干からびた春雨
ロッドユール
干からびた春雨
動いているのかいないのか分からないカウンターの前に横並ぶガラスケースの中から出てきた表面の干からびた、多大な時間の経過を物語る味のしみ込み過ぎてどす黒くなった春雨を口に頬張る。新鮮さなど期待するまでもないしなびたキュウリのまとわりつく、妙に歯ごたえだけは良いねっとりとした春雨を口の中で噛み砕きながら、もしかしてこれは今日ではなく、昨日の作ではないのかという考えが頭の片隅をよぎる。
春雨はそれであるにも関わらず、四百円というまともな値段を掲げていた。当然、それを出してきたこの店のおばはんも全く悪びれた様子はない。
しかし、私はそんなことにはこだわらず、黙々とそれに箸を伸ばす。味などどうでもいい。絶望と自暴自棄と酔った頭ではそんなことはどうでもいい。とにかく、酒があって、なんとなく食べたいと思ったその春雨が、春雨らしい味であればそれでよかった。
春雨は、頭で思い描いた通りの味だった。スーパーに売っているレトルトの春雨の素、そのままの味だった。ある意味それは期待した通りのものだった。
「うをっ」
その時カウンターの一つ隣りで飲んでいた初老のおやじが、突如として声を発し目を剥いて壁の上を見上げた。その店にいた五、六人の客が一斉にその方を見る。そこにはバカでかいドブネズミが、古い電気ケーブルを内に隠した梁の上を、我が物顔で悠々と歩いていた。全員が酒を飲むのも忘れ、茫然とそれを見つめる。しかし、その店の主人である店主のオヤジはそんなことには意にも介さず、何事もなかったかのように、一人手酌でビールを飲んでいる。
「大根一つ」
私がそう言うと、オヤジは露骨にめんどくさそうな顔をして、重い腰を上げた。返事一つない。
そして、どす黒く変色したどぶの水を吸い込んだかのようなおでんの大根が、愛想もなく私の目の前に置かれた。それは味がしみ込んでうまいなどというものでは決してない。一体何日浸かっていたのか、大根という存在を越え、もはや廃棄物との境目に入りかけた繊維も細胞も崩れかけた生ごみ同然の代物だった。
しかし、私はそれをかじり、ビールを飲んだ。今は酔って痺れた頭だけが、心地良ければそれでよかった。
私は入り口の開き戸の割れたガラス窓をなんとなしに見つめる。そこに貼られた乱雑なガムテープすらがもうどうしようもなく古くボロボロに砕けている。店の全てがそんな感じであった。壁はタバコのヤニがこびりつき、それが幾歳月何層にも重なり、もうこれ以上は汚くなりようがない限界を超え、腐臭すらが漂っていた。後ろにある剥き出しの厨房は、飛び跳ねた油が何十にも積み重なり、松やにのように盛り上がって、それが垂れ、さらにそこにほこりが何層にもへばりつき、最早、手の施しようもない、雑菌すらが生きていけないようなカオスになり果てていた。
ガシャン
その時、突然、さっきネズミをいち早く見つけた初老のおやじが後ろに椅子ごとぶっ倒れた。店の全員が驚いてその方を見る。しかし、おやじは少し恥ずかしそうに椅子を戻すと、再び黙って一人酒を飲み始めた。
「・・・」
しばらく心配して見ていた他の客と店主も、それ以上は立ち入らずそれぞれの世界に戻っていった。
私はそのおやじを横目で見た。その初老のおやじは、改めて見るまでもなくしょぼくれた男だった。どうしようもない人間だと、一目で分かる男だった。酒の入ったコップを握り、俯き加減に、その死にかけた小動物のような弱弱しい目が、塗装の禿げた小汚いカウンターを虚しく見つめていた。
私はカウンターを見回した。他の客たちも似たようなものであった。目の奥まで日に焼けた労働者の――、厚く塗り重ねられた商売女の慣れの果ての――、社会の底辺で汚いどぶ川を溺れるようにして泳いできた者たちの――、その目は、濁り、汚れ、溜まりに溜まった人生の辛酸という垢の中で、疲れ果てていた。
「・・・」
私の心を、堪らない暗澹たる思いが覆いつくしていった。そこには何の光もなかった。あるのは暗闇だけだった。隔絶たる絶望と鬱。
「・・・」
私は酒をあおった。しかし、腹に溜まっていく酒は、飲んでも飲んでも、その闇を晴らすことはなかった。逆に酒を飲めば飲むほど、それはこじれ、粘り気を増していくようでさえあった。
「・・・」
汚れていた。全てが汚れていた。店も客も私も、私の明日も。世の中全てが汚れ、濁っていた。
明日も私は、国道と高速道路の交わる立体交差点の下にある、車の排気ガスにまみれたホームセンター前駐車場入り口に立つ。そこには意味も誇りもない。ただ言われた通り、言われた場所に立ち続け、誘導棒を振り、頭を下げる。
私はカウンターの上で拳を握った。力の限り握った。私はその自分の拳を見つめた。堪らない何かがそこに籠り、私を震わせていた。
私は私の人生を呪っていた―――。
干からびた春雨 ロッドユール @rod0yuuru
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