7

沈黙の中、隣のベランダから煙草の煙が流れてきた。いつものメンソールの香りが私を誘う。

莉子りこ

思わず口に出してしまった。小説家としての西利みやこでは無く、本名を答えてしまった。いや、この場合小説家としての名前の方がバレたらまずい。どちらにせよ間違った選択をした。

「莉子ね。口の悪いお前からは想像出来ない可愛らしい名前だな。」

「そうねぇ。性格の悪い貴方にも、晴彦なんて名前は勿体ないけどね。」

気付けばいつもの口喧嘩へ発展していたが、そのいつもは続かずに会話へと変わった。

「莉子、お前本当は何歳なわけ?未成年で煙草なんか買ってないよな。」

顔を見る前も見た後も、私はこの男に未成年だと疑われていた。二本目の煙草に火を付け、口から煙を吐き出しながら答える。

「21歳で成人済み。三十路のおっさんから見たら10代と20代の区別はつかないのね。」

隣のベランダからゴホゴホという咳払いが聞こえて来るのと同時に、大きな声が響く。

「俺はまだ25だ!」

動揺と怒りが入り交じる口調で、彼は続ける。

「お、お前、三十路ってどこをどう見て言ってるんだ…。今日顔を合わせたよな。顔を見ても尚、そう思ったのか。」

いつもベランダ越しに暴言を投げかける人が、こんなにも情けない声を出している。その状況があまりにも面白くて、つい吹き出してしまった。

「ふふっ…ふっ、あははは!」

笑った拍子に二本目の煙草を落としてしまったが、そんなことはどうでもよかった。

「お前ふざけるなよ!笑うな!俺の事、馬鹿にしてるだろ!」

「し、してないしてない。ふっ、あはは!」

こんなに笑ったのはいつぶりだろうか。随分と動かされていなかった頬の筋肉が震えていた。

「なんだ明るく笑えるんだな。深夜か朝方にしか現れないし、不機嫌な様子しか感じたことが無かったから暗い奴なんだと思ってた。」

隣のベランダから、また煙が舞い込む。

「それは貴方が暴言を投げ込むからでしょう。イライラしてると火に油を注がれたようでぶっ殺したくなる。」

笑った時に落ちてしまった煙草の二本目を拾い上げて、灰皿の上へのせた。

「ははは。」

乾いた笑いで返事をしたつもりなのだろう。そこからはしばらく沈黙が続いた。四本目の煙草に火を付けた瞬間、口を開いたのは彼だった。

「お前いつも変な時間に外出て行くだろ。開いている店も無いのに、何しに出てるわけ?」

それは踏み込んだ質問だった。私の中を土足で踏み荒らすような、地雷のある場所に近付かれたような、とにかく行き過ぎた言葉だった。

「貴方には関係ないでしょ。」

「またそれか、隠し事が多いんだな。」

「隣人の貴方に教える義理が無いだけよ。」

雲から顔を出した月を見つめ、煙草を吸った。

「隣人だから教える義理が無いと?」

「しつこいな、そうだよ。」

少しの沈黙の後、バコッという鈍い音がした。男と私のベランダを仕切る隔て板を蹴り破る音だった。そうして空いた穴から彼は顔を出し、こちら側へ渡ってきた。

「な、な…」

理解不能な状況に言葉も出ない。彼は、私の目の前で立ち上がるとこう言い放った。

「隣人じゃ無くなればいいんだな。」

四本目の煙草も、地面へ吸い寄せられるように私の手から離れていった。

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