第二話(04)
* * *
この街の交換屋に案内して欲しい。
次の日、エピはそう、セナティに頼んだ。再びオーヴァスの家に行こうとした、宿屋の主を引き止めて。
「少し、考えたことがあるんです」
そう言えば、二人は首を傾げたが、エピはただ笑って誤魔化した。
「僕にも怖いものがあって……それで、考えたんですよ」
それだけ答えれば、荷物の全て、つまり財産の全てを持って、セナティに交換屋まで案内してもらった。
この小さな街の交換屋らしく、小さな交換屋だった。扉を開けて入ると、中は狭く、すぐ目の前にカウンターがあり、店主と思わしき若い女性がつまらなそうな顔をして椅子に座っていた。セナティに連れられ入って来たエピを一瞥し、少ししてまるで退屈が終わったといわんばかりに微笑んだ。
「あら、いいものを持ってそうな旅人さんね。あんたが一昨日街に来たっていう人ね、昨日は来なかったから、交換屋には用のない金持ちかと思ってたわ」
店主は猫のように伸びをして、カウンターに肘をつく。
「それで? 何が欲しいわけ? 特産品? 本? 食料? それとも通貨?」
店主の背後には、扉があった。恐らく、その向こうが交換品の倉庫となっているのだろう。いまいるここは狭いが、倉庫は決して小さくはないように思えた。
もちろん、限りはあるだろう。その倉庫の中に、何でもあるはずがないのだ。特にここは小さな街。ものによっては、他の街で安く済むものも、高くつくかもしれない。高いものは、より高いかもしれない。だからこそ、荷物の全てを持ってきたのだ。
「星油ランタンが欲しいんですけど……ありますか?」
星油ランタン。旅人には必要不可欠なもの。はっきりいって、それがなければ旅人と名乗れない。星油ランタンがなければ、旅はできないのだから。
セナティが驚いてエピを見た。女店主も、耳を疑い、呆れたような表情を浮かべた。
「ランタンを壊してしまったの? 馬鹿ねぇ、旅人なのに」
「いえ、なくしたんです」
「なくした?」
エピが素直に答えれば、再び店主は呆れた。けれどもエピの隣にいるセナティが「エピさん! ランタンは取り返すって……」と、おろおろしていることに気付き、察する。
「ふぅん、わかった。オーヴァスに盗まれたのね。で、取り返すのを諦めたってところかしら。あいつ……ちょっとどころじゃなくおかしくて、あんまり関わりたくないと思えるから。わかるわ、その気持ちは」
女店主は鼻で笑い、それから溜息を吐いた。
「まあ……旅人が欲しいもの、持ってきたものについて深く聞くもんじゃないわね……全うじゃない奴らもいるしね」
と、彼女は頬杖をつくのをやめて、少し意地悪そうに笑った。その目はどこか冷ややかに、しっかりとエピを見据えていた。
「……でもね、いくらこの街の人間に盗まれたからといっても、私は同情しないし、申し訳ないとも思わないわよ。安くはしないわ。これも商売なんだから。それと……ここにあるランタンは、たった一つだけ。高くつくわよ」
覚悟はしていた。こんな小さな街の、小さな交換屋だ。星油ランタンは、もしかするとないかもしれないと、思っていたのだ。あったとしても、高くつくことも、想定はしていた。だからこそ、荷物の全てを持ってきたのだ。
「わかってます。でも、欲しいんです」
星油ランタンがなければ、旅はできないから。街にいても、いなくても、あれが命綱だと、気付いたから。
セナティは、何も言えずにエピの背を見つめていた。そして女店主は、変わらず冷ややかな目をしていて、立ち上がったかと思えば奥の部屋に行き、やがて、ランタン一つを手にして、カウンターへと戻ってきた。とん、と、そのランタンを置く。決して新しいものではない。以前は誰かに使われていたと思われる、星油ランタンだった。どういった経緯でこの交換屋に保管されることになったのか、どれくらいの期間保管されていたのか、ということは一切わからない。しかし、埃は被っていない。大切に保管されていたのだろう。交換屋の倉庫の中で、再び暗闇を照らすのを、待っていたのだろう。
「これが、その星油ランタンよ……で、あんたの持ってるものを見せてちょうだい」
――そうしてエピは、新しいランタンの対価として、持ってきた物品の八割程を店主に持っていかれてしまったのだった。覚悟こそはしていたけれども、多少の交渉をして、八割に抑えた。ほとんどが、持っていかれてしまった。
それでも、ほかにも旅に必要なものや、この街の市場で買い物をするための通貨を揃えられ、最後にはもとの一割が手元に残った。女店主に持っていかれたのは、合わせて九割。
かなりのものがなくなった。最初は沢山のものが入っていたリュックだったが、交換屋を出る際は、非常に軽くなってしまっていた。
「荷物……ずいぶん減りましたね」
交換屋を出て、セナティとエピは並んで歩く。半ば、潰れてしまったようなエピのリュックを見て、セナティは不安そうに呟いた。そのリュックの中には、エピの全財産が入っていたのだから。
旅人にとっての全財産とは、つまり力でもある。そのほとんどを、エピは失ってしまったのだ。セナティが不安そうな顔をするのも、仕方がなかった。
だがエピは微笑むと、その手に持っていた星油ランタンを、顔の前で掲げる。
「でも、光には代えられないから」
それから、背負っているリュックをちらりと見る。少し前までは、いままでの旅の全てを詰め込んでいたかのように、膨れていた。だがいまはセナティの言うとおり、軽くなってしまった――それでも、いままでの経験がなくなったわけではない。
「初心に戻った気分だよ。大丈夫、荷物が少なくても、やっていけるから……荷物が少なくても、本当に困った時は、僕の手記を渡せるから」
そして例え手記をなくしたとしても、見たこと聞いたこと、感じたこと全ては、しっかり記憶しているから。
「でも……よかったんですか……? 星油ランタン、私のせいで……」
だがセナティは俯いてしまう。だからエピは頭を横に振る。
「旅ができなくなる方が困るから」
確かに星油ランタンは高かった。しかし旅が続けられると考えれば、安いものだった。
「このまま旅ができなくなったらどうしようって考えて……そしたら、怖くなったんです」
考えられなかったのだ。もし、旅ができなくなったら、自分はどうなるのか、なんて。
旅ができなくなることが、怖かった。暗闇よりも、死よりも怖かった。
まだ旅を続けていたいから。まだ見つけていないものがあるから。
ふと、光に包まれた街から顔を上げて、黒色の空を見上げる。かつては星と月、そして太陽があったと言われる空。いまは何の光もない黒色。あたかものしかかっているかのような、こちらを吸い込もうとしているかのような、しかしどこか包み込んでいるかのような漆黒。
「――そうだ、オーヴァスさんに会わないと」
その暗闇を見て、オーヴァスの目を思い出す。セナティが立ち止まる。
「オーヴァスさんのところに……?」
少し不安そうな顔をしていたものだから、エピは微笑んだ。
「うん。でも大丈夫、一人で行くから。セナティさんは、先に宿屋に帰っててください。僕、オーヴァスさんと少し話がしたいんです」
* * *
オーヴァスの家に着き、ドアをノックする。しかし返事はなく、それでもドアを開けて中に入ると、家の中は昨日と同じまま。オーヴァスも変わらず、床に座り込んでいた。その傍らには、エピのランタンがあり、中では温かな火が灯っていた。
「……返さないよ。これは僕のものだ」
エピに気付いて、彼は顔を上げた。昨日と全く同じ表情。瞳の奥では、やはり暗闇が巣くっているように思えた。
「そうじゃないんです。そのランタンは、あなたにあげようと思って」
だが、エピはもう恐れず、手にした新しいランタンを掲げる。
「新しい星油ランタンを用意したんです。だから、そのランタンはもうあげます。好きに使ってください。それを、言いに来たんです――あ、でもこれはあげられません。これもなくなったら、僕、本当に旅ができなくなって困るから」
すると、オーヴァスは目をわずかに細めた。嘲笑したのだ。手元にある、元々はエピのものであったランタンを見つめる。
「……そんな小さな光で、暗闇を旅するなんて、旅人は本当に馬鹿だよ。呑み込まれておしまいなのに。そんな光じゃ、守ってくれないよ」
しかし、とエピは考える。確かに、この真っ暗な世界で、星油ランタンの光は小さいものだろう。それでも、暗闇の中で輝いてくれる。先を照らしてくれる。
星油ランタンは、暗闇から自分を守ってくれるだけの道具ではないのだ。
「……オーヴァスさんの言うとおり、暗闇の中じゃ小さな光です。完全には、僕を守ってくれないかもしれません。星油ランタンの光でも、追い払えない『暗闇』もいると聞きますし。でも……」
星油ランタンが必要な、本当の理由は。
「でも……僕にとって、星油ランタンは、自分の身を守るものというよりも……旅ができるよう、先を照らしてくれるものなんです。だから、完全に守ってもらわなくても、いいんです。暗闇の中を歩ければいいんです」
そして、部屋の中を見回す。あまりにも眩しい室内。光に満ちていて、様々なものが見にくい。目を潰してしまうかのような光。上も下も、右も左も、目的もどこへ行けばいいのかもわからなくなってしまうような、眩しさ。
「……オーヴァスさん。沢山光があっても、暗闇は完全に晴らせないですよ。これだけ光があっても、オーヴァスさんのこと、守り切れないですよ」
「……はぁ?」
オーヴァスが怪訝な顔をした。だがどこか青ざめたような顔で、その白い顔を、光はありありと照らし出す。そんな彼に対して、エピは正面から見つめる。その瞳を、見つめる。
「だってオーヴァスさん、心の奥まで暗闇に侵食されてるみたいに思えるんだもの。きっと、光が届いてないんですよ」
考えてみる。もしかすると、この人は自分の中に入り込んでしまった暗闇に気付いていないのではないか、と。ありったけの光で照らし、追い出したと思い、また近付けまいとしているものの、実は追い出せていないことに気付けていないのだと。
そしてそのことに気付けないのは、この部屋を満たす光が原因ではないかと。
こんなに光が溢れているのだ、暗闇も逃げ場がない。
光があって影があり、影があって光があるのに。
「オーヴァスさん、ここは眩しすぎますよ……少し、光を消した方がいいと思います。そうしたら、いろんなものがちゃんと見えてくると思います。明るすぎても、眩しくていろんなものが見えなくなってくるんです。それって、暗闇ときっと同じですよ」
オーヴァスは黙っていた。黙って、何故か震えていた。だからエピは、しゃがみ込むと、そこにあった蝋燭の火に、息を吹きかけた。すぅ、と火は消える。すると、床がよく見えた。思っていたよりも、汚れた床だった。掃除をほとんどしていないのだろう。だが、水拭きしたら、綺麗になりそうだった。恐らく、部屋全体がこうなっているのだろう、眩しくてよくわからなかったが、整理や掃除をして、綺麗にする必要がある。だが、眩しすぎて誰も気付けなかったのだろう。こうして光を消すことで、やっと見えてきたのだ。
「――火を消すな!」
と、オーヴァスが我に返ったかのように叫ぶ。震えながらこちらを指さす。
「お前は……お前はそうやってここを暗闇にする気なんだな! わかった……お前は暗闇の中ばかりにいるから、頭がおかしくなったんだ!」
「……光は、小さなもので十分なんですよ」
そうは言っても、オーヴァスは聞かない。立ち上がれば、再び怒鳴る。威嚇するように、というよりも、ただただ怯えたように。
「出ていけ! 暗闇を連れてくるな! 光を消すな!」
それじゃあ、と一言言えば、エピは家から出ていった。
* * *
それから数日後、エピはその街を後にした。再び暗闇へと、歩き出す。次の街に向けて、まだ見ぬものを求めて、先へと進む。
街を離れると、辺りは真っ暗になってしまう。けれども進める。星油ランタンが、自分と周りを照らしてくれるから。先へと続く地面や地図、コンパスを照らしてくれるから。
オーヴァスがあの後どうなったのかは、知らない。宿屋の主や、街の人々が、彼をどうにかしなければと、相談しあっていたが、結局どうなるのかは見届けずに街を離れた。
彼は『暗闇』に襲われて以来、暗闇を恐れるようになったと、宿屋の主やセナティは言っていた。こうしてその暗闇の中を進んでいると、彼は溺れたのだと、エピは感じた。
そう、この黒色の海に溺れたのだ。そして沢山呑み込んでしまった。だからオーヴァスはその呑み込んだものを照らしてなくそうとしているが、きっと、吐かなければいけないのだ。けれども、あんな強烈な光の中にいては、呑み込まれたものも、出ようにも出られないし、呑み込んでしまった彼も、吐こうにも吐けない気がする。
暗闇は、光があってなくなるものではないのだ。そうであるのに、彼はなくそうとしていた。それは、不可能なことだというのに。
それよりも、だ。
――旅を続けられなくなったら、僕はどうなるんだろう。
新しい星油ランタンに灯る光を見つめる。今回、そんなことを初めて考えた。いままで旅ができなくなるなんて、考えてもいなかった。
もし。もし、そうなってしまったら?
それは、あまりにも恐ろしいことで、エピはぎゅっとランタンを握った。
そうなったなら、自分は旅人ではなくなる。そうなったら――自分が自分でなくなるような気がした。
と、気付く。
暗闇を呑み込んでしまっているような気がした。
ただ、前を見る。もしそうなったなら、その時だと、考えを終わらせて。
いまは旅を続けよう。旅ができるのだから。
次の街を、目指す。
【第二話 夜の海を泳ぐ 終】
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