第3話 朝の出会い
四月最後の早朝はまだ少し肌寒かった。
ひんやりとした空気を肌で感じながら、夏帆は堤防下の歩道に小学校から乗っている古びた自転車を駐めた。堤防の上は桜並木の遊歩道になっていて、お花見の季節になると県外からも多くの観光客がやってくる。
ゴールデンウィーク第一日目ともなると、さすがに桜の花はもう残っていない。夏になれば雄々しいまでの葉桜になるのだが、この時期はまだ若葉で少し頼りなかった。
階段を上って遊歩道の上に出ると、川面から冷たい風が吹き付けてくる。もう少し厚着をしてくればよかったと、夏帆は肩を抱いて白い息を吐いた。東の空は少し明るくなってきているが、反対側の空の色はまだ暗い。
携帯の時計は五時四七分。時間まではまだ少しある。
美登里川の桜並木。時間は朝の六時。たしかにそう言っていた。
桜の木に身体を預けて空を見上げると、名残惜しそうに星がちかちかと瞬いている。一番星ならぬ名残星とでも言うんだろうか。
ちょっとワクワクしながら、かじかんだ手を息で温める。
どんな人なんだろうか。年上か年下か。同い年か。外国人だというから、やっぱり金髪だろうか。それとも映画に出てくるようなプラチナブロンドだったりするんだろうか。背はやっぱり高いんだろうなあ。
人間ではない、とかいうのはおいておくとして。いやいや。ひょっとしたら翼でもあるのかもしれないぞ。天使のような。あるいは反対に角が生えてたりして……それはちょっとイヤかもしれない。
そんな想像やら妄想を膨らませ、ふと我に返る。
これで何もなかったら正真正銘の馬鹿だ。というか、精神的にかなりマズイ。文字通り夢と現実の区別がついていない。
誰も来ない。ただの妄想だったという事実が突きつけられる前に、さっさと帰って布団に潜り込んで寝てしまおう。そんなことをふと考える。
くるりと堤防の階段に向き直って――すぐに元の場所に戻った。
何度考えても、あれがただの夢だったと思えなかった。ならば、信じてみようと思う。夢を信じるのではなく、自分の直感を信じる。何も起きないなら、それはそれでいい。
吹っ切るとすこし楽になった。
じっと桜の木にもたれて空を見ていると、自分でも不思議なくらい全身の感覚が鋭敏になっていくのがわかる。ずっと遠くの道路では何台もの車が行き交っている。橋の向こうにあるコンビニにトラックが入っていくのがなぜかはっきりとわかる。
橙色に染まった雲を見上げれば、風そのものが見えるような気がする。
川面に目を転じれば、水鳥がのんびりと朝ご飯を食べているのが見える。きっと、子連れ。
草に隠れて見えないけど――ほら、出てきた。四羽もいる。
まるで魔法にかかったような不思議な感覚だった。
少しづつ空が明るくなっていくにつれて、町が本格的に動き始めるのが身体に伝わってくる。
並木道の向こうから、お爺さんとお婆さんの熟年カップルがトレーナー姿で走ってくるのが見えた。すれ違いざまにぺこりとお辞儀して、声を掛け合う。
「おはよう」
「あ、おはようございます」
にこやかに微笑みながら、そのまま夏帆のもたれかかっている桜の木を追い越していく。
後ろ姿を見送っていた夏帆は二人の姿が見えなくなってから、そっと携帯電話の時計を確かめてみた。
六時十分。
冷えた空気の中に若葉の匂いを感じたような気がして、夏帆は桜の木を見上げた。
そのまま、ぼんやりと何をするでもなく空を見上げる。ついさっきまでは白かったのに、吐き出す息はすっかりいつものぬるい空気に変わっていた。
何を考えるだけでもなく、空と雲を目で追いかける。
もう、いつもの朝と何も変わらない。
桜の木から身体を起こして、もう一度そっと携帯の液晶画面に目をやった。
いつの間にか約束の時間はとっくに過ぎ去っていた。
諦めきれない気持ちのまま、もう一度、美登里川を眺めてみる。何も伝わってこない。空を見上げても、いつもと同じ雲がぽかぽかと浮かんでいるだけだった。
橋の向こうに目をやれば、渋滞の始まった大通りは排気ガスで霞んで見えた。道から聞こえてくるクラクションは耳障りなだけだ。
携帯を握りしめたまま、じっと空を見上げていた夏帆はくるりと踵を返した。
「……帰ろ」
魔法はすっかり解けてしまった。
あとに残ったのは灰かぶりならぬ、ただの高校生。それもかなりボケボケの。
とぼとぼと堤防の階段を降りて、自転車の置いてある場所まで歩く。もう早朝とは言えない時間だが、通りから少し外れたジョギングコースなだけに人通りはほとんど無い。
「あれ?」
自転車の駐めてある場所までやってきて、夏帆は首を傾げた。自転車を立てかけている街灯に女の人がもたれかかるようにして煙草を燻らせている。
何か考え事でもしているのだろうか。どこか遠くを見ているようで、夏帆に気がついているようには思えない。邪魔をしては悪いかな、とも思うが少しどいてもらわないと自転車が動かせない。
「あの、すいません」
少しためらった後、夏帆は思い切って声をかけた。
「ん?」
煙草を咥えたまま、女の人が夏帆の方へと向き直った。背中まで伸びた髪が勢いよく翻る。
思わず見惚れてしまうほどに綺麗な人だった。
黒真珠を溶かしたような艶やかな黒い髪。夏帆よりも一つほど頭の高いスレンダーな肢体に驚くほどデニム地の上下が似合っている。何よりも、その深い色の瞳に吸い込まれそうになった。
年の頃は――よく、わからない。夏帆と同じぐらいにも見えたし、大学生ぐらいにも見えた。
煙草を吸うようなので二十歳は過ぎていると思うのだが、あまり自信がない。
濃い紫水晶のような不思議な色の瞳が、興味深そうに夏帆を見ている。
ややあって、その女の人はやっと気がついたというように夏帆の自転車を指さした。
「ああ。ひょっとして、これ?」
「あ、はい。それ、わたしの自転車なんです」
だから、少し退いてくれませんか? と言おうとして、夏帆はその女の人がじっと自分を見つめていることに気がついた。
「夏目夏帆?」
「え?」
だしぬけに飛び出した自分の名前に虚を突かれる。
「なんで、わたしの名前……?」
どこかで会ったことがあるのだろうか。すこし考えるが、まるで心当たりがない。
「あの、ごめんなさい……どちらさまですか?」
「あれ? 話聞いてない?」
「……あの、何の話でしょうか」
何がどうなっているのか、さっぱりわからない。ひょっとして、新手の新興宗教の勧誘か何かだろうか。そんなことを考えていると、女の人はひょいと自分自身を指さした。
「ゲスト」
「へ?」
「ホームスティの」
「ほへへ?」
思わず、間抜けな声が出る。ゲスト? ホームスティの?
カチカチカチと音を立てて、頭の中で歯車が組み合っていく。その言葉の意味するところを理解して、夏帆は辺りはばからず大声をあげた。
「えええええぇぇぇーーーーーーっ!!」
普通だ。どう見ても普通だ。
そりゃあ、確かにちょっとやそっとではお目にかかれないような美人さんではあるが、あまりにも普通すぎる。まるで、友達のお姉さんと言われても納得してしまう普通さだった。
「えっと、あの、夢の、待ち合わせの?」
しどろもどろになって、脳裏に浮かんだ言葉が整理する間もなく口からこぼれる。自分でも何を言っているのかよくわからない。だが、夏帆の気持ちを察したのか、軽くうなずいてくれた。
「自転車があったからさ。ここで待ってれば、会えると思った」
そう言って指さす先には、帝塚丘高校二年三組/夏目夏帆と書かれたシールが貼ってあった。
「あの、ひょっとして、ずっとここで待っててくれたんですか?」
「うん。今朝の六時に美登里川の桜並木――行き違いになりそうで怖かったからさ。ここで待ってたんだ。なかなか来ないから、またフられたかなと思った」
そういうと、すっと煙草を口元から離して、少しはにかんだような笑みを浮かべた。
「会えてよかった」
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