夢夜叉・少女夢地獄
関谷光太郎
前編
ある日の夕暮れ。
ふらりと立ち寄った古書店で一冊の絵本が目にとまる。
誘われるように手に取ると、若い夫婦は肩寄せあって絵本をひらいた。
墨の濃淡で描かれるのは夢の世界。夢を喰らうという『夢魔』の魔手から子供たちを守る、夢夜叉の活躍が展開した。
気配を感じて夫婦が顔をあげる。
背後に白い髭を蓄えた老人が立っていた。
「どうです。魅力的な絵本でしょう?」
突然声をかけられて驚いたが、老人が店主だと告げると夫婦は笑顔で答えた。
「はい、とても魅力的です」
ふたり同時に答えたことに、老人は優しく微笑んだ。
「ではひとつ、本好きのご夫婦にお教えいたしましょう」
そう言って、老人は人差し指を立てた。まるで魔法使いが呪文をかけるような仕草に、夫婦はワクワクした。
「この絵本を所有すると、あらゆる凶兆から守られるという契約が結ばれます。魔物は、人の眠りを入口にして心の闇に巣食うもの。その魔の手から守ってくれる絵本は、愛しき人への贈り物には最適でしょう」
知らず女性の手がお腹に当てられた。
そこには新しい命が宿っている。
「信じるも信じないもあなた方次第。ご購入をお考えならば、お安くしておきますよ」
値段を確認したふたりに、老人は信じられないほど安い金額を提示した。
「これは、産まれてくるお子さんへのささやかなサービスです」
夫婦はその本の購入を決めた。
◇◇◇
それは月夜に浮かぶ小舟だった。
ゆらり、ゆらり。
たゆたう波の赴くままに、小舟はゆっくりと流されていく。やがて美しく整備された水路へと至り、その先に巨大な古城がそびえ立っていた。
月を背景に浮かびあがる三つの塔。すべての尖塔で龍のエンブレムがはためいている。かつてはドリームキャッスルと呼ばれた城だった。
城には噂がある。
『建物の地下深くに存在する拷問部屋。そこから拷問されている者を救い出せば、どんな願いでも叶う』
幼い頃、噂の真相を確かめようと果敢にも地階を下りていくという記憶が残っている。
あれは小学校1年生、夏の初め。突然、遊園地に行こうと両親が言ったのが始まりだった。
少女は思わず到来した好機を逃すまいと、遊園地のゲートをくぐった途端、行動を起こす。
「ちょっといずみ! どこへ行くの!」
母親の手を離したとき、そばにいた父親も同時にいずみの身を案じる表情をした。
制止する両親の声を振り切って、薄暗い階段を足早に下りていく姿は、ちょっとした物音にもびくついてしまう今の彼女からは想像もできないことだった。
たったったったっ。
螺旋階段を降りていく。白いワンピースの裾を翻して、ひたすら階下を目指す。額にはうっすらと汗が浮かんでいた。
しかし、小さな靴音を響かせてたどり着いた場所に、拷問部屋はなかった。ただ、大きな空間に整然と積まれたパネルや木箱、装飾品の類が目の前に広がっているのみで、そこがただの倉庫であることは明白だった。
少女は落胆した。
本当は少女にも分かっていた現実である。この城がアトラクション施設のひとつであり、城にまつわる噂も集客のためのキャッチコピーなのだということを。それでも、一縷の望みをかけてここへ来たのには理由があった。
両親を仲直りさせたい!
最近、両親の関係に不穏な空気が漂っていた。両親は平静を装っているが、いくら幼くても、両親の微妙な空気の移り変わりを感じていたし、最近では修復しがたいまでに拗れていることも知っていた。
なのに、うまく伝える言葉を持たなかった。焦れば焦るほど口が重くなっていくというジレンマに苛まれる。
今から思えば、それが幼いということであり、言葉に対する経験が圧倒的に少ないゆえのことだった。
だから、すべては行動で表すしかない。
切なる思いが、城の地下にあるという拷問部屋へと走らせ、ひたむきな思いが成就しなかった瞬間には、堰を切ったように涙を溢れさせることになったのだ。
無くしてはならない大事なものを、みすみす失ってしまう自分の無力さ。どんなに気持ちが強くても変えられない運命の無慈悲が胸を締めつける。
「みんな壊れちゃう……ママもパパも、わたしを捨ててどかへ行っちゃうんだ!」
やり場のない感情を制御できず、幼い少女は泣きじゃくりその場にうずくまってしまった。
この日。虹色ドリームランドで、両親は別れを決めていた。関係の修復が不可能となったふたりが、今日だけは娘のために良き母と父を演じ切って最後の思い出を残そうというのである。そんな事実を彼女は知る由もない。
その帰り道。両親と少女の乗った車は事故に巻き込まれた。
対向車線をはみ出してきた車との衝突事故であった。
◇◇◇
「ようこそ、虹色ドリームランドへ!」
明るく甲高い声は、船着場に立ったピエロからのものだった。
逆立つ鳶色の髪。白塗りの顔の真ん中で真っ赤な鼻が大きく膨らんでいる。
いずみはわれに返った。
揺れる小舟の上。幼い日の記憶に浸っていた自分に気がついたのだ。
「……わたし」
遠目にも派手なピエロの姿が目に映る。
「お嬢様、そこはアクアツアーの経路でございます。謎の生物が棲んでいるという恐ろしい場所。くれぐれもご用心なさいますように!」
ピエロの言葉を待っていたかのように、緑の水面が持ちあがった。小舟を下から突きあげる何ものかの存在があった。
「ちょっと、なにこれ!」
泡立つ波間に見え隠れするのは紫色の生物だ。ぬめっとした体が空気に触れるたび、肉の腐った強烈な臭いがするので、いずみは鼻と口を押さえて舟の揺れに耐えねばならなかった。
「お嬢様、奴が来ます! 身構えて!」
怪物が姿を現した。全身をバネと化して、水面を弾き宙を舞う。
全長十メートルはある巨大魚。紫色の鱗に被われ、火ぶくれのように腫れあがった頭部の真ん中で、ひとつしかない赤い目玉がこちらを睨みつけていた。
一歩も動けないいずみ。まるで巨大魚の視線に魅入られたかのように体が強張り、水飛沫が頭上から降り注ぐまま彼女の全身はびしょ濡れになったのだ。
そして、巨大魚が落下する。
着水と同時に水面が爆発した。天を突く水柱。荒れ狂う波。いずみの乗った小舟は木の葉の如く波間を舞った。
転覆した船から、川へと放り出されたいずみは必死になって泳いだが、渦巻く水流に抗う術をなくし、底へと引き込まれてゆく。
溺死の恐怖は尋常ではなかった。体内から酸素が奪われていく苦しみは地獄であり、酸素を求めて脳へと集中する血液に眼底を圧迫される痛みは、目玉が飛び出しそうなほどの苦痛だった。
――もう、駄目!
死を覚悟したその時。
いずみの足裏を突き上げるものの力を感じた。その力強さは、水底に沈まんとしていたいずみの体を、あっという間に水面へと押し上げたのだ。
川底から生還したいずみ。
空気を求めて喘ぐその鼻先に、船着場からスッと差しのべられたのは、白い手袋だった。
「さあ、この手につかまって」
ピエロは、赤いタラコくちびるでニンマリと微笑みを作った。
「さ、早く!」
力強く引っ張りあげられた船着場の上で、彼女は激しく咳き込んだ。見かねてピエロが背中をさすった。
「信じられないでしょうが、あなたを水中から助けたのは、さっきの巨大魚なのですよ」
「え、嘘。あの怪物は私を殺そうとした」
「ごめんなさい。ちょっとやり過ぎました」
ピエロが川に視線を向ける。
その水面にぷかっと顔を出したのは、ひとつ目の巨大魚だった。赤い目玉をくるくる回し、ぴゅっと水柱を吹きあげた。
「怖がらないで」怯えるいずみにピエロが言った。「見かけは恐ろしいのですが、本当は気のいいやつで。さっき舟を転覆させたのも、あなたをからかうだけのつもりが、調子に乗りすぎてしまったのです」
巨大魚が大きな口を開けて、水面にぶくぶく泡をたて始めた。
「それじゃ駄目だよ。謝っているようには見えない」
「謝る? あれって謝っているの?」
「ええ。ふざけて見えますが、奴にとっては精一杯の謝罪だと……」
ぶくぶくぶくぶく。
「おい。この方に心から詫びなきゃ駄目だよ!」
ぶくぶくぶくぶく。
「アトラクションとはいえ、やりすぎだ。本気になって謝れ!」
「いいの、もう大丈夫よ。こうして無事に生きているんだし」いずみは立ち上がって巨大魚と対峙した。「あなたの気持ちは分かったわ。もう、なんとも思っていないから安心して!」
「優しいのですね」
いずみの背中越しにピエロが呟いた。
巨大魚が再び水柱を吹きあげる。今度はかなりの勢いだった。頭上から大量の水が降り注ぎ、いずみとピエロはびしょ濡れになってしまった。
「おい、なんてことを!」
くすっ。と、いずみが笑う。
「やっと笑いましたね」ピエロの青い瞳が優しく輝いた。「紹介が遅れました。わたしの名は、アビ。虹色ドリームランドの案内人でございます」
アビは、右手を心臓に当て、左手を大仰に振ってあいさつをした。水仙のように花開いた襟。ツナギの衣装は、銀色の布地に赤い水玉模様が散りばめられている。
「わたしは……」
「稲垣いずみ様」
「え、なんで?」
「いずみ様のご家族は、当園のご常連でございました。ご来園の際には、みなさんをご案内したこともいい思い出です」
十年も前の話だ。
だが、虹色ドリームランドは何年も前に廃園になっている。実際には存在しないはずだった。
「あり得ない。ここは無くなっているはずの場所だわ」
「信じられなくて当然です。ここは現実世界ではないのですから」
「……現実じゃないって、ではここはなんなの?」
「あなたの、夢の世界」
「夢……」
「そう夢!」
いずみは、アクアツアーの船着き場からドリームキャッスルを見あげた。
「わたし……なんでこんなところに」
「答えは簡単です。いずみ様がもう一度ご両親を救うためです」
いずみは、言葉を失った。
「……いずみ!」
背後で呼ぶ声がした。
「いずみ!」
今度は別の声。それは聞き覚えのある男女のものだった。
振り返ったその先に、懐かしい顔があった。
「パパ、ママ!」
両親はあの日のままだった。
別れを決めたふたりが、せめて最後は娘の為にと訪れた虹色ドリームランド。その帰り道、まさか事故ですべてを失うとは思ってもいない両親の姿がそこにある。
しかし、いずみと叫んだ両親の視線はあらぬ方角を見ていた。
その視線の先には……。
駆け去るワンピースの少女。
大人になったいずみに、思い詰めた幼い自分の姿が胸をえぐる。
アビが何事か叫んだようだが、さっぱり聞こえない。そのうちに、周囲の風景が歪みはじめた。
気分が……悪い。
立っていられなくなった体を支えるために伸ばした右手に、硬いものが触れた。冷たく輝きを放つ板状のもの。
「こ、これは」
「ようこそ。ミラーハウスへ!」
アビが陽気に言った。
四方八方に広がる鏡の世界。無数の自分の姿が重なるように映りこんでいた。
いや、それだけではない。自分の横にはさっき駆けていた少女が立っていた。不安げな瞳でこちらを見あげている。
混乱が全身の動きを止めた。
動けない。動くことができない!
無限に広がる自分と少女の姿。底知れない不安な心を反映するかのように鏡の世界が揺れた。
ドドドドド……。
地響きと共に天井から降りてきたのは、アビといずみの両親だった。
そこだけ鏡の世界を切り取って、黒い空間が存在していた。
両親は、空中に浮遊するアビと共にゆっくりと着地すると、柔らかな笑顔を彼女に向けた。
「いずみ様。このミラーハウスは人生の分岐点でございます。ここに重なって映るその姿は、過去、現在、未来のあなた自身。さあ、ここにひとつの選択肢をご用意いたしました」
いずみの足下に大きなナタが現れた。
動かすことのできない体で、いずみはナタの存在を確認する。
「こんなもので、なにを……」
「憎い相手を殺すのです」
「悪い冗談はやめて。さっきの巨大魚のように、またやり過ぎるってやつでしょう?」
「あれは導入部。あなたにこの世界を楽しんでもらうための余興のようなものです。メインイベントはここから」
アビは自分の頭を指さした。
「憎いあの野郎の頭を叩き割ってやりましょう!」
地響きの続く中、鏡の世界に新たな人物が映りこんだ。
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