(2)私、あなたを知りたい。



「あ、あの……どちら様ですか?」と、私はゆっくり近づいて声をかけると天使様はこちらに顔を向けて「にひひ」と可愛げに屈託の無い笑みを見せてくれました。


 私より歳下なのかもしれない。ブラウンのニットワンピースを着ていて、背が高くすらっとした体型で大人びているように見えるけれど顔にどことなく幼さを感じます。


「ふーん、あなたが──。ふふっ、こんにちは、いや、今はこんばんはかな? 私は九里香くりか。今日は素敵な夕映だね。あなたのことも教えてよ」


 そうして天使様は小さく手を上げると指を「パチン」と弾きました。手元で火花をような光が散ったように見えたのはまばゆい夕日のせいでしょうか? その瞬間、緊張の糸が急に切れて、私はなんだか不思議と警戒心が失せてしまったのです。


「は、はあ……私はこの部屋に住む狩野志保かりのしほと申します……看護師してます。秋茜あきあかね総合病院に勤め始めてから今日で半年が経ちました」


 ──って、なに名乗っちゃってるの私! 


 と、思わず両手で口を塞ぎます。


 沈みゆく夕陽に照らされた天使様は仄かに光を帯びているように見えました。この天使様に近づけば近づくほど金木犀の柔らかな甘い香りが強くなり、妙に落ち着いた気持ちにさせます。


 天使様の艶のある唇から発せられる言葉一つ一つが美声で心地良く、ずっと耳を傾けたくなってしまう。あまりの心地良さに口角からよだれを垂らして呆けていると階下から聞こえた自転車の「キーッ!」というブレーキ音に私はハッとしました。


「あ、あの……不法侵入です! どうやってこのベランダに入ってきたんですか。ここ三階ですよ!」


「どうやってって、この翼でね」


 天使様は純白の大きな翼を広げると、扇子せんすを仰ぐようにその場でゆっくり羽ばたいてみせました。私の顔にあたるそよ風に温かみを感じて、その大きな翼が作り物ではないと実感します。


「暗くなってきたからもう行くね。また羽休めにここに来るから」と天使様が告げるとベランダの鉄柵に足を乗り上げて今にも三階から飛び降りようとするので私は慌てふためきました。衣服を掴もうとする私の手をするりと抜けて、天使様は飛び降りました。


「キャアッ!」


 人が高所から落下する瞬間を目撃してしまったと肝を冷やし、慌てて目を塞ぎます。頭の中に思い浮かんだものは、アスファルトの地面に響く衝突音と階下の歩行者の叫び声、血塗れの天使様でした。


 恐る恐る目を開くと、天使様は翼を羽ばたかせ、私がいる階層と同じ高さで宙を浮遊していました。


「あなたは……一体何者なの……?」


「フフッ、もう一度言うよ。私の名前は九里香くりか。『金木犀きんもくせいの天使』を目指す者。またね」


 そう言って、空中をくるりと旋回するとビルが立ち並ぶ仙台市街地の楼上ろうじょうを空高く翔けていき、次第に小さくなって見えなくなりました。私は足の力が抜けてその場で腰を下ろして呆気に取られてしまいます。


「はあ……」


 天使様がいなくなれば、ここはいつものマンションのベランダです。今のは何だったのでしょう。現実味のなさに白昼夢を見てしまったのではないかと頬をつねりました。


「痛っ、現実……」


 夢だったらどれほど良かっただろう……私はポケットからスマートフォンを取り出して、帰宅する時に見たメッセージアプリを開くと、看護学生時代の友人から届いた写真付きメッセージを表示させます……やはり現実、再び目から涙が溢れてきました。


『狩野さん大変だよ! これ見て!』


 その写真は隠し撮りしたものらしく、私と付き合っていたはずの彼氏が知らない女性と手を繋いで路上を一緒に歩いている姿が映し出されていたのです。


「う、ううう……」


 静かに涙を流す中で、マンションのどこかの階層の開け放たれた窓から聴いたことのある曲名が思い出せない夕暮れ時の金木犀を題材にした寂しげな歌がスピーカーから流れていました。


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