……
「ひぐっ、ひぐ、うぐっ…お、お姉さん」
「…なにかしら?」
胸元から、和泉ちゃんの尋ねる声が聞こえて、少し顔を上げる。すぐ横に、泣き腫らした顔の和泉ちゃんの顔があった。
なんて和泉ちゃんは言うかな……。
「湖畔、お姉さん……ありがとう」
「えっ?」
ありがとう。その一言が、一瞬何なのか分からなかった。
「ありがとう。怖かった。助けてくれて、ありがとう…!」
「えっ、あ、う、うん……えっ?」
ありがとう。そんな言葉を言われるのは……たぶん、生まれて初めてだった。
泡神様としてずっと仕事をしていく中で、空から落ちてきた魂の泡達に、感謝の言葉を言われたことは無い。みんな、感謝の代わりに重さが軽くなって、何も言わずに空を飛んでいく。その景色を眺める事だけが、私の楽しみであり、感謝の代わりだった。
怖い思いをさせたはずなのに。ありがとうって言われるなんて、思いもよらなかった。
「ど、どういたしまして。……無事で、本当に良かった」
ただ、そう言った。混乱の中で、どうしてか心の中で、魂の泡の中身のような輝きが宿ったような心地がした。
空を見上げる。太陽は更に上り、真上を指そうとしていた。そのまま、前方に目を向ける。
そこには、例の結界となっている光のカーテンがあった。つなぎ目の無いように思えるカーテンには一か所、正確には私と和泉ちゃんの目の前に切れ目があった。
それは、確認するようなためだけに開けてしまった、私による切れ目。その境目から見える向こう側の海は、こちらのものとは違い、荒々しく、ざっくりと言えば生命という物を感じれた。
怖さ半分、好奇心半分と言えば良いだろうか。この結界内だけが全てだと思っていた自分に、新しさが舞い込んできたわけだ。
「あ、あの。湖畔お姉さん?」
ふと、背中から声がした。見て見れば、自分の泡の能力で汚れとそれ以外を分離し、綺麗にしたばっかの羽衣の背中に、和泉ちゃんがおぶさっていた。
「いいのですか? お姉さん、神様なんでしょ? 神様の場所を離れたら……」
そう言いつつ、悩まし気に結界内の海を見渡す。案外、神様というものについて知識があるのかもしれない。
実際のところそうだ。神様は、決まった場所で決まった役割があるものだ。言い伝えにある役目を、決まった場所で果たすのは、神様の使命でもある。その場所を外れるというのは……異端事もいいだろう。
「うん、いいのよ。私がこうしたいんだから」
でもいいんだ。この結界の外には、和泉ちゃんを食べようとする異形たちが、きっと沢山いる。そんなことが分かってありながら、和泉ちゃんよりも使命を選ぶことなんて、私にはできなかった。
それに……。こうとも考えられる。
いつも、夜の決まって魂がやって来る時だけに目覚める私が、朝の和泉ちゃんしか居ないときに目覚めたんだ。
そんな誰から言われたともないお告げを、私は信じて見たいと思う。神様が、お告げを信じるって言うのもあまりないかもだけど。
「和泉ちゃん」
改めて、私は和泉ちゃんを見る。
そして、優しく微笑んでみせた。
「大丈夫。お姉さんがきっと送り届けるからね」
そう言って、私は結界の外へ足を踏み出した。
生きている者を、生かす為に送り届けるという行いは、どこか普段の務めよりも暖かい気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます