第8話「思わない!」

 ここで、初めてルイは笑う。

 しかし、氷のように冷たい微笑である。

 

 そして、何かまた話をするようだ。


「アルセーヌよ。平凡な人間のお前には、人外の夢魔ツェツィリアを愛する事など出来まい」


「…………」


「これは取引きだ。無論、ただとは言わぬ。お前がツェツィリアに二度と会わないと約束すれば……」


「…………」


「殺さないのは勿論、お前には優れた力と美しい結婚相手、そして高い身分を与えよう」


「え?」


 まさに!

 ルイはまさに、むちあめを使い分けていた。

 アルセーヌへ対し、散々死への恐怖をちらつかせながら……

 今度は、とても甘い果実を与えると言うのだ。


 心が翻弄されるアルセーヌは、どんどんルイに言いくるめられて行く……

 まるで、見えない蜘蛛の糸にまかれた、身動きのとれない獲物のように……


「まずは力だが……結構な魔力はあるのに、ろくに魔法が使えないお前へ……上級魔法使いの力を与える」


「じょ、上級魔法使い…………」


「そうだ。お前を……様々な攻防の魔法が使える、複数属性魔法使用者マルチプルにする。水、火、風、地のうち、どれでも好きな属性をふたつ選ぶが良い」


「俺が複数属性魔法使用者マルチプル、……す、凄い」


「ふむ! 更に結婚相手も与えよう。美貌を誇る、さる王国の王女だ。お前はその王女と結婚し、高い身分も得る。……父王の腹心たる王宮魔法使いの地位だ。要領良く立ち回れば次期国王も夢ではない」


 美しい王女と結婚、王宮魔法使い、次期国王……

 ルイの言葉は、まるで夢の世界へ行くような誘いに聞こえた。

 当然、アルセーヌには信じられない。


「ま、まさか! そんな事!」


「まさかではない、可能だ。私にとってみれば全く容易たやすい事なのだ」


「…………」


「アルセーヌ、お前にとっても悪い話ではあるまい」


 ルイは自信たっぷりに言い切った。

 

 無理もない。

 ルイが告げた内容がもしも実現するならば、悪い話どころではない。

 さえない無名のいち冒険者に過ぎぬアルセーヌにとっては、最高の条件と言っても良い。


「…………」


「アルセーヌ、お前はツェツィリアの過去を彼女から聞き、同情したのだろう?」


「…………」


「確かに、ツェツィリアは不幸だ。しかしお前に何の関係がある?」


「…………」


「所詮、縁もゆかりもない女。赤の他人、それも今日初めて会った女だ」


「…………」


「それどころか……人間のお前とは違い、怖ろしい夢魔なのだ」


「…………」


 黙り込んだアルセーヌの心に、ツェツィリアの笑顔が浮かぶ。

 美しいが……

 とても寂しそうな笑顔である。

 

 もっと……もっと……

 楽しそうに、嬉しそうに、ツェツィリアには笑って欲しい……

 アルセーヌは、そう思った。


 ルイが、先ほど告げた言葉も甦る。

 「お前が原因で、完全な夢魔になりきれない」と。


 突如!

 何かが弾ける。

 アルセーヌの、固く閉じられた心の扉が勢いよく開いた音だ。


 ツェツィリアの真摯な気持ちが、深い想いが……

 アルセーヌは遂に分かったのだ。

  

 親に見捨てられた、同じ境遇のアルセーヌを……

 日々人間でなくなって行く、夢魔のツェツィリアが……

 『心の支え』にしたという意味が、はっきりと理解出来たのだ。


 そんなアルセーヌへ、更にルイの言葉が聞こえて来る。


「縁もゆかりもない見ず知らずの女と、もう会わない……たったそれだけを約束すれば、お前は最高の幸福を手に入れられる。……素晴らしいとは思わないか?」


 ルイが、アルセーヌへ同意を求めた時。

 

 不思議な事に……

 アルセーヌの心の中に、先ほどのツェツィリアの笑顔とは全く違う、鮮明な映像が浮かび上がって来た。


 シルバープラチナの髪を持つ、幼い女の子がたったひとり、暗い森に置き去りにされ……悲しみと恐怖で泣き叫んでいた。

 

 そして、すぐにシーンは変わった……


 同じ幼い女の子が……

 先ほどの、エデンと言われる異界で……

 これまた、ひとりきりで水晶球に見入っていた。

 ずっとずっと熱心に……食い入るように……


 どうやら……

 ツェツィリアの幼い頃の記憶が、アルセーヌへ流れこんで来たらしい。

 何故なのか、理由は分からないが……


 心に映る女の子を、見守るアルセーヌの目には……

 いつの間にか、大粒の涙が浮かんでいた。

 

 だがツェツィリアの過去を見ずとも、アルセーヌの『答え』は最初から決まっている。


「…………思わない!」


 断言したアルセーヌは、今迄の卑屈さが消え、堂々とルイを見据える。


「なに?」


 ルイは驚いた声を出すが、冷たい表情は変わっていない。

 平然としていた。

 刺すような視線が、アルセーヌを鋭く射抜く。


 だが!

 アルセーヌは臆さず、首を横に振った。

 そして、きっぱりと言い放つ。


「全然、素晴らしいなんて思わない! ルイ、貴方の提案など断るっ!」


「ほう、せっかく出した私の提案を断るのか……アルセーヌよ、理由を言え」


「ああ、言うさ! 俺はな、親に見捨てられ、周囲から散々馬鹿にされ、踏みつけられて生きて来た。さっきだって迷宮の奥で死のうと思っていた……」


「…………」


「だけど! こんな俺を励みにして、あの子は! ツェツィリアは! 人としての心を捨てずに、ずっとずっと生きていてくれた」


「…………」


 今度は、ルイが黙り込んだ。

 しかし、怒りもせず、不思議な事に『慈父』のような表情を浮かべていた。

 アルセーヌは更に言う。


「こんな俺に! 初めて生きる気力をくれたっ!」


「…………」


「さっきだってそうだ! 頑張って、信じてるって、俺を励ましてくれたんだ」


「…………」


「ルイ、あんたのくれるものは……素晴らしいものかもしれない」


「…………」


「美しい王女との結婚、誉れ高き王宮魔法使い、そして次期国王。……最高の幸福か……」


「…………」


はたから見れば確かにそうだ。底辺冒険者の俺には一生縁がないものばかりだろう! 大きな力、高い身分、約束されたバラ色の未来だ……すげぇよ。凄すぎる」


「…………」


「しかし……今の俺にとっては偽りの幸福に過ぎない」


「…………」


「……はっきりと分かったのさ。あの子の、ツェツィリアの俺への気持ちは……本物なんだって!」


「…………」


「俺はあの子を、これからも助けてあげたい。彼女の支えになれるのなら、絶対になってあげたい」


「…………」


「だから! 俺は、彼女の他には何も要らない。あの子さえ、ツェツィリアさえ傍に居てくれれば良い!」


「…………」


「俺はもっともっと、ツェツィリアの笑顔を見たいんだあっ!!!」


 アルセーヌが大きく叫んだ瞬間!


 ぱあああああん!!!


 凄まじい音を立てて、真っ白な世界が砕け散った。


「あ!?」


 気が付けば……

 アルセーヌは、最初に来た異界、エデンに立っていた。

 そして、目の前には……

 大粒の涙を浮かべた、ツェツィリアが立っていたのである。

 

「あ、ありがとう……アルセーヌ……わ、私でいいの? 人間ではない夢魔の……こ、こんな私で……」


 声を絞り出すように、ツェツィリアは言う。

 どうやら……アルセーヌとルイのやりとりを聞いていたようだ……


 アルセーヌも即座に、ツェツィリアへ言葉を返す。

 心の底から、強い意思を籠めて。


「そうさ! 君が良い! 俺にはツェツィリアが絶対に必要なんだ!」


「アルセーヌ!!!」


「ツ、ツェツィリア!!!」


 名を呼び合ったふたりは駆け寄り、固く抱き合った。

 しっかり抱き合った。


 もう二度と!

 離れない!

 とでもいうように……


 先ほどのおそるおそるした、身体だけの抱擁とは全く違う。

 アルセーヌとツェツィリアはお互いを想い、心と心でも抱き合っていたのである。

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