誰かの名前が呼ばれた日

織香

3月11日

 その日は風もなく、暖かかったような気がします。当時私は二人目を妊娠中でつわりがひどく、テレビのある部屋で横になっていました。長女は夫の両親が見ていてくれたので、食後の静かな時間の中、ゆっくり休むことが出来たのです。

 それは、いつもの日常でした。


「……揺れてる?」


 それは体の芯をでるような細かい揺れから始まりました。

 最初は、いつもの小さな地震かなと思っていました。横になっていたからいち早く気付いたのでしょう、すぐに収まるだろうと私はまた目をつぶります。れとは、恐ろしいですね。



 次の瞬間。



 家全体が大きな縦揺たてゆれに襲われて、私はあわてて身を起こします。当時の携帯電話からは緊急地震速報が、鳴ったような鳴らないような……。正直覚えていません。目に飛び込んできた部屋の変化が、私の頭のなかを支配したからです。

 台所に洗い、重ねておいたお皿達が甲高かんだかい音を立てて崩れ落ちました。そのうち何枚かは割れてしまいます。2~3日前にいでもらった包丁が、嘘のように床につき立ちました。それに、お腹の底からい上がるような低い音が、辺り一面から響きます。

 それが音なのか、何なのかは今となっては思い出せません。

 つわりなんか、もう一瞬でとんでいきましたね。

 震源地を確認しようとあわててテレビをつけると、テレビの中の男性アナウンサーが揺れる背景の中で安全だとか、身の回りだとかを叫んでいました。その声を聞いて、私はハッと見上げます。

 うちは天井が高いため、照明にプロペラがついているのです。それが左右に、まるでブランコのように揺れている。

 私はそれを見て我に返りました。

 これは、普通じゃない。


「外に出なきゃ……! 長女は!!」


 住居は2階部分にありましたので、私はベランダに飛び出します。

 うちはオール電化なので、ベランダにはエコキュートが置いてあります。それがまるでオモチャのようにカタンカタンと揺れていました。満タン(お風呂の浴槽よくそう2杯分位)にお湯が入っているのにもかかわらず、です。

 揺れがおさまるまで必死で、私よりも高く大きなエコキュートを押さえていました。倒れると危険なのに、その当時は離れるという判断は出来なかったんです。

 ふと下の庭を見ると、夫の母が長女をかかえて外にいました。長女はお昼寝中だったらしく、キョトンとまわりを見ていたのを覚えています。

 よかったと胸を撫で下ろした瞬間、『ドォン』という低い音と共に、また大きな揺れがやって来ました。余震、だったのでしょうか。

 慌ててもう一度エコキュートを押さえながらも辺りを見渡すと、なんとも不思議な光景が目に飛び込んで来ます。


 屋根瓦やねがわらが小刻みに震えているんです。それも見える範囲はんいの屋根全部です。

 我が家は自営業。一階部分が作業場で、普通の家屋かおくよりも天井が2メートルほど高い位置にあります。なので、他のお宅の屋根がちょうど、私の目線の先に位置するのです。


 初めて見る光景に、呆然としながらもエコキュートを押さえていました。

 屋根瓦って一枚いちまいが結構重いんですよ。それがまるでプラスチックの様に軽々と動いている。……とても異様な光景でした。

 最初に響いた音の正体は、まわりの家の窓ガラス全てに地震の衝撃しょうげきが伝わり一斉いっせいに鳴った音でした。その後のガタガタと鳴り響いていた音は、見渡す限りの屋根瓦やねがわらがぶつかり合う音だったんです。

 私はその姿勢のまま、早く終わってと願っていました。

 私は当時も今も、関東圏に在住しています。

 いつか来ると言われていた関東大震災が、とうとう来てしまったのだとばかり思っていたのです。それくらい、私の住む地域は揺れました。

 やがて揺れがおさまると、夫が2階に上がってきました。家族の顔を見ると、やっぱり安心するんですよね。

 一人じゃなくてよかったなぁ、と。


「エコキュートから離れなきゃダメだよ、危ないでしょ。あなた妊娠中なんだから」

「はっ! ……それもそうね」


 お互いの無事をからかいで済ませることが出きることが、これ程幸せなのを知ったのは、その後すぐでした。

 夫の次の言葉を聞き、私は一気に血の気が引いたのです。


「震源地は東北らしい」


 私の母の実家が、福島県いわき市。

 海の近くだったのです。


    




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