第4話 アリエル

「あの、わたしもです。待っていてくれて、ありがとうございました。えっと、アリエルさん。ですよね?」


 再び煙草をくわえた女の人に、夏帆はそっと確認してみた。間違いはないと思うのだけれど、念のため。


「アリエル」


 ほら、やっぱり。


「えっと、アリエルさん。わたし――」

「アリエル」


 続けて自己紹介しようとする夏帆よりも先に、もう一度繰り返す。きっぱりとした、少し誇らしげな声。


「さん、も家族名ファミリーネームも無し」


 

「いいんですか……? その、呼び捨てで」


 そういえば、外国では名前で呼び合うのが普通だと言う話は何回か聞いたことがあった。だが、それでも初対面の人間を呼び捨てにするのは抵抗がある。


「呼び捨てじゃないよ。アリエルが自分の名前。だから、それだけでいいんだ」

「……アリエル」


 おずおずと夏帆が彼女の名前を呼ぶと、アリエルは嬉しそうに一つうなずいてみせた。

 これでいいんだ。そう思うと、ちょっと嬉しくなる。


「えっと、わたしは夏目夏帆って言います。天塚丘高校っていう、高校に通ってます。趣味はサイクリング。それから――」


 アリエルの手を握ったまま、夏帆は自分のことを話し始めた。学校のこと。友達のこと。美味しい総菜を売っているスーパーのこと。他にもいろいろなこと。


「それで、蒼海屋は夕方からお刺身が半額になってスッゴイお得なんです。えっと、アリエルはお刺身とか大丈夫ですか?」


 少し高い位置にあるアリエルの顔を見ながら、ふと首を傾げる。そう言えば、彼女はどこの人なのだろう。

 言葉遣いはとても流暢で、アクセントもごくごく普通。テレビでよく見る、不自然さや妙な言い間違えも無い。見た感じも普通の日本人。どこにでもいる、とは言い難いけど。


「あの、アリエルって外人さんですよね?」

「外人、と言っていいのかな。まあ、日本国籍はもってないのは確かだけど……えっと、夏帆さ……ひょっとしてあんまり乗り気じゃない?」

「ええっ違う違う違いますっ。そんなことないです!」


 思いがけない言葉に夏帆は力一杯、彼女の言葉を否定した。まさか、そんな風に見えていたとは思わなかった。


「ただ、ちょっと意外だなと思ってて」

「意外?」

「わたし、勝手に金髪とか青い目だとか思い込んでたもんで……」


 よくよく考えて見れば、ずいぶんと古いイメージだ。風の妖精と同じ名前が、夏帆にそんな風に思わせていたのかもしれない。


「ああ。そういうことか。よかった。ちょっと、安心した」


 夏帆の説明を聞いて、ほっとしたようにアリエルは肩の力を抜いたようにうなずいた。


「あの、ごめんなさい」


 ひょっとして、怒らせてしまっただろうか。少しおっかなびっくりでアリエルの表情を伺ってみる。


「謝るようなことじゃないよ」


 あっけらかんと笑ってみせるアリエルに夏帆はほっと胸をなで下ろした。どうやら、あまり細かいことは気にしない性格らしい。しばらく一緒に暮らしていくとなれば、そちらの方がありがたい。


「それともさ、ひょっとして夏帆はそういう方が好みだったりするのかな?」


 自分の身体を見回していたアリエルの表情が、いたずらを思いついた子供のような得意げな笑みに変わる。


「こんな感じで」


 すっとアリエルの瞳の色が変わった。深い紫水晶の色から、まるで抜けるような空の色へ。


 え? と思う間もなく、風も無いのにアリエルの髪がふわりとたなびいて――黒真珠を溶かしたような艶やかな髪から溶けるように色が抜ける。


「どう?」

「…………」

「びっくりした?」


 こくこくと声も無くうなずく。


 まるで桜の精が目の前に現れたみたいだった。色の抜け落ちた髪は金髪というよりも、少し桃色のかかった銀色に近い。空色の瞳は目を合わせているだけで、こっちがどうにかなってしまいそうだ。

 いきなり髪の色が変わっただとか、そんなことがどうでもよくなってしまうほどに美しかった。

 黒い髪の姿も綺麗だったが、これはもう人の持てる美しさではない。思わず、膝を折り頭を垂れたくなるような凄みを感じる。夢で聞いた言葉が脳裏に蘇った。


 ――あなたに受け入れてもらいたい女の子はヒトではない。


 膝から力が脱けて、腰から地べたに崩れ落ちる。


「おっと」


 ぐっと身体を持ち上げられる感覚。見上げるとアリエルが腕を掴んで支えていてくれた。


「大丈夫? ちょっと脅かしすぎたかな」


 そこにいたのは、最初に見たままの黒髪の美人さんだった。いつの間に元に戻ったのか。あるいは最初から今の姿のままだったのだろうか。束の間の白昼夢。


「立てる?」

「あ、大丈夫です」


 足下を確かめるようにゆっくりと立ち上がる。大丈夫。もう、怖くない。


「ごめんごめん。ちょっと、調子に乗りすぎた。夏帆は――えっと、名前で呼んで良いよね?」

「はい。もちろんです」

「ありがと。ところで夏帆はこういうのって初めて?」

「ホームスティですか?」

「そう」

「えっと、そうです。はじめてです」


 日本から海外にホームスティという話はよく聞くが、その逆というのはちょっと聞いたことがない。単に夏帆が知らないだけなのかもしれないが、海外から日本に来るなら留学になってしまう気がする。


「じゃあ、初めて同士だ」


 ふうんとうなずいて、少しくすぐったい気持ちになる。

 これはそう。修学旅行や林間学校に行く前の、あの気持ちに近い。

 夏帆はあらためて、アリエルという名の女性を眺めやった。この人と、これからしばらく一緒に生活するのだと思うと何だか不思議な感じがする。ひょっとして、家族以外と一緒に暮らすというのはなかなかの大事件なのではないだろうか。

 すっと、目の前に手が差し出される。それが握手だと気がついた夏帆は、おずおずと手のひらを彼女の手に重ねた。

 ぎゅっと掌が包み込まれる。ほんのりと暖かな心地良い圧迫感。


「よろしく、夏帆」


 音を立てて、蒼い空にまっすぐに飛行機雲が伸びていく。背中を押されたような心強さを感じて、夏帆は力強くうなずいた。


「は、はいっ。こちらこそっ」



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次回 第5話 私の家

今日の20時15分過ぎに更新予定です。


少しでも気に入っていただければ、嬉しいです。


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