第6話 始まりの1日


「着替え?」

「そう。パジャマとか下着とか」

「ないよ?」


 何のことかわからない、という顔でアリエルが夏帆の顔をまじまじと見つめる。


「じゃあ、その荷物は?」

「ああ、これ?」


 アリエルは夏帆が指さしたボストンバッグをテーブルの上に乗せると、中に詰まっていた荷物を一つ一つ取り出してみせた。いくつかの箱があるだけで、服や下着が入ってる感じはまるでしない。


「えっと、これは?」


 夏帆はピラミッドのように三角形に積まれた、細長い箱を手に取った。大きめのカステラ箱のような外見だが、思ったよりは重くない。


「煙草。あ、そうだ。夏帆の家って禁煙だったりするのかな?」

「お父さんもタバコ吸うから、それは良いけど……って、これ全部タバコ!?」

「まあ、似たようなもの、かな」

「それ、吸い過ぎ。アリエル、ガンになるよ。ガンに」


 ……この妖精だか精霊だかはヘビースモーカーだ。きっと風の精じゃなくて煙か何かの精に違いない。

 呆れながら、夏帆は別の箱の山に手を伸ばした。きっちりとした箱はずっしりと重く、何かやたらと高級な感じがする。そっと蓋を開けてみると、中には光沢のある布にくるまれた琥珀色のガラス瓶が収まっていた。


「これ、みんな、お酒?」

「カルバドスとウィスキーと、なんだっけ。アクアビットだったかな? みんなからのお土産。どれから飲もっか。夏帆はどれがいい?」


 アリエルが並べたお酒の中で、夏帆が名前を知っているのはウィスキーぐらいのものだ。ブランデーならお菓子を作った時に使ったことはあるが、お酒をそのままで飲んだ経験はさすがに無い。


「日本では未成年の飲酒は禁止です」

「夏帆、未成年?」

「高校生は普通、未成年だよ」


 結局、アリエルの持っていたバッグの中身はこれだけだった。着替えやパジャマはおろか、靴下一枚の替えもない。やけに身軽だとは思っていたが、ここまで何の用意も無いとはさすがに想像していなかった。


 布団や食器などは、今まで家族が使っていた物を使って貰う。

 歯ブラシやバスタオルなどの日常で使う細々としたものはストックがあるので、それで何とかなる。

 となると、問題なのはやはり服。ちゃんとしたものは、連休中に買いに行くとして今日明日はどうするか。


 お昼を食べてから買い物に行くとなると、帰ってくるのはかなり遅くなってしまう。今日はアリエルも疲れているだろうし、それは避けたい。

 夏帆とアリエルの身長の差は、ざっと頭一つぐらい。さすがに普通の服は無理だろうけど、パジャマや部屋着ぐらいなら貸してあげられそうな気がする。


「アリエル」

「なに? やっぱり、飲みたい?」

「絶対違うから。そうじゃなくて、わたしの部屋に行こ。パジャマぐらいなら、わたしのでも何とかなると思うし」

「いや、それよりカルバドスを一口。夏帆も絶対に気に入るからさ」

「いいから、行くよ!」


   †


 今日は、とても長い一日だった気がする。


 自分の部屋のベッドで、いつものように日記を書きながら夏帆は今さらのように、そう思った。

 アリエルはもう眠ってしまっただろうか。とりあえず、今日は客間で寝てもらうことにしたけれど、やはりベッドのある部屋の方が良かったかもしれない。

 すっぽんぽんで寝てなければいいのだけど。


 そんなことを考えながら、日記を綴っていく。


『結局、アリエルにわたしの服は合わなかった。わたしより背が高いのに、私よりウェストが細いのは絶対に反則だと思う。あと、驚いたのがアリエルがパジャマを着たことがないということ。裸で寝る人なんて、映画の中にしかいないと思ってた。スタイルもいいし、そういうのが似合う気はするけど……。神さま、もうちょっと公平にして欲しいです。背は期待してないから、せめて胸を――』


 うつ伏せになっても、ほとんど変わらない自分の胸を見下ろして夏帆はむうと小さくうなった。

 着やせするという言葉はアリエルのためにあるに違いない。少し考えてから、考えを整理するためにまた日記の続きを書き始める。


『お金のことをどうしようか、少し考え中。ミームさんから預かったカードはどこのキャッシュディスペンサーでも使うことが出来た。入っていた金額はぴったり500万円』


 少し迷ってから、金額の部分を消しゴムで綺麗に消す。


『アリエルはわたしが管理して、好きなときに使えばいいと言っているけど、さすがにそれは無理。かと言って、完全にアリエルをお客さん扱いするのも少し違う気がする。ミームさんと話して決めていきたいけど、どうなんだろう。アリエルが日本にいるのは三ヶ月の予定と言っていた。今日はその一日目。とても日本語が上手だし、見た目も日本人と変わらないけど、今日の買い物でアリエルがやっぱり外国の人だってよくわかった』


 買い物での騒動を思い出して、夏帆はくすりと一人笑い。

 アリエルのすることは、どこか微妙にずれていて、小さな子供を見ているような気がした。


 デパートの屋上の乗り物に乗ろうとして、注意されたこと。おもちゃコーナーで食い入るようにぬいぐるみを眺めていたこと。結局、一つ買ってしまった。ひょっとしたら、今ごろ抱いて寝ているかもしれない。


 不思議なこともあった。故障中の張り紙が貼ってあったエスカレーターが、アリエルが近づくだけで何の前触れも無く動き出したこと。

 エレベーターが途中の階を無視して、目的の階までノンストップで動いてしまったこと。

 

 全ての階のボタンが点灯していたのに、それをまるっきり無視して。


 初めてだらけの一日だったけど、とても楽しい一日だった。アリエルもそう思っていてくれているだろうか。そうなら、とても嬉しい。


 ぱむ、と日記を閉じてベッドから立ち上がる。寝る前にアリエルの様子を見ておきたかった。

 階段を降りて、そっと客間の襖を開ける。隙間からオレンジ色の常夜灯の光がこぼれてきた。

 やっぱり、もう寝ているらしい。

 中の様子を伺うと、パジャマが散らかっているのが見えた。裸で寝るのが習慣だというのでちょっと心配していたのだけど、見事に的中してしまったようだ。せめて、下着ぐらいはちゃんと着けてくれているといいのだけど。

 ゴールデンウィークが終わったら、美紀と静香の二人に紹介しよう。きっと、二人とも驚くに違いない。

 夏帆はそっと呟くと、静かに襖を閉めた。


「おやすみ、アリエル」


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2人の生活が始まりました。

次回は少し場所を変えてのシーンになります。


次回 第7話 インターミッション 今は無い場所で


今日の20時15分過ぎに更新予定です。

少しでも気に入っていただければ、嬉しいです。

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