(終)芳賀邸のお雑煮のお話



 枝折戸を開けて裏庭に入ると九里香が私のランニングウェアの上着のすそを掴んだまま後ろからついてきます。私の母のことを今もなお恐れているようでビクビクしていて上着の裾を掴む手に震えを感じました。


「テレビで見たよ。眞喜亜まきあちゃん、ピアノのコンクール中止になって残念だったね……」


「仕方ないよ、コロナ禍だし」


「眞喜亜ちゃんと一緒に練習してた演奏者が感染したって知って心配してた」


「私は検査で陰性だったからホッとしてるよ」


 私達は裏庭を通って玄関口から家に入ると廊下の先に古内さんがいました。ちょうど料理を作り終えたばかりのようです。


「眞喜亜ちゃんおかえりなさい。それに眞喜……九里香ちゃんも来てたのね」


「『眞喜奈まきな』じゃないよ」


「あら、ごめんなさい」


 九里香が顔を赤くしてムスッと頬を膨らませた金魚のような顔をするので、私と古内さんは思わずクスリと微笑みました。


 眞喜奈は、私の二つ歳下の妹の名前です。


 母と子揃って名前に「眞喜まき」という言葉が使われていて三人が一緒にいる時、ややこしく見えるかもしれませんね。


 私のことは眞喜奈の姉の「眞喜亜まきあ」と覚えてくれると嬉しいです。姉の私は目元が今は亡き父と似ていて、眞喜奈は母似と周囲に言われることが度々ありました。


 九里香は妹の名前で呼ばれることを。何故なら……私の母と壮絶な喧嘩をしたためです。あの日起こった出来事を思い出すのが少し怖いです。



 * * *



 あれは、九里香が天使の姿になって間もない頃のある夜のこと。母が爪を立てて掴みかかり九里香が泣き喚きながら必死に抵抗していました。


『眞喜子さん、私は芳賀眞喜奈はがまきなじゃない……私は九里香。あなたの子供とは違う!』


 九里香は母の手から逃れると、純白の大翼からもがれた羽を撒き散らして家から飛び出し、そのまま行方知れずとなりました。


 私は憤怒ふんどに満ちた母の形相と怒号に震え上がり、古内さんに抱きついてすすり泣いていました。友の危機に私は何も出来なかったことを今でも悔やんでしまいます。


 母は眞喜奈を自身の思い通りに動かせる『都合の良い子』に育て上げたかったのです。


 厳しい指導の末、プロピアニストとしての技量を全て授けて自身のコピーとしての生を歩ませたかったところ、妹は渡米して行方をくらませた父のギターを手にとってしまった……窮屈な世界から逃れるかのように。


 妹にはそのままの道を歩んでほしい。ならば私が母にとっての『都合の良い子』になってみせると意気込み、これまで築いてきた母の軌跡をなぞるようにピアニストとしての技量を観察し、盗み、習得してきた私はプロデビューを果たすまでに至りました。


 けれども「家庭を蔑ろにした父の面影がある」という理由だけで母は私のことを認めてくれず、今もなお私のことを見てくれない……母は眞喜奈を自身の思い通りに出来ない限り「冷たい世界」の中にずっと閉じこもり続けるのです。



 * * *



 昨年の年初めから九里香が母の不在を見計らって芳賀邸はがやしきに訪れるようになりました。九里香自身もこの邸に長年住んでいたので思い入れがあるのでしょう。古内さんが九里香に訊ねます。


「毎年お正月にこのやしきに来るつもりなの?」


 九里香は俯きながら頬を赤く染めて恥ずかしそうに答えました。


「私も年初めに里帰りしてみたくて……でも帰る場所は今は無いし……」


「そう」


 古内さんが呆れたような顔をするので私はくすくすと笑ってしまいました。


「私は九里香に会えて嬉しいよ。お正月じゃなくてもいいからいつでもおいでよ」


「うん!」


 九里香はパッと明るくなって顔をほころばせました。


「まあいいわ。お雑煮作ったからみんなで一緒に食べましょう。九里香ちゃんもね」


「ありがとう。古内さんの料理大好き。お雑煮のたくさん食べたいな」


「全く、この子ったら」


 私達は私用で使っている空いた客室に入って、電気コタツを囲うと一緒にお雑煮を食べました。今年も健やかで心温まる一年を過ごせるような気がします。


「私のお母さんが下に降りて来たらすぐに逃げてよ」


「うん、全速力でね」



 * * *



 第三幕

 寄り道・居候の天使


 終


 * * *


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