よその子、うちの子

locoloco

よそのこ、うちのこ

 どうして、余所の子は目障りなのだろう。

あまり味のしないペペロンチーノを口に運びながら、私はそんなことを考えていた。目の前にいる1歳を迎えたばかりの男の子は、一体その小さな体のどこからそんなに大きな声が出せるのか不思議になるぐらいに泣き喚いている。

「ごめんなさい……この子、一度泣き出すとなかなか泣き止んでくれなくって」

「いいえ、良いのよ。子供は泣くのが仕事だって言うじゃない」

「ホントすいません……はい、よしよし……」

 先ほどまで心に満ちていた筈の仕事を終えた充足感は、とうに吹き飛んでいた。子供の泣き声、特に赤ちゃんの泣き声は、私の心を逆撫でする。

 心を落ち着かせるために、水を一口飲み、記憶を整理する。今日は目の前にいる男の子の母親と生命保険の契約締結をするために、このファミレスへ来た。軽く世間話を交えつつ契約内容を説明し、新規加入申込書に署名と捺印を貰い、軽く昼食でも食べましょうと言うところで、男の子がいきなり火が付いたように泣き出してしまった。

「ちょっと私に抱かせてもらっても良い?」

「え、はい、それは構いませんけど」

 母親から男の子を受け取り、優しく抱いて背中をトントンと軽く叩いていく。きっと、家とは違う環境で、不安に駆られてしまったんだろう。

「怖くなっちゃたかなー? 大丈夫、おばちゃんは悪い人じゃないからねー」

 1歳ぐらいの子供は、自我はあれども自覚がない。自分が何をどう感じて泣いているのか分からない。一種のパニック状態であるので、ゆっくりと落ち着かせていくのが泣き止ませるコツだ。そうやって数分間あやしていると、男の子は落ち着いて静かな寝息を立てていた。

「すごい……私じゃ泣き止まなかったのに……」

「たぶん、眠たかったのと家じゃない場所に来て怖くなっちゃったのね。はい、お返しするわ」

「ありがとうございます」

「いいえ、どういたしまして。と言うか、お礼を言うのは私の方よ。今日は本当にありがとうね。契約の方はこれで大丈夫だから、後で本社の方から書類を送らせてもらうわ」

「ええ、わかりました。勝山さん、これからもよろしくお願いしますね」

「もちろんよ。お子さんの事でも困ったら、バンバン相談してちょうだい。先輩ママとしてサポートしてあげるから。あと、ここの支払いは私がやっとくわ」

「いいんですか?」

「いいのいいの、お子さんをゆっくり寝かせてあげて」

 私は伝票を掴むと、笑顔で軽く手を振って席を後にした。男の子の泣き声でざわついた心は笑顔で誤魔化しきれただろうか。そんなことを考えながら、会計を済ませ店を出た。

 店の駐車場に停めてある自分の車に乗り込むと、汗が一気に噴き出してきた。子供の泣き声だけは本当に駄目だ。小さな子供の泣き声は心に障る。息子が1歳の頃、義両親からの過干渉と元夫からの経済DVで、私は心身ともに参ってしまっていた。子供の泣き声を聞くと、その頃の記憶が蘇ってしまう。ゆっくりと深呼吸し、心を落ち着かせる。しばらく経って少し落ち着いてきたが、耳の奥にまだ泣き声がこびり付いているような気がした。何か、別の音で誤魔化さなければ。車のキーを回し、エンジンをかけて、ラジオを適当に選曲する。民謡、ジャズ、オーケストラ、電話トーク……とてもじゃないが、今の気分で聞けない番組ばかりだった。これでダメだったら諦めようと、最後の放送局を選ぶ。

『ラジオ・ディスコ! 今日はアメリカンロックで午後の憂鬱な気分をブッ飛ばしちゃいましょう! まずはAC/DCでHighway to Hell!』

 いい番組がやっているじゃないか。車を運転する時に聞くような曲じゃないが、今の気分をブッ飛ばすには最高だ。私はアクセルを思いっきり踏み込みたいのを我慢して、次の目的地へと車をゆっくり発進させた。



 ファミレスを出てから30分車を走らせると、この街の市民病院が見えてきた。そこが次の目的地だ。ラジオ番組のおかげで、心はだいぶ復調したように思える。少なくとも、これから直面する現実と向き合える程度には。

 市民病院の駐車場に車を停め、建物を見上げる。白い清潔な建物、だが保険屋には伏魔殿のように見える。ここには私の大敵である死が詰まっている。保険のセールスレディにとって、加入者の死は悪夢でしかない。セールスレディの収入には二種類ある。新規契約の獲得による修正Sと保険契約の継続による長期継続率だ。歩合は新規契約の方が当然いいのだが、新規契約を獲得するのにかかる経費は自分持ちなので、新規の営業ばかりしていればカツカツになってしまう。契約済みの保険の内容を加入者に合った内容に整備する保全をこまめにやって、契約を長く長く継続させるほうが、堅実な収入になる。若いセールスレディの大半は新規契約の高い歩合に目がくらみ、営業に精を出しすぎて、人間関係を駄目にしたり、ノルマ未達成で経費を回収できず、借金を抱えて退職してしまう子も多い。もちろん、中には才覚をメキメキと現して、稼げるだけ稼いだら退職する子もいるが。

セールスレディで食っていくなら10年20年先を見据えて、加入者と良好な関係を築き、長期継続率の母数を増やせば良い。そうすれば、口コミで少しずつ新規契約も獲得できる。現に、さっき契約を結んだ奥さんは、5年来の付き合いのある奥さんからの紹介だ。ゆっくり、堅実にが私のモットーだ。

 だが、そんな努力も加入者の死で全て台無しになってしまう。加入者が死に、多額の保険金が下りた遺族は喜ぶだろうが、こちらはそうもいかない、長期継続率が止まってしまうし、何より上司に𠮟責される。理不尽かも知れないが、長生きしない人間と契約を結んだセールスレディの方が会社的には悪者なのだ。

 実際に、この病院で何人も加入者に死なれている。年末の何かと金が入用な時期に5人も立て続けに亡くなって、ボーナスカットどころか、給料までゴッソリ減ったことがあった。そんな状況で遺族にお悔やみを申し上げ、保険金の支払い手続きをするのは精神衛生上、非常によろしくない。人の死でこちらは月の収入が危ういと言うのに、向こうは数千万の金を手にする。蝶と虫ケラ並みの不公平じゃないか。

「あら、勝山さん。今日もお客さんのお見舞い?」

 受付に行くと、顔なじみの看護師に声をかけられた。私がこの業界に入ってから、もう10年の付き合いになる。いつの間にか、看護主任なんて肩書が名札についていた。

「違うわ。今日はうちの子のお見舞い」

「あら、サボりじゃない」

「何言ってるの、こんなのサボりじゃないわよ。サボりって言うのは、アンタみたいに裏で煙草を吸ってるような」

「はいストップ。冗談だってば……母親なんだから子供のお見舞いぐらい当然よ。仕事もしてないのに様子も見に来ない奴だっているんだから」

 そう、私の12歳の息子はこの病院に入院している。

「うちの子が迷惑かけたりしてない?」

「全然、むしろこっちが助かってるわ。小さい子に本を読んでくれたり、一緒に遊んであげたりしてくれてるから」

何故、因縁のあるこの病院に息子を入院させたのか。その理由は、子供の入院に親の付き添いを求められないからだ。どの病院も表向きには不要となっているが、人手不足で半ば強制的に親の付き添いを求められる事が多い。だが、この病院はそれをしない。院長の方針らしいが、こちらとしては仕事を休んだりしなくて済むので、非常に大助かりだ。

「なら良かった。うちの子、今日も元気にしてた?」

「それは自分の目で確かめて欲しいわね。元気だって言ったらアンタ帰っちゃいそうだし」

「流石にそれはないわよ……」

 本当はそのつもりだった。早く営業所に帰って、今日獲得した契約の処理を済ませてしまいたかったからだ。

「あ、そうそう、売店でお菓子買ってあげなよ。紘太くん、駄々をこねる子にお昼のプリンあげちゃってたから」

「ありがと、何か適当に買ってくわ」

 相変わらず紘太は人が良い。私の子とは思えない程の優しい子だ。なのに、何で、神様はあんな目に遭わすのだろう。




「コロッケやはだいはんじょうでした。そのうちに、すこしずつ、うれのこるようになりました。ねこたちは、まいばん、うれのこったコロッケをたべました……」

 ドアを開けると、数人の小さな子が、椅子に座って紘太のベッドを取り囲んで、絵本の朗読に耳を傾けていた。

「おはよう紘太」

「お母さんおはよ、仕事じゃなかったの?」

「紘太の顔が見たくてサボっちゃった。はい、これお土産」

「わ、ありがとう! プリンだ!」

 プリンを見た紘太の顔に、ぱあっと笑顔が咲いた。

「あ……みんなごめんね、絵本読むの明日でいいかな」

 紘太がそう言うと、子供たちは文句を言いながらベッドから離れて行った。

「悪いことしちゃったかしら」

「大丈夫だよ。みんないい子だから気にしないって」

「あら、他人のプリンをねだる子がいい子なの?」

「えっ、なんで知ってるの」

「さあ? どうしてかしらね。それよりも、調子良さそうね。頭痛とか、吐き気はもうない?」

「うん、大丈夫だよ。手術したところはまだ少し痛いけど」

 紘太は二か月前から入院している。病名は頭蓋咽頭腫、脳腫瘍の中でもかなり厄介な部類の物だ。

 二か月前、私が仕事から帰ると、台所で紘太が倒れていた。倒れてはいたが、紘太は意識を保っていて、消え入りそうな声で強烈な眩暈と吐き気で動けないことを私に伝えた。私は救急車を呼び、紘太を市民病院に搬送してもらった。その日の当直医が脳神経外科の担当だったのは本当に幸運だったとしか言えない。紘太の症状を聞くやいなや、すぐにCTスキャンを行い、脳に数センチの腫瘍があることを見抜いてしまった。経過観察をしながら放射線治療をするか、すぐにでも緊急手術を行って腫瘍を取り除くか医師に提示された。腫瘍を取り除く場合、脳組織を傷つけてしまう恐れがあるためリスクが高い。しかし、私は迷いなく手術を選択した。放射線治療で苦しみぬいた挙句、治らずに死んでいった加入者のことが頭に浮かび、とても紘太にそんなことをさせる気にはなれなかった。

「ホント、なら良かったわ。無事に手術は成功ってとこね」

「うん! それに、体重も落ちてだいぶスッキリしちゃった。服全部買いなおさないといけないかも」

「じゃあ退院したら、真っ先に服屋に行かないとね」

「学校行ったら、誰だお前って言われちゃうかも」

「そうね、それは間違いないわ」

 肥満気味だった紘太はここに入院してから、病院の健康的な食事のお蔭でめっきり痩せてしまった。先生いわく、頭蓋咽頭腫の合併症として肥満があるのだそうだ。食事改善をしても、運動をさせても紘太が痩せなかったのは、病気のせいだったのかもしれない。

「あ、そうだ。看護婦さんたちに低カロリーで栄養たっぷりななおかずのレシピを教えてもらったから、退院したらお母さんにも食べさせてあげるね」

「えぇ……私、別に太ってなんかいないわよ」

「嘘、僕がいない間、コンビニ弁当とかで食事を済ませてるでしょ。今日の晩ご飯何にするつもりだったの?」

「……肉まんとビール」

「駄目だよ。そんな組み合わせじゃ太っちゃう」

「いいじゃない……美味しいんだから」

「もう、お母さんぐらいの歳でそんな食生活してると、胆石ができて死ぬほど苦しいって看護主任さんが言ってたよ」

 あの野郎、後でとっちめてやる。

「勝山さん、ちょっとよろしいですか?」

 そんな風に紘太と談笑していると。部屋の入り口から看護婦が声をかけてきた。

「はい、何でしょうか?」

「加藤先生が紘太君の退院の手続きで話したいことがあると」

 加藤先生は紘太の手術を担当してくれた医師だ。しかし、医師が退院の手続きについて話したりなどするだろうか。何か、紘太の病状で思わしくないことがあるのかもしれない。

「分かりました。どちらに伺えばよろしいですか?」

「場所は1階のA診察室です。ご案内しますか?」

「いいえ、大丈夫です。ここには何回も来てますから」

 嫌な予感がする。紘太には悪いが、今日はビールどころかウォッカになるかもしれない。



「失礼します」

 ドアを開けると、加藤先生はぐったりと椅子にもたれかかって仮眠を取っていた。ここに勤めている医師の中で最年少、と言っても私と同じ34歳ではあるけれど、腕はバツグン、人柄良しで、老若男女問わず人気のある女医さんだ。

「……ああ、ああ、どうも。いや、すいません、みっともない所を見られちゃいましたね」

「あと30分寝てもらっても構いませんよ」

「じゃあ、お言葉に甘えて……って訳にもいきませんよね。すいません、わざわざ来てもらっちゃって」

「いいえ、構いません。それより、紘太のことで何かあったんでしょうか」

「……単刀直入に言います。紘太君、後遺症が残っているかもしれません」

 覚悟はしていた。もとからリスクのある手術だった。

「先生、それはどんな……」

「おそらく、認知機能に障害が残っています。日常会話や文章の読み取りには問題ないようなのですが、記憶のリンクがうまく出来ないみたいです」

「記憶のリンク、ですか」

「ええ、例えば洗濯物を畳んだらタンスにしまいますよね?」

「ええ、そうですね」

「今の紘太君はそれができないんです。タンスがどういう物で、どう使うかという情報はきちんと記憶の中にあるのですが、それを使うことができないんです」

「えっと、つまり、洗濯物を畳んで収納するとき、どこにいれたらいいのか分からないけど、タンスのことは知ってるということですか?」

「そうです。誰かに洗濯物をタンスにしまうように指示されればしまえるんですが、自力ではできません。紘太君、ひた隠しにしていますけど、他の子に言われるまで身の回りの物を片付けられなかったんです。今は看護師の皆さんがサポートしているので何とかなっていますが……」

「そうでしたか……」

「術後の経過自体は順調なので、来月には退院はできますが、ご家庭や学校での生活にサポートが恐らく必要になるかと思われます。それと、もう一つが摂食障害です」

「うちの子が痩せたのって」

「ええ、間違いなく摂食障害です。紘太君、普段の食事量の半分も食べられていないんです」

「そんな……」

 それ以上は言葉が続かなかった。なんでうちの子が、紘太がこんな目に遭わなければならないのか。

「申し訳ありません、私がもっと慎重に切除をしていれば……」

「先生、どうか謝らないでください。先生のおかげで紘太は生き延びることができたんです。それに、あの子太り気味でしたから、ちょうどいいぐらいですよ」

「勝山さん……」

「先生、それよりも、あの子のサポートの仕方について教えてくださいませんか。私、恥ずかしいことに、今まであの子に頼りっぱなしだったんです。家事も食事もあの子がやってくれてていて……今度は私があの子を支える番です」

「……分かりました。今すぐにという訳にもいきませんので、来週またいらしてください。資料を準備しておきますので」

「ええ、お願いします。母親として頑張らないと」

 嘘だ。こんな耳障りのいい言葉、今すぐにでも取り消してしみたい。紘太がいたから、あの子が家事をしてくれていたから、今の仕事ができて収入が得られている。あの子の面倒を見ながら何て、仕事を減らさなければ無理だ。下手すると副業か転職をしないといけないかもしれない。こんな時、両親がそろっていれば楽だったのだろうか。けど、アイツは俺の息子に障害者はいらないと言って、淡々と離婚の手続きを進めるだろう。結局、私が面倒を見ることになる。仕事に就いている今の方がまだマシだ。そう思い込んで、何とか自分を納得させた。

 熱い。そう感じた瞬間に、鍋から噴きこぼれた味噌汁が私の足にびちゃりと落ちた。慌てて火を止め、吹きこぼれた味噌汁を布巾で拭く。スリッパを履いていて良かった。5年ぶりの家事は、こんな調子で失敗ばかりだ。

「お母さん、鍋から目を離しちゃダメだよ」

「ゴメンゴメン……」

 紘太が退院して、もう三週間になる。退院した日は違和感を感じなかったが、異変は翌朝に起こった。目を覚ますと焦げ臭い臭いが部屋に充満していた。何事かと思い台所に行くと、焦げて煙を上げる目玉焼きをボーっと見つめる紘太がいた。恐る恐る声をかけると、紘太は朝ごはん、もうすぐできるよと笑って言った。私はすぐさまコンロの火を止め、目玉焼きが焦げていることを伝えた。紘太はハッとした顔つきになり、何故焦げてしまったのか分からないと私に言った。紘太の記憶にある目玉焼きを作る手順の中で、火を止めるという行為がすっぽりと抜け落ちてしまったらしい。危うく、家事で火事になる所だった。こうなると紘太に家事を任すわけにはいかないと、私が家事をすることになった。

「もう、お母さんは不注意だなあ」

「しょうがないじゃないの……料理は私の中でやってはいけないことなんだから」

 自慢じゃないが、料理はてんで駄目な私は、紘太にレシピを説明されながらでないと料理ができない。

「あとは何を作ればいい?」

「ええと……ウィンナーはレンジで温めてあるし、味噌汁もできたし、ご飯も炊けたし……」

「玉子焼きは?」

「あっ、それだ! 玉子焼き!」

「……巻けないからスクランブルエッグね」

「今度の休みに練習だね」

 大変な課題を押し付けられてしまった。一体何個の卵を犠牲にしなければならないかと思うと、気が滅入りそうだ。

「それより、学校の方はどうなの?」

「……あんまり、かな。昨日も授業の内容をノートに書いてたら、漢字の書き順が分からなくなって困っちゃった」

「そう……ねえ、困ったことがあったら『こまったノート』に書いておくのよ」

「うん、昨日も書いたから後で読んでね」

 こまったノート、これは加藤先生が教えてくれたサポートの一つだ。日々の中で困ったことがあったらノートに書いて、家族と一緒に解決法を考えてノートに書くというものだ。困った時にノートを見れば解決法が書いてあるので、非常に助かると加藤先生は仰っていたが、困ったことを家族に見せるのは中々に自尊心を傷つけてしまう。最初のうちは全くノートに書かず、学校の担任からの電話で現状を知るという有様だった。

「ねえ、学校に通うのが辛かったら言いなさいね。フリースクールとかもあるんだから」

「うん……」

 フリースクールに通うとしたら、月の月謝が幾らかかるのだろうか。考えただけで憂鬱になる。どうにかして、収入を増やさなければならない。フライパンの中の卵をぐちゃぐちゃに掻き混ぜて、鬱憤を少しだけ晴らした。



 月に一度の所長面談は、月間ノルマの達成状況、新規顧客の詳細、翌月の業務目標と胃が痛くなる話題のオンパレードで、話す内容によっては即刻クビを言い渡されかねない。セールスレディにとって地獄の審判に等しいイベントの一つだ。所長室から何人ものセールスレディが泣きそうな顔で出てくるのを見たし、私自身、何回も泣かされた。そして、今回の所長面談は久々に泣かされるかも知れない。

「勝山さん、ノルマ、未達じゃないですか」

「はい……申し訳ございません」

「うん、お子さんの事で大変なのは聞いています。色々とサポートしなきゃいけませんもんね」

「ええ、まだ何かと私が支えなければ、息子も大変でして……」

「そうなると、勝山さんのノルマ、下げなきゃいけないけれど、そうすると給料を減らさないといけませんね」

 来た。この男、所長の桐谷の常套手段だ。あえて叱責せず、業務目標を下方修正させることで、相手の自尊心を深く傷つける。それで何糞と奮起するなら良し、落ち込んでそのままフェードアウトするも良しのどっちつかずのズルいやり口だ。しかし、ここは我慢だ。業務目標を下方修正して、来月、再来月とノルマを達成して、ノルマ達成ボーナスを搔っ攫ってやる。

「誠に申し訳ございません。私の業務能力に合わせたノルマを再設定いたします」

「そうですね。あまり、無理をしてはいけませんよ。今はそういう時代じゃありませんからね。無理な営業をされて、ウチの評判が落ちたらたまったものじゃない」

「ありがとうございます。では早速、業務目標シートを作成して……」

「ああ、待って、それは明日でいいですよ。それより、貴女のお子さんの話をしたい」

「息子の、話ですか?」

「ええ」

 何だ。今日に限って妙に優しい。いつもなら冷酷に30分でシートを作成してこいと言ってくるはずだ。

「お子さん、認知機能の障害を抱えているんでしたね?」

「はい、生活に色々と支障がでて、とても大変で……ですが、私と息子二人で何とかやっています」

「……勝山さん、さっきも言いましたが無理をしてはいけませんよ。貴女、ウチの10年選手だ。辞めてもらっちゃ困る」

 ああ、そういうことか、自分の社員育成率が下がるのを恐れていたのか。確かに長年勤めている私が辞めたり、ノルマ未達を何度も出したりすれば、自身の成績に関わる。こすい男だ。

「いえ、私は辞めるつもりは……」

「今はそうかも知れないが、いずれ無理がきます。ウチとしてもなるべくサポートをしたい」

「はぁ……」

「来週、ウチの保険会社が協賛している医療関係のセミナーがありましてね。認知機能に関する療法の講義もあるんです。各営業所からも人を動員するように言われてまして、ちょうど招待枠が一つあるんですよ」

 あまりにも良い話で、正直気味が悪い。だが、使えるものは使わせてもらおう。会社が協賛しているセミナーであれば、詐欺まがいの民間療法を押し付けられたリ、効果のないレメディを高値で売りつけられることもない筈だ。そう考えると、こうした真っ当なセミナーを紹介してくれる辺り、優しい男なのかも知れない。

「所長、ありがとうございます。その話、是非ともお受けさせていただきます」

「いえいえ、行ってくださるのなら、こちらとしても大助かりです。これが案内と招待枠のチケット、それと……レポート用紙です。本社提出のレポートなので、キッチリお願いしますね」

「……ありがとうございます。しっかりと、勉強させていただきます」

 前言撤回、やっぱりこすい男だ。




 医療関係のセミナーには出ない方がいいとつくづく思う。主催側は真っ当でも。カルト宗教、健康食品系マルチ商法の勧誘員が必ず参加してくるからだ。ここに来て5回も声をかけられている。奴らは家族の看護や介護で疲れた心に入り込んで食い物にしようとする。保険のセールスレディをしている私が言えた義理じゃないが、善意の欠けている連中だ。いや、カルト宗教に関しては善意か。セミナーが終わった後の会場のロビーには、今まさに獲物を食おうとする猛獣と、食べられるとは端から思っていない子羊で溢れかえっていた。

 そんな哀れな光景を見る気にもなれず、私は会場の入り口近くにある自販機横のベンチに座り、缶コーヒーを飲みながら、メモ帳にまとめたセミナーの内容を眺めていた。セミナー自体は実に真っ当で分かりやすい内容だった。講師の方は、精神科医でありながら過去に重度の鬱で認知機能が低下した経験があり、その際に受けた治療について主観と客観の両方から検証した結果を今回のセミナーで話されていた。彼女曰く認知療法は薬物を使わずに精神面の治療が可能ではあるが、万能ではないそうだ。認知療法には患者の自己批判の正当性に疑問を投げかけ、思考を変化させるというプロセスがあるが、重度の鬱状態ではこのプロセスは無意味だ。鬱状態で低下した思考力では、いくら疑問を投げかけても自己批判のループから抜け出せないからだ。そこで彼女はパキシルを服用し、ソフトではなくハード面の治療を選択した。薬を服用して5週間目、彼女の身体に変化が起こった。世界が輝いていたのである。自分を仕事へと誘う朝日が穏やかに感じられ、暖かな陽気で脳の緊張状態が緩和されていく。医者としてどういった効用があるのかを知ってはいたが、体験するとまるで魔法のようだったと彼女は語っていた。そして、この状態で認知療法を始めたところ、驚くほどの改善が現れ、無事に職場復帰ができたのだと言う。認知療法と薬物治療をバランスよく併用すれば、心をより良い方向へ変化させることができるというのが、彼女の出した答えだった。

 しかし、彼女の話は上手く伝わっていないようだ、ロビーでは薬物よりも効果があると言う天然水の宣伝や、お布施をすれば、教祖直々にチャクラを送り込み、心を穏やかにするという話がそこら中でされていた。それらは喧々としたものではなく、ひそやかに話されていたが、それ故に耳にこびり付く。

 出ていってしまおうか。セミナーは終わり、後は帰るだけだ。ベンチに置いていた缶コーヒーを手に取り、飲み干そうとして、前に人がいることに気がついた。

「あの、お隣よろしいですか?」

「ええ、どうぞ」

 しまった、また勧誘だ。一息つこうと、ここに留まったのがいけなかった。

「皆、勧誘ばっかりしていますねぇ。セミナー聞いてた人いないかも」

 ペットボトルのカフェラテを開けながら、彼女はそう言った。どうやら、この子は勧誘目的ではないらしい。

「そうね……すごくいいお話だったのに残念だわ」

「あれ、アナタ勧誘の人じゃないんですね」

 向こうも私と同じことを思っていたようだ。

「あら、私は真面目にセミナーを受けに来たのよ」

「それは大変失礼を……もしかして五井の動員の方ですか?」

「そうよ、よく分かったわね」

「だってこのセミナー、協賛企業の人たちが勧誘する人たちにチケットを横流して、小遣い稼ぎに使われてるんですよ。マジメに聞いてるのはウチから招待した医療関係の人か、レポートを書かなきゃいけない協賛企業枠で来てる社員さんぐらいです」

「皆こすい事してるのね。私には小遣い以上の価値があるセミナーだったわ」

「どこか、お身体の調子が良くないんですか?」

「私じゃなくて息子がね。認知機能障害を抱えてるの」

「それは大変ですね……あの、もしよろしかったら別室でお話を伺いますよ」

「あら、いいの?」

「ええ、受講者の方が希望すれば、スタッフに相談できることになってるんです」

 そんな話、セミナーの中であっただろうか。記憶を振り返っても心当たりがない。

「ねえ、その話って本当?」

「本当ですよ。パンフレットの下の方にちっちゃく書いてあります」

 彼女の言葉を確かめるためにパンフレットを見ると、確かに下の方に小さく書いてある。

「ごめんなさいね、私、疑り深くって」

「いいんですよ。人間それぐらいじゃなきゃ」

「そういえば何でパンフにだけ? きちんと周知した方がいいんじゃないかしら」

「……それしちゃうと、人が殺到して大変なんですよ。こっちも暇じゃないんで」

「私はいいの?」

「きちんとセミナーを聞いてくださったお礼です。会議室でお話伺いますので行きましょうか」

 いい話を聞けたうえに相談まで乗ってもらえるなんて得した気分だ。今度、所長にお礼のお菓子でも渡すとしよう。



「どうぞ、ペットボトルのお茶ですけれど」

「どうも」

テーブルの向かいに座った彼女、小堀典子は黒髪のストレートロングをポニーテールにまとめ、化粧も薄く色気のない様に見えるが、顔立ちが整っている美人だ。このタイプは服と化粧でガラッと印象が変わったりする。

「えーと、先に言っておきますけれど、私は食事療法士です。栄養士の資格もありますから安心してください」

「あら、心療系じゃないのね」

「ええ、けれど心を治すのに食事療法は必要ですよ。鬱をこじらせてしまった人って、食欲が壊れちゃうんです。食べすぎちゃったり、食べられなくなったり……」

「確かに鬱病の人って、過食症や拒食症を抱えている人が多いものね。私の担当してるお客さんにもそういうご家族がいたわ」

「そうなんです。鬱病を治すより先に、そっちを治さないと治療が進んでいかなくって……認知療法にしろ、薬物治療にしろマトモな食生活を送っていないと効果がないんですよね」

 食事療法が鬱病の治療で大切なのは分かったが、紘太のようなケースでも必要になるのだろうか。

「ねえ、認知機能障害でも食事療法って必要なのかしら」

「えっと、ケースによりますね。息子さんはどうして認知機能障害になられたんですか?」

「小児脳腫瘍でね……頭蓋咽頭腫だったわ」

「それって、かなり危ない方の脳腫瘍じゃないですか、よく手術が成功しましたね」

「腕のいい先生だったからね。ただ、それでも後遺症が残っちゃったのよ」

「心因性じゃなくて、外因性の認知機能障害という訳ですね」

「で、外因性でも食事療法って効果あるの?」

「うーん……効果はあるんですが」

 少し引っかかる言い方だ。

「効果はあるのね?」

「ええ、外因性の認知機能障害でも食事療法は一定の効果があります。ただ、方法が……」

「じれったいわねえ、早く教えてよ」

「……息子さんの好物の料理だったり、思い出のある料理ってありますか?」

 予想していなかった質問に少し面食らってしまった。紘太の

好きな料理、あの子は何が好きだったろうか。あの子が料理を始めたのは3年前からだ。それまでは私がスーパーの総菜やレトルト食品なんかで済ましていた。さすがに米はちゃんと炊いてはいたが、きちんと料理をした記憶があまりない。そうだ随分前に、何が好きか聞いたことがあった。確かあの子は

「私の作る料理が好きだって言ってたわ」

「良かった。最近、あまり料理をしないお母さんが多くって……あのですね、外因性、脳の損傷による認知機能障害の場合、損傷していない部分がカバーしようとするんです。なので時間はかかりますが、リハビリで回復できます。そこに好きだったり、思い出がある料理、そういうのを食べると記憶の引き出しが開いたりするんです。要は脳の記憶野を刺激して食べながらリハビリをしましょうという……」

「ちょ、ちょっと待って、あの、私料理は」

「えっ?」

「ウチ、普段は息子が料理をしてくれてて……私はあんまり料理ができなくて、めったに料理をしないもんだから、あの子が嫌味混じりに言った冗談よ」

「ごめんなさい! 大変失礼なことを……えっと、今はお家のご飯をどうされてるんですか?」

「今は息子と二人で何とか作ってるわ。息子が横で指示を出して、私が実際に作るって感じね」

「なるほど……それ、結構いいかもしれません。さっき言ったように記憶の引き出しを開けるのが重要なんです。お母さんに料理を教えることで、記憶の引き出しがどんどん開いてるんじゃないでしょうか」

「確かに料理を一緒に作ってると、あの子色々と思い出すことが多かったわね」

「いい事教えてもらっちゃいました。あんまり料理が得意じゃないお母さんにもいいアドバイスができそうです」

 生活の為に仕方なくしていたことが、紘太のリハビリになっていたようだ。なんだろう、とても嬉しくなってきた。

「ありがとうね。損段したら、気が楽になってきたわ」

「いいえこちらこそ、いいアイデアを教えていただけました」

 会議室の時計を見ると、いつの間にか時刻は18時となっていた。

「あら、もうこんな時間……ごめんなさいね、片付けもあるのに時間取らせちゃったわ」

「あ、それは大丈夫です。相談にのるって話をしたら、片付け手伝わなくてよくなりました!」

意外とちゃっかりしている。

「……まさか、そのために相談を持ち掛けたんじゃないでしょうね」

「まさか! 勝山さんだから相談にのりたくなっちゃったんですよ」

「嬉しいこと言ってくれるじゃない」

 それにしても腹が減った。いつもなら20時に夕食を食べるのだが、彼女と話して気が抜けて楽になっったのか、猛烈に腹が減ってきた。紘太の夕食はあらかじめ作ってあるし、ここの近辺で食べて帰ろう。

「ねえ、おごるから。このあと一緒に食事でもどう?」

「えっ、いいんですか?」

「ええ、相談にのってもらったお礼よ。どこか美味しい店知ってる? 私この辺に詳しくなくて」

「ホルモン屋さんなんてどうですか。安くてすっごく美味しいお店なんですよ」

「いいわね、そこに行きましょ」

「すぐに支度するんで待っててくださいね!」

 鼻歌まじりに帰り支度を始める彼女を見つめながら、今日の嬉しい成果と、どんなホルモンが食べられるのだろうという期待感で胸がいっぱいだった。



「同物同治って知ってます?」

 焼きたてのシロコロをハフハフと食べながら言われた言葉に心当たりはない。

「知らない、ドウブツって生き物の動物?」

「違いますよぉ……同じ物で同物、同じ治療で同治です」

「初めて聞くわ」

 七輪の上でジュウジュウと焼けていたコブクロを口に運ぶ。コリコリとした食感に味噌ダレが絡んで美味い。すかさずビールを流し込めば更に美味い。

「中国の言葉っていうか、薬膳料理にある考え方なんですけどね。体に悪い所があったら、そこと同じ部位を食べれば治るって意味です」

「要は肝臓が悪かったら、レバ串やレバニラを食べましょうってことね」

「そういうことです。あ、すいませーんレバ串3本くださーい」

「私も食べたいから6本で」

 それにしても良く食べる。安いから全然かまわないけれど。

「もしかして肝臓が悪かったりします?」

「去年の健康診断で数値が良くなくてね……それって何か科学的根拠ってのはあるの?」

「ないですよ。栄養がたっぷりで滋養にいい肉や内臓を食べると病人が回復しやすいってだけです」

「なあんだガッカリだわ。効果あるなら、あの子に脳ミソでも食べさせようかと思ったのに」

「ただ……同物同治はメンタルに効くんです。病状自体は変化はもちろんしません。けれど、患者さんの心の支えって言うんでしょうか、同物同治をしていると、自分は病気を治せる、この病気は治るって思いが強くなるみたいです」

「ただの思い込みじゃない」

 そんなので治れば医者も薬もいらないだろう。紘太の治療にかかった費用。再発しないようにするための降圧剤、認知機能障害のリハビリにかかる費用。保険が適用できたとはいえ、我が家の家計に大打撃を与えている。端的に言えば、病気を治すのは金だ。金があれば、いい病院に入院して、腕の良い医者に診てもらい、高額だが効果のある薬投与できる。

「思い込みってのが大事なんです。実は人間って思い込みで生きてるようなもんなんです。ほら、私たちが何か新しいことを始めようとするとき、これならできるとかこれはできないって思うとその通りになってしまうことがあるでしょ」

「まあ、あるわね」

「アメリカのカーネギーメロン大学で、ある実験があったんです。目隠しをした二人を歩かせて、それぞれ「まっすぐ歩いているぞ! いいぞ!」と「曲がっているぞ! 修正しろ!」と声をかける。そのあと、もう一度歩かせて今度は逆のことを言う。するとどうなったと思います?」

「声に従って歩いたんじゃないの?」

「いいえ、全然従わなかったんです。最初にまっすぐだと言われた人は方向を修正しなかったし、曲がっていると言われた人はまっすぐ歩いているということが信じられなくて、何度も方向を変えていたそうです」

「思い込みのせいで事実を認められなかったのね」

「そうです。でも、逆に考えてみてください。いい方向に思い込みが働くようにすればいいんです。ただ、人間って不思議なもので、悪い思い込みは簡単にできるんですが、良い思い込みは中々できなくって、自分の病気に関してはなおさら難しくなります、そこで必要なのが同物同治って訳です」

「同物同治で病気が治るって思い込みをさせるのね」

「治るって思い込みがあれば、辛い薬物治療やリハビリに耐えられるんですよ」

「メンタルは重要よね。治療の途中でメンタルを病んでホスピスを選択するがん患者さんが多いって聞くわ」

「まあ、私も半信半疑なんで、あんまり本気にはしないでくださいね」

「あれだけ熱く語っておいてそれは無いでしょ」

「同物同治は食事療法の究極系ですからね。夢があるんです」

「ま、食べたら治るなんて夢のような話だものね」

 そう言いつつもレバ串を食べる手は止まらなかった。


 お金が欲しい。寝ても覚めてもそんな考えが頭の片隅にこびり付いている。紘太の手術にかかった治療費の支払いに加えて、毎月の定期健診、週2回のリハビリの費用、先月から通っているフリースクールへの月謝の支払いも我が家の家計にのしかかっている。今まで通りに仕事ができていれば問題ない額ではあったが、今の私には少し難しかった。紘太が家にいる間は私がそばにいないといけないからだ。認知機能障害を抱えている紘太は、日常生活の中でいつパニックに陥るか分からない。フリースクールの中なら講師やスタッフがサポートをしてくれるが、家の中では私だけだ。冷蔵庫を開けたあと閉めるのを忘れるなら可愛い物で、コンロの火を消し忘れて味噌汁が消し炭寸前になっていた時は背筋がゾッとした。そんな訳で夕方の時間を業務に充てられなくなってしまった。そうなると営業所での事務作業を定時前に片付けなければならず、昼の営業に行く時間が減ってしまう。ノルマこそ達成はしているが、ノルマアップによる昇給が望めないのが現状だ。そんなことをぼんやりと考えながら、契約者情報の入力を私は行っていた。

「勝山さん、所長がお呼びですよ」

「ええ、ありがと」

 気が重くなりそうな案件がこれから始まる。デスクの端に追いやられた冷めきったコーヒーを飲み干し、所長室へと向かう。

「失礼します」

「どうぞ、座ってください」

 私がデスクの正面に置いてある椅子に座ると、所長はデスクの引き出しから契約情報シート、セールスレディの成績表とも言われるそれを取りだした。

「勝山さん、今月はノルマ達成していますね。おめでとう、来月もこの調子でお願いしますよ」

「ありがとうございます」

「それと……前に行ってもらったセミナーのレポート、あれ本社でいい評判だったみたいですよ。もしかしたら、社内報に載るかもしれません」

「本当ですか? 嬉しいですね」

 んな訳あるか。社内報に載る羽目になったら、校正に事実確認、他にも何やかやで忙しくなってしまう。ただでさえ時間がないのに、そんな暇なんてない。

「あと、保険料の支払いが大変そうな顧客はいませんか」

「私の担当内では特になさそうですが……何かありました?」

「ええ、深草さんの顧客の一人が半年の未払いを残して飛んじゃいました。どうも無茶な契約を結んだようです」

「そんな……」

 飛ぶ、高飛びのことのように聞こえるがそうではない。あの世へ飛ぶということだ。毎月の保険料が高ければ高いほど家計への負担が大きくなるが、セールスレディの歩合も高くなる。それに目がくらんで無茶な契約をした結果がこれだ。経済的に困窮した人間にとって死亡保険金は仏の様に見え、自ら死を選び、そして死を現金に換金する。

「でも、あの子ピンピンと元気に仕事してましたよ」

「ええ、僕にその報告する時も全然悪びれていませんでした。あの子、長生きしますよ」

 顧客が飛んでも気にせずに仕事ができればセールスレディとして一人前だとよく言われるが、まったくもって背筋がゾッとする。

「ま、勝山さんはそういう無茶はしないでくださいね。息子さんのことで大変なのはわかるけど」

「ええ、もちろんです」

恐らく私は疑われている。所長は私が経済的困窮から、架空の契約や強引な契約で荒稼ぎをするかもしれないと考えているのだろう。

「所長、少しご相談があるのですが、よろしいですか」

「うん、いいですよ。僕が力になれることなら」

「実は息子の介護の関係で経済的に苦しくて、社内融資制度を利用したいのですが」

今は一時的に困窮を改善したかった。返済はあるが、きちんとした環境を整え、紘太の障害が依然したら、業務量を以前のように戻していけばいい。

「勝山さん、申し訳ないがそれは無理です。貴女も知っているとは思うけれど、あれは正社員じゃないと使えない。契約社員には使えないんですよ」

「そこを何とか所長の口添えで、私、必ず返済しますから……」

「……勝山さんが正社員の登用試験を受けて、正社員になれば使えるんですけどね」

それは無理だ。正社員への登用試験自体は難しくない。長年の実績もあるし、後輩社員の育成経験もある。だが、正社員になると紘太の介護が難しくなってしまう。正社員はフレックス、介護休暇、業務短縮制度等が使えるようになるが、給料が固定給になってしまう。社員育成手当が給与に反映されるが、手当が支給される条件は、自分が育成した社員が3年以上の勤続をしていて、さらに優良な成績を残しているかどうかだ。正社員になってすぐに支給される訳では無いのだ。今、金が必要な私には選択できるものではなかった。

「所長、私は今、お金が必要なんです……正社員じゃ、最低でも3年経たないと真っ当に暮らせません」

「うーん、僕が代わりに社内融資で借りて、勝山さんに又貸しするってのもありかも知れないけれど、ウチの社内融資、金利がすごく低い代わりに審査が厳しいんですよね。仮に車の購入に充てたいって言うと、ディーラーの見積書と買った後の領収書を出せって言われちゃう」

叫びだしそうだった、だったら、車を買ってすぐに売って、その差額でもいいからよこせと。だが拳を握り、静かに堪えた。いくら何でも図々しすぎる。だったら夜勤の短期バイトをした方がマシだ。

「……所長、申し訳ありません。先ほどまでの話は忘れてください。夜にやれる副業を探して、何とかしてみます」

「いや、勝山さん、それは良くない、良くないですよ。そんあ無理をされたら、通常の業務に支障がでる。売り上げも落ちるし、精度も悪くなる。貴女の売りは丁寧な保全じゃないですか、あれ本当に評判がいいし、本社からも評価されているんです」

じゃあ、どうすればいいのよと心の中で叫んだ。

「所長が仰られた通り、副業を始めたら支障が出るのは間違いありません。ですけれど、私だって息子との生活があるんです。その生活を守るためだったら、副業ぐらい……」

「副業は何があってもする、という事ですね」

「ええ」

所長はその答えを聞いて、黙り込んでしまった。私もこれ以上話す事はなかったので、そのまま黙る。数分間の沈黙が続き、所長はため息をひとつ吐いて、こちらをジッと見据えた。その目は私が知る所長の眼ではなかった。普段の小賢しい目線ではなく、冷酷に品定めをする眼、過去に一度だけ同じ眼を見たことがある。ヤクザが自分の愛人に多額の生命保険を掛けようとしたことがあった。私の担当顧客ではなかったが、同僚に泣き付かれ、本社の渉外担当も巻き込んで営業所全体で交渉にあたった。その時に乗り込んできたヤクザの眼、相手を値踏みする眼。その冷たい眼と同じ眼を所長はしていた。

「勝山さん、貴女に紹介したい仕事があります」

「えっ」

予想外の答えに戸惑ってしまった。

「あの……紹介してくださるのは嬉しいですけれど、一体どんな仕事なんですか」

「……ここでは離せませんね。ただ、ウチと、五井生命と関わりのある仕事です。勝山さんのこれまでの経験も活かせられる仕事です。もちろん業務時間中に行えますし、仕事をしてくださるのなら、ノルマを下げてもいいぐらいです」

「えっと、ちなみにお給料は」

「そうですね……去年の勝山さんと同じぐらい出せますよ。頑張ればもっと増えるかもしれません」

毎月30万円近く貰えて、労働条件は格別に良い。とても美味しい話だとは思う。だが、肝心の仕事の内容がハッキリとしない。会社ぐるみの不正に協力しろということなのか。いずれにせよ大きなリスクはある、けれどもリターンも大きい。こんな怪しい話に乗るほど私は愚かじゃない。けれど、紘太の為ならなりふり構っていられない。

「所長、そのお仕事の話、謹んでお受けいたします」

「……勝山さん、本当にいいんですか? ハッキリ言いますが、後悔しますよ。間違いなく」

「構いません。しないで後悔するより、やってから後悔した方がマシですから」

内心不安で泣きそうだったが、どんな仕事なのだろうという好奇心で心を震い立たせようとした。



仕事を受けるにあたって。担当者から説明があるらしい。所長から指定された待ち合わせ場所に行くと、そこは雑居ビルの一階にある小さなレストランだった。街中にある普通のレストランといった佇まいで、怪しい感じはしない。意を決して中に入ると、ランチタイムが終わった後なのか、客はほとんどいなかった。

「あの……」

レジで伝票を整理していたウェイターの女に声をかける。

「いらっしゃいませ! お客様、申し訳ありません、ランチタイム終わっちゃったんですよ」

「あの、一人連れが待ってると思うんですが」

「ああ、それでしたら奥にお待ちですよ。ディナーメニューになっちゃいますけれど、ご注文がありましたらお呼びください」

店員に言われたとおりに奥に進むと、そこには真っ赤なコートを着た黒髪のストレートロングの物凄い美人の女がいた。化粧もバッチリ決まっていて、ヴォーグの表紙を飾っていてもおかしくないぐらいだった。女は無心で真っ赤なパスタを音もなく口に運び、時折、思い出したかの様に赤ワインを一口、二口と飲む。その美しい所作に、私は声もなく、呆然とそれを見つめるしかなかった。

「ん……? あれ、勝山さんじゃないですか、こんな所で奇遇ですねぇ」

私に気づいた女が声をかける。こんな美人の知り合いなんていただろうか。記憶を辿っても心当たりがない。

「私、アナタとお会いしたかしら」

「やだなぁ、忘れちゃったんですか? 小堀ですよ。小堀典子! ほら、この間セミナーでご損段に乗った」

「……感じが違うから分からなかったわ。アナタ、化けるの上手ね」

「それはどうも、それより一緒に何か食べませんか。ここの料理、どれも絶品なんですよ。特にトマトを使った料理が……」

「ごめんなさい、私、ここに仕事の話をしに来たのよ。ねえ、アナタの他に誰か来たりしてない?」

「ああ、それなら大丈夫ですよ。私がいますから」

「え?」

「私が仕事の担当者です」

「アナタが……」

言葉に詰まってしまった。彼女みたいな美人が担当で、人に言えない仕事とは何なのだろうか。高級コールガールか何かかと思ったが、三十路半ばのオバサンをどうするのだと自嘲した。

「ま、とりあえず席に座ってくださいよ。お昼食べましたか」

「いいえ、今日は朝からノンストップで仕事してたから何にも食べてないわ……」

「それはいけませんよ。食べなきゃ思考ができません、何か食べながら話をしましょうか」

「そうね……アナタが食べてるのと同じのでいいわ」

「お酒はどうします?」

「頼むわ、歩いてきてるから大丈夫よ」

「仕事中なのに悪い人ですねぇ」

「飲まなきゃやってらんないわよ」

「うーん、これじゃちょっと物寂しいですね。カスレもつけましょうか」

彼女が店員を呼び、注文をした。

「カスレって何?」

「豆のシチューみたいな物ですね。フランスの家庭料理ですが美味しいですよ」

少し待つと、店員がワインとカスレを運んできた。どんな料理かとスプーンで少し掬ってみると、肉と白いんげんが現れた。オーブンで加熱したのだろうか、香ばしい香りが湯気と共に立ち上っている。しかし、それに口を運ぶ期にはなれなかった。

「ねえ、仕事っていったい何なのよ。一体全体、何をすればいいのか分からないわ」

「その話は後にしましょう。まずは食事をして落ち着いてからです」

私はその言葉に従い、カスレを一口食べる。優しい甘味でホクホクとした白いんげんに肉の濃厚なうま味が絡む。

「美味しいわ……」

ため息を吐くように言葉が漏れた。

「でしょう? ここの料理はどれも美味しいんです。仕事場の近くで通いやすいし」

「この近くに仕事場があるのね」

「ええ、近くのマンションの一室です。そこで私は仕事をしています」

「アナタも私と同じで副業?」

「うーん……どうなんでしょう、副業と言うより、生業って言った方がいいかも」

「本業は食事療法士で、生業がその仕事ってことね」

「ええ、人生をかけてでもやりたいのが食事療法士なんですけれど、お金にならないんですよね……生活を成り立たせるために私はこの仕事をしてるんです。ま、嫌じゃないですしね」

彼女の口ぶりからすると、あまりハードな仕事じゃなさそうだ。私は少し安心してワインを一口飲んだ。



私と彼女は食後のデザート、レモンのスフレを食べていた。滑らかな口当たりのスフレは、ワインで緩んだ脳をさらに緩ませていく。結局、私はワインを3杯も飲んでしまっていた。カスレの後に運ばれてきたボンゴレビアンゴがあまりにも美味しすぎたからだ。私は上機嫌でスフレを食べていたが、気づくと彼女が私をじっと見据えていた。その眼を見てゾッとした。所長と同じだ。相手を冷酷に値踏みする眼だ。酔いが一気に醒め、現実に引き戻される。そうだ、私はここに真っ当でない仕事の話をしに来たのだ。

「勝山さん、仕事場へお連れする前に、ひとつだけ聞きます」

「何かしら」

「息子さんのためなら人も殺せますか」

「ええ、出来るわ」

間髪入れずに即答した。町工場の社長が保険金目当てに自殺した時、経済的に困窮した息子夫婦の為に保険金を渡そうと自殺した老夫婦の葬式に出席した時、あんたが生命保険さえ売りつけなかったら、自殺しなかったと遺族に罵られた。その時から私はとっくに人殺しだ。

「セールスレディは人の命で金を稼ぐ仕事。私は何人も人を殺してるようなもんよ」

「……そうですか、わかりました」

彼女は満足げに頷いた。どうやら納得できたらしい

「これから仕事場に案内します。そこで色々と説明しますよ」

彼女の顔からは、さっきまでのゾッとするような眼はすでに消え、柔らかな微笑みが浮かんでいた。

目の前に椅子に縛られた下着姿の女がいる。目隠しとボールギャグで分かりにくいが、下着の趣味からして20代だろうか。長時間監禁されていたのだろう、ボールギャグから漏れる声は枯れていた。これを長時間着けていると、喉がとても乾いてしまう。

「お待たせしましたぁ。いや、準備にちょっと手間取っちゃって、お茶でも淹れましょうか」

「ねえ、この人をどうするの」

「あぁ、その人はこれから殺して肉にしちゃうんですよ」

 すぐにその言葉を飲み込めなかった。頭の中でもう一度、言葉を咀嚼する。人を、これから殺して、肉にする。聞き間違いじゃない。そんな風に聞き間違えていたら、自分の方がどうかしている。

「その……殺すって、この人はアナタに何かしたっていうの」

「いいえ、何も。人を殺して肉にする。それが、私がここでしている仕事です」

「私も殺すっていうの」

「いいえ、殺しません。逃げたければどうぞ。ただ、息子さんがひき肉になって、勝山さんちの食卓に並ぶかもしれませんね」

「素直に逃げるなって言ったらどうなの」

「まあ、そこに座って、お茶でも飲みながら見学していてくださいよ」

 彼女はそう言うと、ポッドから紅茶をマグカップに注ぎ、私の横にある小さなサイドテーブルに置いた。一体全体何なのか訳が分からないが、ここから逃げ出すのは到底できることではない事だけは分かる。

「……分かったわ」

「いい判断です。じゃ、始めましょうか」

 よっ、という掛け声と共に椅子ごと女を抱き上げた彼女は、キッチンの前に置いてあるダイニングテーブルの上に、女があお向けになるように置いた。テーブルの端から、女の頭だけが飛び出るようになっている。彼女はその下にブルーシートを敷いて大きめのポリバケツを置いた。

「長い間、お世話様でした。これで最期なので、安心してくださいね」

 彼女が小ぶりのナイフを取り出して女の首筋に当てる。もうすぐ、あの女は死ぬ。死という現象が今、目の前で引き起こされようとしている。そう思うと不思議と目が背けられなかった。ナイフを首にずぶりと沈むと、ゆっくりと血が溢れ、バケツにパタパタと音をたてて落ちていく。女の身体は細かく震えていたが、バケツに落ちる血の量が増えていくと、震えは穏やかになり、やがて静かになった。

「血抜きが終わりました。これから内臓を取りだしちゃいます」

 彼女は女の身体を椅子から外してテーブルの下に置き、両足首をテーブルの脚に縛り付ける。そのままテーブルを持ち上げて壁に立てかけると、女の脚は大きく開き頭が下になった。目隠しとボールギャグが顔から取り外されると、目隠しの下からどろりとした眼が現れる。病院で見る死人の眼とは明らかに違う。安らかな死ではなく、絶望の中で死んだ人間の眼、直感的にそう感じた。そして、女の下着がナイフで切り裂かれ、とうとう身に着けているものは皮だけとなった。彼女は女の尻穴にナイフを突き入れ腸を引きずり出すと、先端を結束バンドで縛り上げる。そして、下腹部にナイフを刺し、ゆっくりと鳩尾の辺りまで切り込んでから手で腹をこじ開けると、ずるりと膜に包まれた内臓が出てきた。血と内臓の匂い、目の前で起こっている光景に耐えられなくなった私の胃がランチを口まで押し上げる。そして、おえという間抜けな声と共に、ランチは床へとぶちまけられた。何なんだこれは、私は何でこれを見せられているんだ。お前もこうするぞというメッセージなのか。

「うわぁ、そんな所で吐かないでくださいよ……トイレで吐いてきてくれませんか。片付けは私がやっとくんで」

「あっ……うぷ、あ、あんた、なんでこんなこと……」

「仕事だからですよ。あと、趣味と実益です。さ、トイレで全部吐いちゃいましょう。背中さすってあげますから。勝山さんが落ち付いたら、再開しましょうね」

トイレでげえげえと吐いてリビングに戻ると、解体は再開した。彼女はまるで果物を収穫するようにポンポンと内臓を腹から取り出し、バケツに入れていく。この世の物とは思えない悪臭を放つバケツを、彼女は私の目の前に持ってきた。

「勝山さん、これが心臓です。それでこれが腎臓、肝臓……あ、そういえば勝山さん、肝臓が悪いんでしたっけ、食べますか? 新鮮ですから、刺しで食べられますよ」

 私は恐怖と混乱で答えられなかった。ただ、じっと息を殺して、目の前で起こっていることを見ていた。

「だんまりですか? さ、お次は頭に行きましょう」

 そう言うと、彼女は女の首にナイフの刃でぐるりと切り込みを入れ、頭を両手で捻ると骨が折れる鈍い音と共に頭が外れた。

「はい、取れました。若くてかわいい子でしょう?」

 彼女は女の顔をタオルで拭い、私に見せる。死人の眼に映る私の顔は恐怖で引きつっていた。何か。何か別のことを考えなければ、恐怖に支配されてはいけない。このままだと、恐怖で思考が塗りつぶされてしまう。目の前の女の正体について考えよう、そうすれば恐怖より好奇心が勝るはずだ。あんな目に遭うだなんて、よっぽどのことをしたのだろう。サラ金だけじゃ足らず、闇金に手を出して、最終的にヤクザに売られ、こうなったのではないか。

「ねえ、その子、何なの……多重債務者とか何か……?」

「いいえ、違いますよ。この人は五井生命の顧客さんです。確か、五千万円の生命保険がかかっている人です。ま、その説明は追々しますよ。まだまだやる事がたくさんありますからね」

 喋りながら彼女は作業を進めていた。後頭部の皮に切り込みを入れ、手で皮を引っ張ると、ゆっくり皮が剥がれていく。皮と共に耳が取れ、目、鼻、唇の辺りはナイフで切り込み、顔の皮がすべて剥けると、つるりとした顔の筋肉が露になった。目の前にでんと置かれたそれは、あまりにも直視に耐えられるものではなく、吐き気が再び込み上がってきた。キッチンへ走り、シンクに顔を突っ込むと、カス混じりの胃液が飛び出した。

「あんまり汚さないでくださいね。掃除するの私なんですから」

「うるさい……だったら帰らせなさいよ……」

 アンタのせいでしょうとビンタしてやりたかったが息も絶え絶えで悪態をつくのが精一杯だった。

「帰れるもんならどうぞご自由に。あ、皮が取れたので、脳もついでに取っちゃいましょうか。生の脳みそなんて、めったにお目にかかれないですよ」

 彼女は道具入れから小型のこぎりを取出し、頭蓋骨をゴリゴリと切り始める。

「綺麗に丸く切るのが結構難しいんですよね。力をいれすぎると脳に傷がついちゃうんで」

 のこぎりの刃を一周させてから、木づちで頭頂部をコンコンと叩き、切り込みをナイフでこじると頭蓋骨の上側が取れ、中から脳みそが現れた。むき出しの脳を見ても、気味の悪さも吐き気もなく、綺麗な色だと思えた。思考が麻痺してきたらしい。

「見事なもんでしょう。このままスプーンですくって食べちゃいたくなりますけれど、アクが強いんでお勧めできません」

「……アンタも人を食べるの?」

「当たり前じゃないですか! じゃなきゃ、こんな仕事してませんよ。いやー、綺麗な脳ですね。健康そのものって感じです」

 そんなに良さそうな脳なら、紘太の脳と取り換えられないだろうか。そんなことを考えがぼんやりと浮かんでいた。


 脳が取りだされた後も解体は続き、皮を剥がれ、肉をバラバラに切断され、人間だと言われなければ気づけない程、女は肉へと変貌を遂げていった。私の目の前で解体作業をやっていた女は内臓の洗浄を終え、血濡れのブルーシートを洗いがてら、仕事終わりのシャワーを浴びている。この隙に、こっそりと帰ってしまおうか。そんな考えが浮かんできたが、すぐに振り払った。息子が人質に取られている。迂闊な行動はできない。だが、ここにいるのも危険ではないか。

「すいませーん! ちょっといいですかー!」

 風呂場から響いてきた声で思考は中断された。

「何よ!」

「いや、タオルを持ってくるの忘れちゃって! 悪いんですけど、キッチンから持ってきてくれませんか!」

 キッチンには作業用のタオルが何枚か折りたたまれて置かれていた。その横には解体に使われたナイフやのこぎりが洗われて、水切り場に置かれている。私はナイフを一本手に取ってジッと見つめていた。今なら、彼女の腹をこれで抉ることもできる。だが、その可能性があるのにあえてここに置いたのは何故か。答えは簡単だ。私がナイフで襲おうとしても、簡単に対処できるということだ。ナイフを水切り場に戻し、タオルを2枚手に取って風呂場へと向かう。

「はい、タオル持ってきたわよ」

「ああ、どうもすみません」

 風呂場の扉からくぐもった彼女の声が聞こえる。私もシャワーを浴びたい気分だった。返り血を浴びていないとはいえ、血と内臓の匂いが染みついている。

「ねえ、私いつまでここに……」

 その瞬間、風呂場の扉が開き、ぬっと突き出た彼女の手に腕を掴まれ中に引きずり込まれた。

「ちょ、何を」

 そのまま胸ぐらを掴まれて風呂場の壁へと押しやられる。彼女は私の眼をじっと見つめていた。だが、その眼は品定めをする冷たい眼ではなかった。熱く、じっとりとした眼だ。

「ねえ、本当にこれに関わるんですか。文字通り、他人の命を、人生を犠牲にするんですよ。そこまでして息子さんを生かしたいんですか」

「ええ、生かしたいわ。どんな方法であれ、息子を生かせるのなら構わない」

 私の答えを聞いた彼女はニンマリと笑った。

「なにが」

 なにが可笑しいのよと言おうとした口が、彼女の唇で塞がれてしまった。彼女の舌が中に入り込んできて、さらに口は蹂躙されていく。長く深いキスが終わり、唇が離れた瞬間、彼女の右手の指が口内に入り、抗議の声を出そうにも出せなかった。彼女は続けざまに左手で胸をまさぐり、首筋に舌を這わせながら甘噛みを繰り返した。痺れるような快感に、たまらず吐息が漏れる。この女、手慣れている。左手が胸から離れ、下腹部へと伸びた瞬間、私は口の中の指を思いっきり噛んだ。ふざけるな、誰がここまでするか、仕事はするが、慰み者になるつもりはない。かなり深く噛んだらしい、口の中に血の味が広がった。だが、彼女は声も上げない。静かに指を引き抜くと、唾液と血にまみれた指を舐めて、眼を細めた。ダメだ、抵抗しても、こいつを喜ばせるだけだ。そう思うと全身の力が抜けて、私は床にへたり込んでしまった。彼女は私のショーツに手をかけ、一気にずり下ろすと、小さく丸めて私の口に突っ込んだ。そして私を床に敷き伏せ、私の中を指で無遠慮に掻きまわし始めた。私はくぐもった声をショーツの奥から出す事しかできなかった。それが私の心に残された最後の鎧だった。だが、彼女の激しい愛撫で、その鎧も徐々に剥がされ、彼女に身を委ねるしかなくなってしまった。彼女はそのうちに中を掻きまわすだけではなく、クリトリスを弄り始め、私はそれに耐えられず、醜い声をあげながら果ててしまった。

 私が果てたということが分かると、彼女は指を引き抜き、私の身体から離れた。こんなに酷いセックスを、いやレイプをされたことがあっただろうか。彼女の方を見たくなくて、床に目をやると、小さな赤黒い肉片があった。それを見た瞬間、解体されていく女の記憶がよぎり、口に突っ込まれたショーツと共に、苦い胃液を吐き出してしまった。

「あーあ、汚いなぁ」

 彼女はそう言いながらシャワーを私に浴びせ、床の吐瀉物も、肉片も流していく。あんまりだ、あんまりにも程がある。私の目から溢れた涙も一緒に流れていく。彼女は私の股を開き、再び指で中を掻きまわし始めた。

「うわ……ぐちゃぐちゃじゃないですか、息子の命が握られているのに、はしたないお母さんですねぇ」

 そう言うと、私の髪を掴み、背けていた顔を自分の方に向けさせ、唇を塞いだ。私は吐瀉物混じりのキスをされながら、屈辱と痛みに嗚咽するしかできなかった。

「ねえ、この店って何なのよ」

「いや、普通の店だと思いますけど……」

 私の目の前にはパスタ・コン・サルデがある。対する彼女の前にはスパゲッティ・カルボナラがある。二つともパスタ料理ではあるが、前者はイタリアはシチリア島の伝統的なパスタで、後者はフランス式カルボナーラだ。国籍の違うこのパスタが、同時にテーブルに供されることはまずありえない。

「イタリアとフランスのパスタが一緒に食べられるなんて、異常よ。しかも、本格のパスタなんて」

「ああ、それはですね。ここ、シェフが二人いるんです。ご夫婦でして、奥さんがフランス人のイタリアンシェフ、旦那さんがイタリア人のフレンチシェフなんです。だから、それぞれの料理が食べられるお得な店なんですよねぇ」

 そう言うと、彼女はパスタをナイフで切り、フォークに乗せて一口食べた。私もそれに続き、パスタをフォークにくるりと巻き付け、口に運ぶ。フェンネルの甘く爽やかな香り、イワシの濃厚なうま味、ブカティーニのもちもちとした食感が混然となり、思わず頬が緩む。いけない、ここには仕事の話で来たのだった。辛口の白ワインを一口飲み、舌をしゃっきりとさせる。

「それにしても、勝山さん詳しいですね。料理苦手だって言ってませんでしたっけ」

「セールスレディなんて仕事してるとね、ランチ営業しなきゃいけないのよ。おかげで色んな店に連れてったり、連れてかれたりしてる内に詳しくなったって訳」

「なるほど……」

「これ本当に美味しいわ。ここのシェフ、いい腕してるわね」

「それは良かったです。勝山さん、今日は来てくださって、本当にありがとうございます」

「アナタが呼び出したんでしょう」

「先日のことで、来てくれないんじゃないかと思ってたので」

 先日のこと、あまり思い出したくないこと。少なくとも食事中には思い出したくない。

「息子を人質にしておいてよく言うわ。悪いと思うなら……」

 悪いと思うなら、何故あんなことを私にしたのか。

「ねえ、仕事の話に入る前に一つだけいい?」

「ええ、どうぞ」

「あれは仕事に関わる人にいつもやっている通過儀礼? それとも。私だからやったの?」

 彼女はすぐに答えない。ワインを少し飲み、こちらをじっと見て黙っている。言葉をじっくりと選んでいるように思えた。

「……半分は通過儀礼です。自分が、どういうことに関わるのか分からせるためです。そうしないと、欲をかいて自滅しますから。見学させることについてはそうです」

「じゃあ、風呂場でのことは」

「私、仕事の後は高ぶっちゃうんです。いつもは気持ちが落ち着くまでシャワーを浴びるんですけど、その、女の人が近くにいたので、その……」

「……あんまりにもムラムラしたから、行きずりの女を犯したってことね」

「そ、そんな言い方って」

「だって、その通りでしょう」

「それはそうですけれど……」

 泣きそうな彼女の顔を見ると、どうにもいたたまれなくなる。忘れよう、そう思った。あんな酷いこと、忘れた方がお互いのためだ。若気の過ちは引きずってはいけない。

「ま、いいわ。それよりも、仕事の話をしましょうよ。私だって暇じゃないの」

「あ、はい、そうですね」

 彼女は椅子の側に置いていた鞄から書類を取りだそうとした。

「でも、その前に食事よ」

「えっ、いいんですか」

「せっかくのパスタが冷めちゃうのは勿体ないわ」

「それもそうですね! いただきます!」

 さっきまでのどこへ行ったのか、笑顔でパスタを頬張る彼女を見ていると、私の憂鬱な気持ちもどこかへ行ってしまった。



「あまーい……」

 食後のデザート、クリーム・カラメルを食べながら、恍惚の笑みを浮かべている彼女を見ていると、これから血生臭い話をするなんて、とてもじゃないが信じられない雰囲気だ。

「ねえ、美味しいのは分かるけれど、そろそろ仕事の話に移ってくれないかしら」

「……ああ、そうでしたね。それをしないといけませんでした」

 しまった、私の方から話を切り出さなかったら、このまま和やかに食事を終えて帰れたのかもしれない。

「えっと、勝山さんにやっていただくのは主に作成契約です」

「解体の手伝いとかじゃなくて?」

「えっ、やってくれるんですか」

「冗談、餅は餅屋って言うでしょ。作成契約ね……」

 作成契約は、セールスレディの最後の手だ。どうやってもノルマが達成できないとき、家族や友人の名義を使い、本人も知らない架空の契約書を作成し、ノルマを無理やり達成させる。もちろん保険料はセールスレディの自腹だ。営業マンで言うところの自爆に近い。だが、営業マンの自爆と違い、作成契約は法令に違反してしまう。これがバレると、金融庁の職員がドカドカと営業所に乗り込んできて、私や所長が逮捕されてしまう。いや、逮捕されるのは私だけだ。この役割の替えなんて幾らでもいるはずだ。リスクが高い、だがノルマと報酬が貰えるし、紘太に費やす時間も得られる。何より、あそこまで見せておいて、ここで断ればどうなるか馬鹿でもわかる。

「難しいですか」

「いいえ、全然。きちんと名義さえあれば書類何て簡単に作れるし、ウチの所長も一枚噛んでいるんでしょ。なら、説明も楽で済むわ」

「良かった。作成契約って聞くと嫌がる人が多くて、いつも困っちゃうんですよね」

 そのセールスレディがどうなったか、考えると怖気がする。

「それよりも、話を進めてちょうだい。一口に作成契約って言っても色々あるんだから」

「先日、勝山さんの前で解体した人は五井生命の顧客だってお話しましたよね」

「ええ、そうだったわね……ねえ、もしかして、あの子ってどこかの会社の役員だったりする?」

「よく分かりましたね。そうです、小さな会社ですけれど、あの人は会社の役員です」

 何となく話が見えてきた。私の予想が当たっているなら、確かにこれは金になる話だ。

「アナタ達、その辺の一般人をペーパーカンパニーの会社役員に仕立て上げて、法人契約を作成して、殺して、肉にして、そのついでに保険金も回収してるなんて言わないでしょうね」

「……なんで正解を言っちゃうんですか。説明用に登記簿とか、契約書の控えとか、色々準備してきたのに!」

「あら、ごめんなさい。私、これでも優秀なセールスレディなのよ。そのぐらい察しがつくわ。顧客を殺すだなんて、そんな勿体ないこと普通はしないもの」

 顧客が長生きしないのは保険会社にとって損だ。その顧客を会社が殺すとなれば、理由は限定される。金か、不祥事だ。

「あーあ……本当にもう……」

「悪かったわよ。大体の構図は分かったけれど、説明はしてちょうだい。詳細を聞かないとやれるものもやれないわ」

「……勝山さんなら、説明をするまでもないと思いますけど、普通の保険契約は個人と保険会社で行われるので、契約者=被保険者になります、なので、保険金は被保険者の家族でないと受け取れません。だけど、法人契約は保険会社と法人の間で交わされる契約です。契約者が法人で、被保険者は会社役員となるので、保険金の受け取りは法人になります」

「良くできました。ねえ、セールスレディにならない?」

「茶化さないでくださいよ……私たち、カニバリストは人肉を定期的に食べたい、そのついでに金も欲しい、そこで生命保険の法人契約を利用することにしました。失踪しても騒がれなさそうな人間をピックアップして、本人の知らない所でペーパーカンパニーの役員にして、法人契約を結んでから殺して、肉にして。保険金を回収。無駄のないシステムです」

「成程ね……ペーパーカンパニーの登記簿の写しを見せてもらえる?」

「どうぞこちらです。一応、表向きは輸入雑貨の問屋ってことになっています。それと会社の決算書です」

 会社の設立から10年程経っている。年間の収益もしっかり上がっている。この会社なら審査も無事に通るだろう。これなら確かに無駄のないシステムだ。だが、一つだけ穴がある。

「死因はどうするの」

「肉の死因を決めて、死亡診断書発行する開業医が何名かいます。私たちは色々な職業のカニバリストの集まりでして、運送屋、興信所、会計士、弁護士、医師、警察、官僚と、まあ様々な人種がいまして、割と自由がきくんですよ。あ、もちろん五井生命の役員さんや社員さんも何名かいますよ」

「……ねえ、それだけのメンバーが揃っているなら、私って必要ないんじゃないの」

「そう思われるかもしれませんが、肝心のセールスレディが我々には不足しているんです。一人で何件も作成契約をしていたら、目立っちゃいますから」

「他にもやっている子がいたりするって事?」

「それは内緒という事で……」

「まあ、知っていて得することでもないしね。仕組みについては分かったわ。報酬について教えてちょうだい」

 ここが肝心だ。作成契約というリスクを負うのだから、それ相応の実入りが欲しい。

「勝山さんにお支払する報酬は作成契約一件につき五十万円ってところです」

「あら、少し安いわね」

「けれど、作成とはいえ新規契約ですから、ノルマと歩合の足しになりますし、結構実入りは良くなりますよ」

 月に一件の契約を取るのにかかる経費はセールスレディ持ちだし、契約に漕ぎつけるまで1カ月以上かかることもある。その経費と時間を使わずに歩合とノルマが得られるのは魅力的だ。

「確かに、そう考えれば悪くないわ。契約はどれくらいの規模でやればいいかしら」

「死亡保険金が五百万円ほど出る契約で大丈夫です。あと、オプションなんかもつけちゃっていいですよ」

「助かるわ。会社から新オプションの契約ノルマが出ると大変なのよね」

 保険の新商品は必ずしもいい物とは限らない。会社の経営状況によっては利率の悪い新商品を客に売りつけることもある。セールスレディはそれを知っていながら客に売るのだから、人でなしの部類に入る。

「あと、毎月の保険料はどうすればいいのかしら。まさか、私が払うなんて言うんじゃないでしょうね」

「それはありません。回収済みの死亡保険金でその辺は支払っていますから、私や勝山さんの報酬もそこから出ています」

 全くもって良く出来ている仕組みだと感心する。

「えっと、説明はこんな所でよろしいでしょうか」

「ええ、ありがとう」

「じゃ、早速ですけれど、勝山さんには今日から仕事に取り掛かってもらいます」

 彼女は鞄から一枚の書類と顔写真を取りだして私の目の前に置いた。可愛らしい女性が写真に写っている。書類には彼女の住所、氏名、年収、家族構成が書かれていた。名前は木瀬頼子、24歳で独身、市内在住の普通のOLだ。兄弟はおらず、両親もすでに事故で他界、天涯孤独の身の上か。

「この子の作成契約をすればいいのね」

「ええ、そうです」

「分かったわ。じゃ、今月中に契約を作っちゃうから」

 24歳で会社役員というのは少し無理がありそうなものだが、まあ何とかするしかない。

「あと、この人は3年ぐらい寝かせてから絞めますので」

「3年後ね…」

「心が痛みますか?」

「いいえ、全然。たまにね、この子みたいに身寄りのない人の担当をすることがあるんだけど、いつも思うのよね。この人が死んだら、何かあるのかしらって。ほら、身寄りのある人なら死亡保険金がでる契約になるから、死んだ後に残る物があるじゃない?けれど、身寄りのない人は死亡保険金なんて設定しないわ。この仕事してるとね、この人が死ねば幾らって感覚が染みついちゃうのよ。そのせいで、こういう子を見ると勿体ないなって思ってたけれど、この仕組みなら無駄にはならないじゃない。身体は肉にされて、保険金はきちんと分配されて、世の経済を回していくわ。世のため、人のためになるのよ」

 それに身寄りがなく、遺族のいない人間は、死んだとしてもあまり困らない。精々、勤務先が人手不足になるだけだ。

「ええ、その通りです。世のため、人のためです」








 午前の外回りを終えて営業所に戻ると、内勤の子が書類をデスクに持ってきてくれた。

「勝山さん、先日の法人契約の件なんですけれど」

「あの雑貨輸入の問屋さんよね。何か不備でもあった?」

「いいえ、何も。無事に審査も通ったので、本社から書類が届いたんです。お客さんの所に直接持っていくんでしたよね」

「ええ、郵送で送ると、請求書の山に紛れ込んでしまうから、出来次第すぐに持ってきて欲しいって、ハタ迷惑よねぇ」

「えーっ、これから持っていくんですか?」

「そうなるわね。お昼ご飯も食べてないってのに……」

「あ、そうだ! 今朝、城山さんが萩の月を持ってきてくれたんですよ。仙台のご実家に帰られたとか、お昼ご飯代わりに持っていったらどうですか」

 萩の月は大好物の一つだ。フワフワな生地と濃厚なクリームの組み合わせがたまらない最高なお菓子。けれど、買うにはちょっと腰の引ける価格のお菓子だ。

「あら、ありがと、ひとつ貰っていくわ」

「もう一つどうですか。私、甘いのあんまり好きじゃなくて」

「いいの? じゃ、もうひとつ」

 今日はツイてる。大好物が二つも手に入った。

「じゃ、お客さんの所に行ってくるわ。今日は他にも回って直帰するから」

「はーい、分かりました」

 営業所から出て車に乗り込み、先方に電話をかける。4コール、5コール……スマホからはコール音だけが聞こえてくる。今日は別の所を回ろうかと思った瞬間、コール音が途切れた。

『はい、小堀です』

「もしもし、勝山よ。今、お電話大丈夫かしら」

『ええ、大丈夫です』

「契約の件、無事に本社の審査が通ったわ。これから書類を渡したいのだけれど、時間はある?」

『大丈夫ですよ。この間のマンションに来てください。今、そこにいますので』

「分かったわ、じゃあ後で」

 あのマンションにいる。つまり、仕事中だということだ。数週間前のおぞましい記憶が脳裏によぎる。だが、それに怯える訳にはいかない。大きく息を吸い、ゆっくりと吐き、心を落ち着かせる。立ち向かわなければ、何も得られない。車のキーを回し、エンジンの音で心を昂らせた。


 仕事場のあるマンションは駅から車で30分の場所にある。郊外の静かな住宅地にぽつねんと建っていて、どこにでもあるような普通の分譲マンションだ。実際、普通のマンションなのだろう、幼稚園から帰ってくる親子や、夕飯の食材を買いに行く主婦がいた。このマンションで人が定期的に殺され、肉にされていることに誰が気づくだろうか。そんなことを考えながら、仕事場の部屋番号を入力し、インターホンを鳴らす。

『はーい』

「こんにちは、中塚です。扉を開けてもらえる?」

 このマンションに来るとき、私は勝山ではなく、中塚と名乗ること。彼女からの指示だ。

『今開けますね』

 エントランスの入り口が開き、中で井戸端会議をしていた主婦たちが、ちらりとこちらを見る。だが、私の格好を見てセールスレディだと判断したのだろう、すぐに視線を外した。こんにちはと控えめに挨拶をしながら、足早にエレベーターに乗り込んだ。セールスレディという生き物は歓迎されない。

 仕事場のある階にエレベーターが止まり、部屋へと向かう、玄関のチャイムを鳴らすと、中から足音がして扉が開いた。

「どーも、お待ちしてました。中へどうぞ」

開いた扉の隙間から、むっと鼻につく臭いが漏れ出た。人が肉にされる時の臭い、内臓と血の臭い、血生臭いの一言では説明がつかない臭いだ。

「もしかして、お仕事中だったかしら」

「大丈夫ですよ。あらかた終わったところなんで」

 リビングに行くと、臭いはいっそう濃くなった。ダイニングテーブルの上には生首、皮つきの分割された肉、ジップロックに小分けされた内臓が所狭しと並んでいる。

「肉に皮がついているじゃない」

「それ、お客さんからのリクエストなんですよ。クリスマスにオーブン焼きにするから皮つきを頼むって言われちゃって」

「そっか、もうクリスマスだったわね」

「何か息子さんにプレゼントされるんですか?」

「いつも悩んじゃうのよね。あの子、ゲームとかしないし……去年は包丁をプレゼントしたから、今年は砥石にしようかしら」

「なんか主婦みたいな子ですね」

「主婦みたいというか、主婦よ。料理は上手いし、家事もやってくれていたわ」

「いいお子さんですね……あれ、そういえば勝山さん、今日は吐かないですね」

 確かにそうだ。肉にされた人間を見ても嫌悪感が全く感じられない。寧ろ、好意すら感じている。この肉から数百万の金が得られるのだ。人肉は嫌悪する物ではなく、価値のある物に私の中で変わっていた。

「ま、いいです。それよりも書類をいただけますか」

「はい、どうぞ。千五百万の生命保険で仕上げたわ」

「かなり大口じゃないですか! 勝山さん、前も言いましたけど、一件につき五十万円ですからね」

「分かってるわよ。けれど、大口の方が歩合がいいからね。そこで儲けさせてもらうわ」

「強かですねぇ……」

「ついでよついで、あ、萩の月食べる? 職場で貰っちゃって」

「大好物です! お茶淹れてきますね!」

 うきうきとキッチンで紅茶の仕度をしに行った彼女をよそに、テーブルの上の内臓のジップロックを寄せてスペースを作る。

「お待たせしました。あ、テーブルの上ありがとうございます」

「今回も、随分かわいい子を殺したのねぇ」

「ええ、まあ、その方が解体してて楽しいので」

「私が言えたもんじゃないけど、アンタも割と強かよね」

「まあまあ……あ、萩の月いただきますね」

 彼女が食べるのに続けて私も萩の月を一口食べる。フワフワの生地の食感と濃厚なクリーム味が幸せに導いてくれる。

「美味しい……これ、滅多に食べられないんですよね」

「そうそう、通販もやってないし、東北でしか買えないのよね」

「似てるお菓子で、鹿児島のかすたどんっていうのも安くて美味しいんですけれど、やっぱり萩の月ですよ」

「分かるわ。けど、東北まで行って買うかっていうとね……」

「あー美味しかった……あ、そうそう今回の勝山さんの報酬です。ありがとうございました」

 そう言って彼女が差し出した封筒を受け取るとズシリと重い。

「ねえ、これ五十万以上あるわよね」

「あ、分かります? 今回、初めてのお仕事って事でイロ付けて百万にしてもらいました。それと……」

 彼女は脇に寄せられていたジップロックの山の中から一つを手に取り、私の目の前に置いた。

「……これは何かしら」

「初仕事完了って事で、私からのお祝いです」

 ジップロックには『セルヴェル』と可愛らしいカタカナの文字がサインペンで書かれている。袋の中身は小さくカットされていたのですぐに分からなかったが、先日に見た脳と同じ色をしていた。

「前に話した「同物同治」の話を覚えています? これを息子さんに食べさせてみてくださいよ。きっと病気も良くなります」

「私の息子に人肉を食べさせようっていうの?」

「まあ、無理にとは言いませんけど」

 前に彼女から聞いた同物同治の話は半信半疑ではあったが、魅力的だった。正直縋りつきたくもある。だが、人間を食べる必要があるのだろうか、豚の脳でもいいのではないか、まずはそれで様子を見た方が

「ねえ、同物同治って言うなら、豚の脳でもいいんじゃないの」

「そりゃ勿論いいですけれど、究極の同物同治は共食いですよ。その証拠に私はこんなに健康です」

「何よそれ……」

 目の前に置かれた脳をじっくりと見つめる。これから先、人間の脳が手に入る機会などあるだろうか。このチャンスを逃して後悔したくはない。しない後悔より、やってからの後悔だ。

「……貰うわ」

「分かりました。じゃ、クーラーボックスの準備してきますね」

「ありがとう、それとついでに一つお願いがあるの」

「何ですか?」

「脳料理について教えて欲しいの。食べたことがない食材の調理法なんて分からないわ。できれば家に来て教えてもらえると助かるんだけど」

「えー……勝山さんのお宅にですか」

「あら、折角の脳が美味しく食べさせてくれないの?」

「や、それはそうですけれど……うーん、分かりました。お宅にお伺いしてレクチャーします」

「ありがと、助かるわ」

「その代わり、ここの片付け手伝ってくださいね。パパッと片さないと夕飯の時間に間に合いませんから」

「任せてちょうだい」

 貴重な食材と料理人を確保できたのだ。それぐらいしないとバチが当たる。



 仕事場の片付けを終え、途中のスーパーで食材を買い込んで家に帰ると、部屋の中は明かりもなく静まり返っていた。

「あれ、息子さん帰ってないんですか?」

「寝ているのよ。少しでも脳の負担を減らさないといけないから、病院の先生の指示でね」

「成程……じゃ、あまり騒がしくしない方が良さそうですね」

「ええ、そうしてちょうだい」

 キッチンの上に食材を並べていく。脳、小玉ねぎ、にんじん。調味料は市販のデミグラスソース、塩コショウにトマトケチャップ、赤ワインだ。

「結構シンプルな材料ね」

「ま、初心者向けの有りもので簡単に作れる料理ですからね」

「助かるわ……難しい工程があったりすると困っちゃうから」

「大丈夫、作り方も難しくありません。じゃ、まずは脳の下茹でからやりましょう。ザルに脳を入れて水で洗って、血管とぬめりを取ってください」

 彼女の言葉に従い、ザルに脳を入れて水で洗う。初めて触る脳は何とも言えないぬめりがある。だが、その感触も水で洗うと取れていき、もち肌のような感触になった。

「血管とぬめりが取れたわ」

「いいですね、次は下茹での準備です。薄切りにしたショウガと一緒に沸騰したお湯で5分茹でましょう」

「そのままデミグラス煮込みにするのはダメなの?」

「脳はアクが強いですからね。下茹でしないとダメです。初めて食べる料理が不味かったら、二度と食べたくなくなっちゃいますよ。手間かもしれませんけど、丁寧にですよ」

 確かに彼女の言う通りだ。初めて食べる料理が不味かったら、ずっとその思い出が残ってしまう。ここで手は抜けない。湯を沸かし、薄切りにしたショウガと一緒に5分下茹でしザルに上げる。小玉ねぎは皮をむき、にんじんは大きめの乱切りにしてから、サラダ油を加えた鍋で炒める。野菜に火がある程度入ったら水と脳を加える。沸騰したら弱火にしてアクを取り、野菜が柔らかくなっていたら赤ワイン、デミグラスソース、トマトケチャップを加えて良く混ぜ、弱火で15分煮込めば完成だ。

「できたわ……ねえ、味見してくれる?」

「えっ、勝山さんがされた方がいいんじゃ」

「いや、だって脳の味とか出汁の味何て分からないし……食べなれてるアンタの方がいいでしょ」

「そりゃそうですけど……」

「へえ、それ脳みそ煮込んでるんだ」

 不意にかけられた声に、二人してびくりとしてしまった。

「お、おはよう、紘太」

「おはよう、お母さん。ねえ、その人って友達?」

「こんにちは、紘太君だっけ? 私は祥子さんのお友達の小堀典子、典子でいいですよ。今日はね、お料理の苦手なキミのお母さんに料理を教えに来たんだよ!」

「ちょっと、その言い方はないでしょう」

「事実じゃないですか」

「そりゃあ、まあそうだけど」

「典子さん、お母さんには厳しく教えてやってください」

「もちろん、ビシバシやっていきますね」

「ねえ、その鍋の中身って本当に脳みそなの」

「えっと……」

素直に脳と言っていいのだろうか、言葉に詰まってしまう。

「ええ、脳みそですよ」

「いや、ちょっと」

「いいんですよ、大体さっきもう聞かれてるじゃないですか。これはですね、キミの頭が良くなるように、お母さんが頑張って手に入れてきたんです。豚の脳みそだけど、きっとキミの頭を良くしてくれますよ」

「お母さん、ありがとう。僕のせいで大変なのに」

「いいのよ、お母さんだもの」

「典子さんもありがとう、お母さんに料理を教えてくれて」

「ま、折角の脳みそが美味しく食べられないのはもったいないですから」

「いい人ですね、典子さん」

「私が? 私がいい人な訳ないじゃないですか」

「そうかなぁ」

 そうだぞ我が息子よ。この女は人殺しの食人鬼で、ついでに強姦魔だ。とは言う訳にもいかない。

「あら、いい人じゃない、脳みその手配も手伝ってくれたし、料理も教えてくれてるし」

「もう、祥子さんまで!」

「それよりも……紘太、顔に涎の痕がついてるわよ。洗面所で顔洗ってきなさい」

「はーい」

 紘太が洗面所に消えてから私は口を開いた。

「本当にありがとうね、危うく疑われる所だったわ」

「いやあ良い子ですね。本当に認知機能障害なんて抱えてるんですか?」

「今に分かるわよ……」

「お母さーん! 水ってどこを捻れば出るんだっけー!」

「水色の丸が描いてある所を右に回せば出るわよー」

「ありがとー!」

「ね?」

「なるほど、確かに……」

 目の前でぐつぐつと煮えている脳が息子を少しでも良くしてくれればと思わずにはいられなかった。



「あの、本当に私も食べなきゃいけないんですか」

「だって典子さんに手伝ってもらったのに、食べてもらわない訳にはいかないでしょ。それにお母さんの友だちなら一緒にご飯食べようよ」

「諦めなさいよ。紘太はこうなると絶対に聞かないから」

 料理が完成して帰ろうとしていた彼女を紘太が強く引き止めた。私の友人というのが珍しかったのだろう。

 私には友人と呼べるものがいない。過去の所業と今の仕事のせいだ。顧客とは友人の様に接してはいるが、あくまでもビジネスライクの関係であって友人ではない。

「……分かりました。食べていきます」

 とうとう根負けした彼女はリビングのソファーに荷物を置き、キッチンにやってきた。

「祥子さん、盛り付け手伝いますよ」

「ありがとう、じゃあポテトサラダを盛り付けてちょうだい」

「はあい」

「お母さん、煮込みの方はテーブルに運んじゃうね」

 そうして食卓の上に料理が並び、食事の準備は整った。

「いただきまぁす」

「いただきます」

「いただきまーす」

 食卓には脳のデミグラスソース煮込みとハンバーグのデミグラスソース煮込み、ポテトサラダ、コンソメスープが並んでいる。脳は紘太にだけ、私と彼女はハンバーグだ。

「お母さんたちは脳みそ食べないの?」

「ええ、あんまり量が無いからね」

「ふうん……せっかくだから一緒に食べたかったな」

 紘太が脳をスプーンで掬い口に運ぶ。初めての食感と味に困惑していたが、二度三度咀嚼するうちに目が細くなっていく。

「おいしい……脳っておいしいんだね」

「でしょう? 舌がとろけそうになっちゃう味ですよね」

「うん! ねえ、やっぱりみんなで食べようよ。こんなに美味しいの僕ひとりだけで食べるのもったいないよ」

「じゃあ、一口貰っちゃいます」

「はい、どうぞ」

 紘太が彼女に脳が乗ったスプーンを差し出すと、彼女は口を大きく開けてぱくりと食べた。

「んー……とろっとろのフワフワでたまんないですねぇ」

「はい、お母さんも」

 紘太が笑顔で脳がたっぷりと乗ったスプーンを差し出してきた。これは人間の脳だから、お母さん食べたくないのよと言えたらどんなに良かったか。だが、ここで躊躇していたら紘太に怪しまれる。

「ありがと、じゃ貰うわね」

 意を決してスプーンを受け取り、口に運ぶ。フワリとした感触が舌に乗った。まるで絹ごし豆腐だ。吐いてはいけない、吐いてはいけないと思いながら、ゆっくりと咀嚼する。とろりとした濃厚な脂のうま味が舌全体に広がっていく。意外と、いやかなり美味い。人間の脳でさえなければ、月に一度は食べたくなる味だ。

「お母さんおいしい?」

「……まあ、美味しいわね」

「あーあ、赤ワインがあったらなぁ。辛口でグワーッとくる奴」

「あるよ」

「あるの?」

「駄目よ、あれはお母さん特別な日に飲むために、大事に大事に取ってある奴よ」

「なに言ってるの、今日は特別な日だよ! お母さんの友だちが来たんだもん」

「そうですよ! 特別の日に特別の料理があるんですから、ここに特別なワインを加えない訳にはいかないでしょう!」

 そう言って冷蔵庫へと二人は向かっていく。

「このワインなんだけど」

「わぁ、わざわざ新聞紙にくるんであるんで……シャンベルタンじゃないですか! それも、マゾワイエールなんて一本六万はしますよ……」

「えっ、これそんなに高いの」

 ああ、バレてしまった。毎月細々とやり繰りして貯めたへそくりで買ったのに。

「そりゃあもう! へへへ……嬉しいなぁ」

 彼女はいつの間にか手にしたオープナーでコルクをするすると開けていた。まだ寝かせていたかったが仕方がない。

「ああもう分かったわよ。今日は特別! ワイングラス持ってきて!」

「お母さん、ワイングラスなんて一個しかないよ」

「じゃあ、まずは私から……」

 紘太からワイングラスを受け取り、ワインをゆっくりと注いで飲もうとする彼女の手からワイングラスをサッと奪い取る。

「こら、私のワインだって言ってるけでしょ」

 そう言って、ワイングラスを一気に煽る。豊満な香りとぐっと力強い風味が、脳でとろけていた舌をぐっと引き締める。これはたまらない。

「あ! ズルい!」

「ずるくない!」

 そうやってワイングラスを取り合う私たちを紘太がニコニコと見つめていた。



 夕食が終わり、紘太が寝てからも私たちはリビングでちびちびと酒を飲んでいた。

「それにしても、祥子さんお酒強いですねぇ」

「まあ、仕事の付き合いもあったし、お客さんと食事に行って昼から飲まされることもあったからね」

 シャンベルタンはとっくに空になって、調理用に買ってきた安い赤ワインも飲み干し、冷蔵庫に残ってた缶ビールが最後の酒だ。

「あの、そろそろキツイんでソファーお借りしてもいいですか」

「別にいいけれど、泊まるつもり?」

「時間見てくださいよぉ。終電なんかもうないです」

「あら、本当だわ。今日はありがとうね、久々にあの子の笑顔が見れちゃった」

「別にこれぐらい大丈夫ですよ。アフターケアってやつです」

「アフターケアね……」

 ソファーに横たわる彼女は顔を紅潮させている。だいぶ飲みすぎたのだろう、息も荒くなっていた。

「なら、もう一つアフターケアをお願いしようかしら」

 そう言って彼女の横に座り、缶ビールを煽る。

「何ですか、あの時のこと、まだ引きずってるんですか」

「あれだけやっといてよく言うわよ」

 彼女に覆いかぶさると、酒臭い息に混じって濃い女の臭いがした。仕事をすると昂ってしまうのは本当らしい。

「……紘太君が起きちゃうんじゃないですか」

「大丈夫よ。あの子、一度寝るとすぐに起きないから」

 唇を近づけると彼女の方からキスをしてきた。互いの唇を吸い私と彼女で舌を味わった。ゆっくりと長く深く、声が漏れないようにひそやかに。

 私の三十路の身体が熱を帯びて、気が狂いそいうだった。こういった快楽で狂うことはもう無いだろうと思っていた。だが、彼女が私の身体を目覚めさせてしまった。その責任を彼女に取ってもらわなければならない。彼女の脚を掴んで股を開くと、そこは情欲にまみれていた。唇を吸いながら指を優しくゆっくりと彼女の中に沈めていく。

「あのう……祥子さん、随分と手慣れていませんか……」

「散々やってきたからね……その話は後でいいでしょ?」

 返事も聞かずに私は彼女の乳首に吸い付き、指の動きを激しくしていく。彼女の押し殺した声を聞きながら激情に身を任せていった。

「どうだった?」

 数回のエクスタシーに、声も絶え絶えになっていた彼女の息が整ってから尋ねてみた。

「いや……もう、すごいとしか」

「いい勉強になったでしょう? この前みたいなセックスじゃ、人を支配できても愛されるようになるなんて無理よ」

「……バレてましたか」

「当たり前でしょう。ウブな子ならともかく、私にはお見通し」

 人を精神的に支配するには二つの手段がある。暴力と快楽だ。この二つで手っ取り早いのは暴力だ。人は暴力の恐怖に弱い、だが暴力に恐怖を感じなければ意味がない。快楽は時間がかかるが、人の心に深い楔を差すことができる。人を支配するなら快楽が一番だ。

「あのう、祥子さんってビアンなんですか?」

「馬鹿、息子がいるんだからバイに決まってるでしょ。まあ、学生時代に派手に遊んでたのよ」

「本当にはしたないお母さんですね」

「アンタに言われたくないわよ。全く、もうこういうのとは縁を切ったつもりだったんだけどね……責任、取ってもらうわよ」

「もちろんです」

 それから彼女が、典子がしてくれたセックスは、とても優しいものだった。私の脚を掴んで股を開き、丁寧なクンニリングスをして、それから指が与えられゆっくりした愛撫が行われた。仕事場で彼女がしたレイプまがいのセックスとは違い、情愛に溢れた素敵なセックスに私は気を何度もやってしまった。

「ああ……良かったわ……アンタ、こっちの方がいいわよ。こっちの方が人を縛り付けられるわよ」

「そりゃどうも、けれどビアンかバイのセールスレディなんてそうそう見つからないですよ。当分は祥子さんだけを使わせてください」

「ねえ、前から気になってたんだけど、私の前任っていたの」

「ああ、食べちゃいましたよ。あんまり使えない人だったんで」

「あら、じゃあ私は長生きできそうね」

「ええ、モチロンです。祥子さんなら定年まで働けますよ」

「ちょっと、定年まで仕事させる気なの?」

「いけませんか」

 割と危ない橋を渡る仕事だ。定年までやるなんてとんでもない。だが、彼女が仕事のパートナーで、時々こうしてくれるならいいかもしれない。

「ま、働けるうちは付き合うわよ。少なくともうちの子が成人するまではね」

 そう言って彼女の頬に優しく口づけをした。



 脳が欲しい、それも人間の脳が。

 狂人のような欲望が私の脳に渦巻いている。

 紘太に食べさせた脳は驚くべき効果をもたらしてくれた。典子と朝まで交わった日の翌朝、起きてきた紘太はフリースクールに行く仕度をすでに済ませていた。いつもなら私と一緒にしないと忘れものが必ずあるのに、確認すると完璧に仕度ができていた。効果はされだけではなかった。次の日になると、紘太が夕飯を作っていたのである。認知障害を抱えてから、紘太は一人で料理ができない。どうやっても料理の手順が一つか二つ抜け落ちてしまうからだ。恐る恐る口にした肉じゃがは以前の紘太が作っていた味そのものだった。その効果は数週間続いた。私は豚の脳を通販で買って紘太に食べさせたが、同じような効果は現れなかった。その翌月に、典子から脳が手に入ったと連絡があった。そして、人間の脳を食べた紘太は再び回復した。そう、人間の脳でなければ効果が無かったのだ。だが、人間の脳は簡単に手に入る物ではない。唯一の入手先である典子に聞いても、脳のオーダーが続いていて横流しできないと言う。

 もう、半年以上紘太は脳を食べていない。回復したと分かった時の紘太の笑顔が脳裏に浮かぶ。あんなに嬉しそうな顔は久しく見ていなかった。一時しのぎなのは分かっている。それでも紘太の笑顔が見たかった。誰かを犠牲にしてでも。

 そんなことを考えながらガラスケースの中のナイフをジッと見つめていた。隣人の子供をさらってしまうか、それとも顧客の家に侵入して、子供を殺害して頭部だけ持ち去るか。いずれにせよ、ナイフは必要だ。郊外にあるアウトドア用品店はキャンプシーズンということもあって、大小さまざまなナイフが売られていた。薄刃の軽そうな料理用ナイフ、厚手のブレードのハンティングナイフ、コンパクトに折りたためるナイフ……様々な種類があって悩んでしまう。典子はどんなナイフを使っていたか思い出し、似た感じのハンティングナイフを購入することにした。

 ナイフを購入し、車に乗ろうとすると、隣の車の助手席にベビーシートの上で眠る赤ちゃんがいた。車内には赤ちゃん以外はいない。見れば換気のためだろう不用心にも運転席の窓が半分開いていて、手を差し込めばドアのロックを解除できそうだった。周囲を見渡して、監視カメラがないか、周囲に人がいないかを確認する。昼下がりの閑散とした駐車場には誰もおらず、ひとつ向こうに駐車されている大型の4WDの陰で私の姿は店から見えにくくなっている。これはチャンスかもしれない。この子の脳を紘太に食べさせれば、きっとまた笑顔になってくれる。

意を決し、運転席の窓の隙間から手をつっこんで、ドアロックを解除する。助手席を開け、ベビーシートから赤ん坊を抱きあげると声を上げて泣きだそうとした。

「大丈夫、大丈夫よ……おばちゃんは悪い人じゃないからね」

そうやってあやすと、赤ちゃんはすぐに泣き止んでしまった。私は車の後部座席に積んであるブランケットで赤ちゃんを包み、座席の下のスペースに潜り込ませた。車のエンジンをかけ、赤ちゃんが驚かないようにゆっくりとアクセルを踏んで駐車場から出ようとしたその時、私のスマホが鳴った。着信音に驚いて赤ちゃんが泣き出してしまった。慌てるな、ゆっくり、静かにだ。駐車場から道路に出てもスマホは鳴り続けていた。鞄からスマホを取りだして画面を見ると、典子からの着信が表示されていた。スピーカーモードにし、電話に出る。

「もしもし」

『あっ……で、出たっ! ちょっと止まってください! その辺の路肩に! 早く!』

 その指示に従い、路肩に車を停める。赤ちゃんはなおも泣き続けている。ダメだ、赤ちゃんの泣き声は、それだけは……。 

地獄のような数分間だった。もうこれ以上泣き止まないのなら、首を絞めてでも黙らせようと思った時、助手席の窓ガラスがコンコンと叩かれた。ハッと顔を上げると、そこに顔を真っ赤にしている典子が息も絶え絶えと言った感じでこちらを見ていた。ドアのロックを外すと、典子は助手席に乗り込んできた。

「出してください、仕事場にいきましょう」

 私は返事を返すことなく、アクセルを踏み込んだ。一刻も早くここから離れたかった。

「どこから?」

「はい?」

「どこから見てたのよ」

「全部です。祥子さんがあの店に入るのも、ナイフを買うのも、赤ちゃんをさらうのも……あれ、赤ちゃんは……ああ、座席の下ですか……」

「ねえ、どうやって見てたのよ」

「そりゃもう後をつけてました。最近、祥子さんの様子がおかしかったから、鞄にGPS仕込んで監視してたんです。そしたらあの店に向かってるんですもの、慌てて車を走らせて来たって訳です」

 典子にはお見通しだったって訳だ。

「てっきり、顧客のお子さんでも攫うのかと思ってましたけれど、まさか見ず知らずの赤ちゃんをさらうなんて! ビックリしちゃいましたよ!」

「……仕方ないじゃない、紘太のためだもの」

「なら相談してくださいよ。私だって紘太君のことキライじゃないんですから力になりましたよ」

「ごめんなさい……」

「ま、とにかく仕事場にいきましょう。話はそれからです」

 

 

 仕事場のあるマンションの地下駐車場に車を停めて降りようとすると典子が腕をつかんできた。

「祥子さん、キスしましょう」

 私が返事をする間もなく、唇は塞がれてしまった。優しいキスだった。泣き止まない子供をあやすためにするようなキス。

「祥子さん、まずは落ち着きましょう。身体が震えてますよ」

「……ねえ、私のこと軽蔑したでしょう。こんな考えなしの馬鹿な母親なんて」

「いいえ、祥子さんは良いお母さんですよ。自分のためじゃなくて、紘太君のために行動したんです。私は立派なお母さんだと思いますよ」

「嘘」

「嘘じゃありません食事療法士なんて仕事してると、育児放棄してる親とかち合うなんてしょっちゅうです。あんな人たちと比べたら、祥子さんは立派です」

「ねえ、これから赤ちゃんを殺さないといけないのよね」

「……まあ、そうですね」

「ねえ、典子、安心させて、身体が動かないの……もっと安心させて」

「ほんと、はしたないお母さんですねぇ」

 典子は私の唇を再び吸い、服の中に手を入れて愛撫をした。

「祥子さんが心配なんですよ。何でもかんでも抱え込もうとして……私がいるじゃないですか、そりゃあ仕事上の付き合いだって言えばそこまでですけれど」

「誰かに見られたリしていないかしら」

「大丈夫ですよ。私しか見ていません。それにあの辺は畑ばっかりの所じゃないですか、防犯カメラもオービスもありません」

 典子は下腹部に手を伸ばし、愛撫をさらに強める。声を漏らさないように唇を噛んで私は耐えた。

「だから、安心してこの赤ちゃんを食べましょうよ。祥子さん、赤ちゃんの肉も食べるんですか」

「いいえ……脳だけ、脳がもらえたら後はいらないわ」

「そうですか、じゃあ私が貰っちゃいますね。赤ちゃんの肉なんて初めて食べるから楽しみだなぁ」

 典子がクリトリスをぎゅうとつまむと私は果ててしまった。私たちがまぐわっている間、座席の下の赤ちゃんは一度も泣かなかった。まるで死んでいるみたいに。

 それから私たちはマンションに赤ちゃんを連れ込んだ。だが、困ったことが起きた。肝心の典子が赤ん坊の解体はやったことがないと言ったのだ。

「やったことがないってどういう事よ」

「いや、言ったでしょう、赤ちゃんの肉を食べるのは初めてだって。私が捌いた肉の最年少は5歳児です。それにその子、私がキライみたいですし」

 典子が赤ちゃんを抱こうとすると、火が付いたように泣き出した。典子に染みついている死の臭いを感じ取っているのだろうか。このまま泣かれると、マンションの住人に怪しまれてしまう。幸い、私が抱くと赤ちゃんは泣かなかった。そうなると、私がこの子を殺して捌かなければならない。

「私にできるかしら」

「大丈夫ですよ。私も手伝います。先に風呂場で道具の仕度をしてきますね」

典子が風呂場で準備を終えて戻ってくると赤ちゃんは私の腕の中で寝息を立てていた。典子は赤ちゃんの寝顔をじっと見つめていた。

「この子ってどんなに柔らかい肉をしているんでしょうねぇ」

典子の目がギラギラと輝きを増していた。まるで新しいおもちゃを見つけた子供みたいだ。

「準備はいいの?」

「ええ、ちょうど寝てますしパパっと〆ちゃいましょう」

赤やんを抱えて風呂場に行くと、色々な道具がバケツに突っ込まれていた。ナイフにのこぎり、ペンチ……どう使うのか見当もつかないが、どの道具もこの赤ちゃんを肉にするために使われる事だけは分かった。

「祥子さん、どうぞナイフです。初めて買ったにしては良いナイフを買いましたね」

 そう言って典子は私が買ったナイフを差し出してきた。ナイフを受けとり、赤ちゃんの首にあてがう。

「ねえ、ナイフを一緒に持ってくれる?」

「いいですよ。一緒にやりましょうか」

私の手に典子の手が重なる。目で合図をし、ぐっと二人分の力を籠めるとナイフの刃が赤ちゃんの首に沈み、血が溢れてくる。赤ちゃんは泣き声をあげなかった。かっと目を見開いて、私たちを見つめていた。そのうちにじっとこちらを見据えていた目線がどろりと溶け、赤ちゃんは死んだ。

「手や足を揉んでください。血が残っていると腐りやすくなっちゃうので」

指示通りに手や足を揉むと、身体がびくりと震えて血が噴き出る。血はブラッドソーセージに使うからと、バケツに集めていた。血が出なくなってから首の周りにナイフをいれて、頭をもぎ取った。

「うーん……赤ちゃんの皮って取りにくいんですねぇ」

典子は胴体の皮を剝ごうとしていたが苦戦していた。

「そのままでいいんじゃない? 赤ちゃんの皮って柔らかいからそのまま食べられそうだし」

「確かにそうですね。オーブンで丸焼きにしようかなぁ、それとも角煮にしようかな。じゃ、内臓の抜き取りと洗浄は私がやっちゃうので、祥子さんは脳をお願いします」

「ええと、顔の皮を剥いで、頭蓋骨をのこぎりで切って、それからハンマーで叩いて取りだすんだっけ」

「そうです。赤ちゃんなら頭蓋骨も薄いから楽ですよ」

赤ちゃんの頭に切り込みを入れて皮を剥いでいく、丸い頭を見ていると紘太が産まれた時のことを思い出す。そうだ、あの子もこんな丸い頭をしていた。美味しく料理して食べさせるから、どうか紘太の中ですくすくと育ってちょうだいと、心の中で詫びて罪悪感を有耶無耶にした。



 赤ちゃんの解体を終えて家に帰ると紘太が食事の仕度をしていた。仕度と言っても米を研いで炊飯器で炊く程度ではあるが。

「ただいま……」

「お母さんおかえり、あれ何か買ってきたの?」

「脳みそを買ってきたの」

 そう言って脳が入っているジップロックを手渡す。

「また? 美味しいからいいけど、高かったんじゃないの」

「大丈夫よ。典子に頼んで安くしてもらったから」

「典子さんにお礼しなきゃね。あれ、この脳みそ随分小さいよ」

「へ、ああ、子豚よ。子豚の脳みそを買ってきたの。子豚の方が味がクリーミーだって典子が言ってたわ」

「へえ……どんな料理にしようかな」

「デミグラス煮にしない? 確かソースが余ってたでしょ」

「うん、それがいいかも。脳は少ないけれど、その分野菜を入れればいいもんね」

 それから二人で脳のデミグラスソース煮を作り、食卓に着いた。私も紘太も脳の味には随分と慣れたもので普通に食べてしまう。食事をしながら久々に温泉旅行へ行こうとか、泊まるなら海沿いの旅館にするか山奥の静かな宿にするかとか、行くなら典子も一緒に連れて行こうとか、取り留めもない話をしていた。この幸せが続いてほしい。血生臭い幸せではあるけれど、そう思った。








 今日は何をお土産に買って帰ろうか。

 デパ地下という空間は人をそんな気持ちにさせてくれる。鰻に寿司、アジアン系惣菜、焼き鳥……普段の生活では決して手を出さないジャンル、値段設定の物がここには溢れている。だけど、ここに来た人間はそんな価値観がどこかへ飛んで行ってしまう。せっかくだし、今日はごちそうにしてしまうおうと思わせる魔力がここにはある。

 今日は典子から報酬を貰ったので財布のひもは限界までゆるくなっている。鰻でも寿司でもどんと来いだ。

何にしようか、米は紘太が炊いてるので和のお惣菜がいい、それも簡単に食べられるもの……鰻だ。鰻にしよう。

鰻売り場に行くと、一串三千五百円で売られていた。普段なら絶対に手を出すようなものじゃない。けれど、ここの鰻は炭火で専属の職人が焼いている人気の品だ。その証拠に串はあと五本しか残っていない。

「すみません、串を四つ頂ける?」

「はあい、串四つですね。肝吸いはどうしますか?」

「二人分お願いします」

「分かりました」

 早く帰って、紘太とこのごちそうを楽しむとしよう。鰻と吸い物を受け取り、私は上機嫌で家路を急いだ。

 家に帰ると様子がおかしかった。家の明かりが消えていて、キッチンから水が勢いよく流れる音がする。明かりをつけると紘太がキッチンに倒れていた。救急車を呼び、市民病院に電話をして加藤先生に話をしている間も、紘太が意識を取り戻すことは無かった。



 人には人生の集大成があると私は信じている。

 画家だったら画集、漫画家なら単行本、小説家なら本、サラリーマンならマイホームだろうか。

 私の人生の集大成はなんだろう。もしもそれが、私の目の前にある物だとしたら、私は自分の人生を呪うしかない。

「勝山さん、お話よろしいですか」

「加藤先生……」

 病室に人が来たのにも気づけない程に私は憔悴していた。

「検査の結果ですが、小脳扁桃ヘルニアです」

「……それは、治る物なんでしょうか」

 加藤先生は少しの間黙っていたが、首を静かに横に振った。

「回復の見込みは非常に低いとしか言えません。自発呼吸ができなくなっています。これから緊急で髄液除去を行いますが、脳細胞の壊死が進行しているかもしれないので意識が戻る見込みは……」

 私は先生のその言葉に反応することができなかった。

 その後、紘太に対して髄液除去が行われたが、意識は戻る事がなく、自発呼吸も起こらなかった。

「勝山さん、非常に申し上げにくいのですが、紘太君に脳死判定を下さないといけないかもしれません。延命措置を続けることはできますが」

「……先生、脳死判定を出して延命措置を切ってください」

「分かりました。では、脳死判定を出します。そうなると、紘太君の臓器提供の要請が出ると思いますがどうされますか」

「申し訳ありませんが、それは辞退させてください。どうか、この子をこのまま家に連れ帰らせてくれませんか」

「分かりました。それではこれから延命措置を打ち切ります」

 誰にこの子を渡すものかと、この子は紘太は私だけの子だ。そう思いを込めて紘太の手を握った。延命措置が切られても私は紘太の手を握り続けていた。


 紘太の遺体はその日の内に葬儀社が家に運んでくれた。葬儀をする気にもなれなかった。近所のコンビニでビールをありったけ買い、紘太の側に座り一人でちびちびと飲んでいた。酔い潰れて夢に溺れてしまえば紘太に会えるような気がしたからだ。だけど、ちっとも酔えなかった。幾らビールを飲んでも紘太の声は聞こえなかった。

 夕方になって、家のチャイムが鳴った。出る気にもなれなくて放置していたが、あんまりにもしつこいので出てみると、そこには典子がいた。

「なんの用よ」

「紘太君が亡くなったって聞いて」

 誰から聞いたと言いそうになったが、たぶん所長から典子に伝わったのだろう。忌引を取るために所長には紘太の死を伝えていた。

「あの……」

 典子は言葉に詰まっていた。あんなに人の死を生み出していた女が紘太の死で狼狽えている。少し滑稽だった。

「あがんなさいよ。紘太に手を合わせてちょうだい」

 部屋に入ると、典子は紘太の遺体に手を合わせた。それは長く、悼む気持ちが込められているのが感じられた。

「ご愁傷さまでした」

「いいのよ。予想はしてたもの……」

「通夜とか式のお手伝いします」

「やらないからいいわ。明日に火葬場に運んでもらって焼くの。お骨はどこかの海に散骨するわ」

「……そうですか、祥子さんこれからどうするんですか」

「どうって……まだなにも考えられないわよ。でも、少なくともアンタとの仕事は降りるかもしれない」

 紘太の為に請けた仕事だったのだ。紘太が死んだ今となっては続ける理由がどこにもない。典子は私の言葉を聞いてずっと黙り込んでいた。数分間の沈黙が続いた。

「……ねえ、ビールでも飲まない? たくさん買ったんだけど飲みきれなくって」

「祥子さん、紘太君が死んでから何時間が経ちましたか」

「10時間ぐらいかしら」

「10時間……なら、まだ大丈夫かな」

「ねえ、アンタまさか……」

「祥子さん、紘太君を食べましょう。肉や内臓はもうあぶないですけれど、脳みそならきっと大丈夫ですよ」

「アンタ、ふざけてるの? どこに自分の子供を食べる親が」

「他人の子供は食べたのに?」

 それを言われると言葉に詰まってしまう。

「詭弁かもしれませんけど、聞いてください。私は人を食べるってことは、その人を生かすのと同じだと思っているんです。そのまま死んでしまったら死体のままですけれど、肉として食べればその人は私の一部になるんです。そして私が生きていくことで、その人も私と一緒に生き続ける」

「……詭弁も良い所ね。どうせ三日後にはウンチになっちゃうじゃない」

「そりゃそうですけど、あくまで気持ちの問題ですよ。そう思うことが大切なんです」

 典子の詭弁に乗るつもりはないが、紘太がこのまま死体で終わってしまうのは確かに忍びなかった。

「いいわ、食べましょう。紘太がこのまま焼かれて骨になるなんて寂しいもの」

 典子の言う通り紘太を私の中で生かしてあげよう。そう考えると胸の中がかっと熱くなるような気がした。



 典子と私は仕事場に行き、道具をそろえて我が家へと戻った。あんまり派手に解体をやると火葬場の人に怪しまれてしまうので、頭頂部の皮を剥いでから頭蓋骨を割り、そこからスプーンで取りだすことにしただが、紘太の脳は半分ほどしか取れなかった。。うまく取りだせなかったと典子は少しがっかりしていたが、私としてはスプーンひとさじ分でもあれば純分だった。

「ねえ、どうやって食べた方がいいかしら」

「バター炒めにしてサッと食べちゃいましょうか」

「賛成、あんまり時間もないものね」

 時間は深夜の0時を回っていた。明日の朝には葬儀屋がやってくる。その前に食べてしまいたかった。

 脳のバター炒めは脳をぬるま湯で洗い、ショウガのすりおろしと酢と水を合わせたのものに1時間浸し、それから脳に小麦粉をはたき付け、バターと一緒にフライパンで炒めれば完成というシンプルな料理だ。

 目の前に置かれた脳のバター炒めは湯気が上がっていてとてもおいしそうだ。深夜にバターの香りを嗅いでしまうと、嫌でも食欲が湧いてしまう。だがこれは人間の、私の息子の、紘太の脳だ。普通なら食欲が湧くようなものではない。私の向かいに座っている典子は別として。

「祥子さん、早く食べましょうよ。まだ紘太君の後始末できてないんですから」

「ねえ、少しは感傷に浸らせようって気はないの?」

「感傷に浸ってる間に料理が冷めて美味しくなくなりますよ」

「……分かったわよ。食べましょ」

「じゃ、いただきまーす」

「いただきます」

 脳をフォークで一口取り、口に運ぶ。とろけるようなフワフワとした食感と濃厚な味にバターの香りが絡み、何とも言えない美味しさだ。だがこれは紘太の脳だ。この味が紘太そものだ。噛みしめて舌に刻み付けなければならない。

「美味しかったですね……」

「ええ、アンタの言う通りだったわ。紘太が私の中にいる。そんな気がするわ」

「紘太君だけじゃないですよ。一緒に捌いたあの赤ちゃんも、今まで食べさせてきた脳の持ち主も中にいます」

「あら、随分と家族が増えちゃったわ」

「そうですよ。私たちには家族がたくさんいるんです。だから頑張って生きて、美味しい物を食べて、この子たちを養わなくっちゃいけないんです」

「そうね……ねえ、仕事これからも続けるわ」

「本当ですか!?」

「ええ、稼がなきゃいけないものね」

 頑張って稼いで、紘太のためにこの子たちのために生きていこう。心の中でそう誓った。

私は、鎌倉の由比ヶ浜海岸海を眺めていた。手には小さな袋。中には細かくした紘太の遺骨が入っている。波の音を聞きながらこれからの事を考えていると、アイスを片手に持った典子が駆け寄ってきた。

「そろそろ遊覧船が出る時間ですよ」

「じゃあ行きましょ」

船着き場に向かうと、漁船のような遊覧船がエンジンを温めていた。客は私と典子しかいなかった。

船が出て数分経ってから私は典子に目配せをした。典子は軽く頷き、船頭に近づいていく。

「オジサン、この先の稚児ヶ淵で美少年が自殺したって本当なんですか?」

「おお、嬢ちゃんよう知っとるね。昔々よ、自休という坊サンがな、白菊という美少年に惚れちまってよ……」

船頭が典子に話しかけている隙に私は紘太の遺骨を海に撒いた。白い骨は波に揉まれ、すぐに見えなくなってしまった。けれど、寂しくはなかった。紘太は私の中にいる。ただ、年に一回ぐらいは旅行がてら手を合わせに来てもいいかもしれない。

船から降りると、どこかでご飯でも食べようよと典子が言った。どこかいい店がないか探すと、猫が店先にいる食事処があった。席について名物だと言う生シラス丼とビールを頼んだ。そのうちに丼とビールが運ばれてきて、よっぽど腹が減っていたのか、典子は勢いよく食べ始めた。

私が口の端に米粒がついていると典子に指摘すると、典子は取ってちょうだいとねだった。私は典子の顔に手をやり、顔を引き寄せて口づけをした。不意打ちで面食らった典子は、顔を真っ赤にして、照れ隠しにビールを一気に飲み干して笑顔になった。私は店の窓から聞こえる波の音に包まれながら、子供みたいな笑顔の典子を穏やかに見つめていた。


———よそのこ、うちのこ〈完〉


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