(11)Loserでいられない
福祉大に通っていた頃の兄貴の部屋に俺は何度か遊びに行ったことがある。当時このアパートは新築で、雨風にさらされて薄汚れて灰色になる前の真っ白な外壁や竣工したての鼻を掠める気分が悪くなりそうな接着剤の残り香なんかを今もなお思い浮かべることができる。
部屋の中で嬉々として語られることといえば大学の友人達と酒盛りをしたこと、高校の頃から付き合っている彼女と仙台市内でデートしたこと、徹夜でレポート作成したこと、複合商業ビル「delta」のゲームセンターで熱中しているエクストラステージの店内ランキング上位に食い込んできたこと……兄貴なりに大学生活を謳歌しているのが伝わってきた。
いつだって、何度だって、俺を笑顔で迎え入れてくれたのに、ある日を境に暗い顔をするようになった。
「吉秋聞いてくれ……彼女にフラれた」
連日のように部屋のロフトに敷かれた布団に包まって涙を流していた。両思いだった彼女がアルバイト先の社会人の男になびいてしまったのだという。
人に初めて裏切られた、壊れて二度と戻すことができない何かを知ってしまった兄貴は自身を敗者と決めつけて何一つ心を傷つける者がいない自分の世界に閉じこもることを選んだ。
兄貴の部屋に訪れた時、本棚の上に心療内科の診察券と向精神薬と思われる包装された錠剤の束が雑誌の下に隠されていたのを見つけてしまったことがある。
心の病気を患うほど思い詰めていたなんて知らなかった。このことについて兄貴の口から語られたことは一度もない。
俺は、胸焦がれる恋と世界が一変するほどの喪失を経験したことがないから兄貴の悲しみを計り知ることは出来なかった。
それからしばらくして兄貴の後を追うように俺も福祉大に進学することを考えていると話すと、兄貴は久々に瞳の中に正気を取り戻して喜んでくれた。
現状を変えなくてはいけないと
けれども心労から立ち直れない日もあって取得した単位が足りず二年目の留年が確定すると両親から大学中退を勧められ、桜並木の続く大学のキャンパスで卒業式を迎えるこちらを見向きもしないかつての彼女を尻目に兄貴のモラトリアムはここで潰えることとなる。
* * *
それからしばらくして兄貴は国見から少し離れた場所にある南良成のウォーターサーバー販売会社に勤め始めた。俺は福祉大に進学して生活費の節約の兼ね合いから兄貴と同じ部屋に住むことになった。
ある夜、福祉大から帰ってきた俺はアパートの自室の扉を開けると、玄関で俯きながら座り込む兄貴と
「仕事帰りの道中で俺はこの街で一番不幸な奴に思えてきて車に轢かれて死のうとした。歩道橋から飛び降りる寸前に女の人に引き止められて説得されて今ここにいる」と語られた時には本気で心配してしまったが、それを機に考えを改め精神面が徐々に回復していったように思う。
ある時は俺をニューワールドに引き連れてエクステⅦで一緒に遊んだ。またある時は仙台駅の路上ライブで聴いた曲を気に入ったと言って、その歌を口ずさみながら料理する上機嫌な兄貴の姿を見た。俺はホッとして胸を撫で下ろしたのを覚えている。
自分の世界に閉じこもっていたために友人達と疎遠になっていたことと周囲の人との人間関係の構築を疎かにしていた兄貴は積極的に人と関わりを持つことに力を入れ始めた。
週末に職場の人と国分町の飲み屋(シーモア・グラスという店が気に入ってると言っていた)に行くこともあれば、友人達と他県へ旅行ドライブすることもあった。兄貴は次第に笑顔を取り戻していったかのように思えた。
そして──去年の秋。これは俺が実際にこの目で見た事ではなく、複数人の目撃者による証言だ。
夜11時、友人と酒盛りすると言っていた兄貴が仙台駅から国見駅へ電車に乗り帰路についていた時のこと。
乗客がまばらだった車内で扉の前に立つ二人の男女を目にした。赤く髪を染めた男は嫌な顔をする女性の真後ろに立ち、尻や太ももを触り次第に手を胸元に伸ばしていた。
他の乗客は赤毛の男の威圧感に圧倒されて声を上げられなかったが、兄貴は勇気を出して席を立ち、そいつに歩み寄り手を掴んで「警察呼ぶぞ、やめろ!」と叫んだ。
赤毛の男は兄貴の胸ぐらを掴み掛かり、「痴漢に見えたのか馬鹿野郎! こいつは俺の彼女だ!」と声を荒げ突き飛ばした。
駅員のいない駅に電車が停車すると、赤毛の男は兄貴を車内から引きずり出して、電車が離れていくのを見計らった後に殴る蹴るの暴行を加えた。
他の4人の降車客が「すいません、すいません、ごめんなさい……!」と謝り続ける兄貴を目撃した。
気を晴らした赤毛の男と女は駅の改札を抜けていくと周囲の人に心配され救急車を呼ぶ事を提案されたが兄貴は「大丈夫です」と、拒否したという。鼻を押さえた手の間から血液が垂れてふらふらとした足取りでアスファルトの地面から立ち上がると次の電車が来るまでプラットホームで待っていた。
その後の様子が駅の監視カメラに収められていた。点字ブロックの外側に立っていた兄貴はゆらりゆらり体を揺らしたと思うと振り返ってそのまま背後から倒れて線路に落ち、電車に轢かれ死亡した──。
葬式の最中、俺が喪服を着てパイプ椅子に座って茫然として俯いていたところに「変な金髪の女がこの場に相応しくない格好で斎場に入り込もうとしていたため追い返した」と周囲にいた親戚達が話していたことを今になってふと思い出した。
兄貴を捨てた元カノが哀れみを胸に斎場に来たのかと思った。何を今更になって……お前のせいで兄貴がボロボロになった姿を知っている。絶対に招き入れるものかとあの時憤慨していたが……そうか……今になってやっと理解した……。
歩道橋から飛び降りる寸前だった兄貴を救い出したのも、斎場に入り込もうとしていたのもお前だったのか……九里香。
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