(15)Serenadeを奏でる夜
俺の心は今、奈落の底へと落ちていく。全ての景色が暗く、よどんで、はっきりと見えなくなって、沈んでいくのを感じた瞬間、周囲の人々の歓声に僅かながら心が引き戻された。耳に入るのは聴き覚えのある曲のメロディ。
周囲の人々が見つめ、スマートフォンのカメラを向ける先に視線を移す。複合商業ビル「delta」の三階にあたる外壁に設置されていた大型電光掲示板が特別番組を放送していた。
「これは兄貴が生きてた時によく口ずさんでた歌だ……」
「そっか……今日だったね。ロックバンド『Gladiolus Knights』の番組放送」
ギターを弾き鳴らす一人の男が歌を歌っていた。『幸運の名の下に』と画面下に曲名が記されている。俺と九里香はその映像に見入ってしまった。
兄貴が気にいるのも分かる。その歌の歌詞は、大切な人を思い続ければ思い続けるほどに遠く離れた存在になっていくことを表していた。
歌を終えインタビューに切り替わり、司会の人とボーカルの人が語り合う時間となった。元は四人いたが今はソロで活動しているという。ボーカルの名は、
『尊敬していた祖父と恋人を失って鬱になっていた時期がありまして、元いたバンドメンバーも僕のせいでまとまりが無くなって……散り散りになってしまいました。ある時僕に残されたものが歌とギターしかないと気付かされて仙台駅前で路上ライブをしたり、動画サイトに曲を投稿していくことを続け、そのことがきっかけでこうして特別番組を作っていただけるほどにまで注目していただいたのは夢のようです。CDの売り上げや音楽ダウンロード数も好調で目をつけてくれたプロデューサーさんにも感謝してますし、この放送を観ている僕の曲を愛してくださった皆様にも何か恩返しが出来ればと考えています』
いい歌だった。いい歌だったけれど、それでも俺の心を救うにはまだ足りなかった。俺の心に届く声、それは──。
『聞こえるか? 吉秋』
その声を耳にした瞬間、胸の奥底から一気に熱が込み上げるのを感じた。
「兄貴……」
九里香が手に持つスマートフォンから声がした。夜の暗がりの中、スマートフォンの画面から発せられる仄かな明かりが暗闇の世界を彷徨う俺にとっての唯一の道調べのように感じられた。
「私、謝らなければいけないことがある……これは……吉弥さんが吉秋君へエールを送るために遺したメッセージ。けれど、これは吉秋君が全てを失ったように心を病んで死を選択した瞬間に見せてほしいとお願いされていたものなの。もっと早く見せるべきだったはず……ごめんなさい」
九里香が頭を下げるとスマートフォンの画面を横に向けて俺に見せてくれた。これは、かつて目にした出来事を再現した九里香の記憶──。
* * *
『吉秋、俺からすればそっちが今何年何月でどんな状況にあるのか分からないが、死が目前に迫っているところで天使の姿をした女性に遭遇したところなんだろうな、きっと。そいつは九里香といって俺が歩道橋から飛び降りる寸前に引き留めて命を救ってくれた人なんだ。変な格好をしているが悪い奴じゃあない。俺が言う言葉だから信じてくれるよな?』
『ひどいなーそんな風に言わないでよ。前の地味な格好に比べたらこの姿、かなり気に入ってるんだから』
動画から過去の九里香の声も聞こえた。
『ははっ、悪かったな。話し続けるぞ。吉秋、九里香に助けられて帰宅した日の夜、玄関口でずっと考えてた。なぜ俺は助けられたんだ、俺の生きる意味って何だろうって……真っ先に思い浮かべたのは……元カノのことでも、友達のことでも、親のことでもなく……お前のことだった。俺の人生を否定しないで見てくれていたのは……お前だけなんだ……』
画面に映る兄貴はしばらく無言になると表情を変えずに自然と目から涙が溢れ、頬を伝っていった。
『お前は俺の背をずっと追い続けた。俺はお前にとっての最良の兄貴になれていたか? 勝者が言うことは絶対だなんて言っておいてあんな情けない姿を見せてしまって、本当に……すまなかった……』
兄貴は手で涙を拭って、九里香と同じように「にひひ」と笑ってみせた。
『死を目指して気持ちが沈んでいるお前に泣き顔なんて見せてらんないよな。この笑顔は自分も相手も元気にする不思議なおまじないなんだって九里香が言ってた。元気になれそうか? そうだ、最後に一つだけお前に言っておく。今までお前とやっていた勝負事のほとんどがイカサマを仕掛けてたんだ。俺に勝てないの当然だろ? 吉秋、お前はちょっと真面目なところがあるから少しくらいズルしたり意地悪く生きてみろよ。またな──俺を超えていけ』
* * *
動画が終わると俺は無言のまま空を見上げた。吐いた白い息が霞んで消えていく。街明かりが強くて灰色になった夜空から降り落ちる粉雪の結晶の細かなところまではっきりと見えたような気がした。
「俺は、もう帰る。九里香、俺の最後を見届けるって言ってたけどついて来るな。いいな?」
「……」
その時九里香がどんな表情だったのか分からない。期待、もしくは不安、それとも──諦め。俺は振り返ることなくその場を後にした。複合商業ビル「delta」の大型電光掲示板が今も特別放送を続けている。
『これから歌う歌は、僕の大切な人と数年前に作り上げた曲を再編集した新曲です。赤黄色の星降る夜とセレナーデ。ぜひお聴きください。たった1秒でも立ち止まって、僕に大切な時を与えてくれた皆さまに幸あらんことを──』
切ない音色のギターの旋律に包まれる中、またね、と九里香の声を耳にした。それでも俺は振り返らなかったが、小さく手を上げてそのまま歩き続けた。
そして俺は──次の日のクリスマス、ニューワールドに訪れることはなかった。
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