金木犀の天使 -Serenade-

江ノ橋あかり

前奏曲 始まりの天使

(1)金木犀の香る日



 人を想う心があるあなたにこの世に留まってほしかった。それは今や──叶わぬ願い。


             華胥かしょ脳科学研究所



 * * *



 突然のことだった。仙台市街地にある楽器店「Gladiolus《グラジオラス》」が何者かに襲撃された。


 顔見知りの年老いた店主がナイフで下腹部をを一突きにされ重傷を負い、アルバイト中のバンドメンバーの一人が襲撃犯に追われたまま行方不明となった。


 その子の名は「眞喜奈まきな」といって、バンドリーダーの市名坂万世いちなざかばんせの彼女でもあった。


 夕刻、大学の帰りに俺含めたバンドメンバー三人で楽器店に立ち寄る最中、救急車とパトカーのサイレンが耳をつんざくようなけたたましい音を鳴り響かせていて、店の前に近所の住人や通りすがりの通行人による人だかりが出来ているのを目にすることになった。


「爺ちゃん、爺ちゃん!!」


 いち早く野次馬をかぎ分けて万世はストレッチャーに乗せられて救急車で搬送される寸前だった血塗れの祖父から事の詳細を聞いた。


「眞喜奈を庇ってワシが刺された。このままではあの子は殺されてしまう……早く助けに行け」と。


 日が刻々と沈み、街路灯の白色光が点々と灯る夕闇ゆうやみの街路を俺と万世、そして長谷部はせべは手分けして襲撃犯から逃れた眞喜奈の行方を追った。


 遠方の至る所から道路を行き交うパトカーのサイレンが鳴り響いていて、防災行政無線のスピーカーから「ナイフを持った人物が逃走中、不要不急の外出を控えるように」と、抑揚のない無機質でゆったりとした女性のアナウンスが放送された。


 緊急時で申し訳無いのだが……正直言うと、眞喜奈の捜索に関して俺はあまり乗り気ではなかった……。


 いくら親友の想い人だからといっても、眞喜奈は俺と関わりが……少なかったし、『ある問題を抱えた家出非行少女』だったからどこか知らないところで人の恨みを買って仕返しされたのだろうと考え、なんやかんやで襲撃犯より先に見つかって保護されるのだろうとも思っていた。


 秋から冬へ季節が移ろいでいく十月の寒空の下、俺は広瀬川沿いの住宅地のある一角に立ち止まった。


 街路灯の明かりに照らされた甘い香りがする金木犀きんもくせいの花が咲く木を目にしたからだ。その日は金木犀の香りが漂い始めた時期で、香りを嗅いでいると、ふとこれまで経験した様々な記憶が頭の中で過ぎ去っていき、どこか感傷に浸ってしまいそうになる……。


 バンドリーダーの万世は物語でいう主役的存在だった。心から愛する事柄に心血を注ぐ性分で、楽器店を営む祖父の影響で音楽活動に携わり、俺と長谷部を引き入れてバンドグループを立ち上げた。


 仙台市内の小規模のライブハウスに何度か参加させてもらい、演奏するたびにアマチュアでありながら人気を着々と得ていく高揚感は万世の誘いに乗らなければ得ることが出来なかったものだ。


 そして雪の降りしきる夜にギターケースを背負って迷子犬のように放浪していた眞喜奈と出会い、二人は恋に落ちた。ラブロマンスを描いた映画やドラマのワンシーンのようであった。


 メンバーは四人となり、男女ツインボーカルバンドとなった。ステージの後方からドラムを叩く俺は目の前で互いに目配せして、歌を歌い、熱を入れてギターを弾き鳴らす万世と眞喜奈の姿がとても羨ましく思えた。二人の愛情が深く、深まるほどにライブが盛り上がり、楽曲がより洗練されていくのを肌で感じた。


 吐く息が白くけむって消えていった。


「俺も……万世みたいにドラマチックで胸焦がれる恋がしたかったな……」


 物思いにふけって弱々しくそう呟くと不意に背後から人がぶつかってきた。あまりの衝撃に「痛え!」と互いに叫んでアスファルトの地面に倒れた。


 金木犀の香りに包まれたまましばらく立ち尽くしていたようで、空が赤紫色の夕闇から星々がまたたく藍色の夜に移り変わっていたことを仰向けに倒れたことでやっと気付いた。身体をゆっくりと起こして地面にぶつけてヒリヒリと痛む二の腕をさすりながら叫んだ。


「おいテメェ、どこ見て走ってんだ!」


 ぶつかってきたのはツナギを着た金髪の男だった。高校生、大学生ともとれる若々しい姿をしていて、地面に両の手をついてハァ……ハァ……と息を荒げ、顔に多量の汗が滴っていた。


 目が合った瞬間、奇妙な気持ちになった。


「コイツは──俺とだ」と、なぜそう思ったのか分からなかったがそんな思いにさせられた。


 男も何か思うようなことがあったようでしばらく見つめ合っていたが、相手が舌打ちすると急に立ち上がって俺の元から走り去っていった。それからしばらく経った後だった。女性の断末魔が閑静な住宅街の夜の闇から響いたのは──。



 * * *



 俺の名は須藤薫すどうかおる


 前置きが長くなって大変申し訳ないが、これから始まるのは万世でも、眞喜奈のものでもない、『俺とのための恋物語』になるはずだった。


 楽器店「Gladiolus」襲撃事件をキッカケに、数年後、『金木犀の天使』を名乗る謎の人物と出会ってしまったことで、ドラマチックな出会いと恋路を邪魔される羽目になるなんて夢にも思わなかった。


 長い長い人生の行く先々で自身を凌駕りょうがする主役的存在に巡り会うことが幾度となくあるだろう……。


 けれども、自分が自分の人生の主人公であることを忘れてはならない、誰かに取って代わられるなんてあっちゃいけないんだ。


 どんなに惨めでも、どんなにズタボロになろうとも、希望の光に向けて手を伸ばし続ける。


 恋物語の最終幕が、永久に何者にも妨げられることのない幸福に満ち溢れた幕切れであることを願って──。



 * * *



 前奏曲

 始まりの天使


 終



 * * *



 俺がこの世界に『存在』していること、忘れないでいてくれよな。


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