第83話「織田信長」
天正十年五月五日───
この日、
この時間帯に謁見をした理由は、前日の昼過ぎに安土城を訪問した天皇の勅使より信長へ渡された書状にあった。
その書状に記載された内容は『至急上洛して謁見されたし。但し、呉々も御内密に』という簡素な内容だった。
これに対し信長は、至急、内密、その二つの文言に深く興味を抱いたが故に文字通り至急且つ内密の謁見に訪れたのである。
書状を受け取ってから僅か半日程、それも夜明け前という時間帯に突然やって来た信長を朝廷側は一切騒ぎ立てず、極一部の者を除いて信長が来たという事実すら知らぬままに謁見の間へ通した。それにより夜明け前という異例の時間帯に謁見が行われることとなった。
そして、信長はその場にて正親町天皇より直々に将軍職への就任と室町幕府に成り代わる新たな幕府の設立を打診された。
「他ならぬ朕の頼みだ。やってくれるな?」
「丁重にお断り申す」
「何故じゃ!?御主は将軍になりたくて戦ってきたのであろう!?」
「否。断じて否にござる」
信長は胸を張り、凛とした態度ではっきりとそう云った。
歴史上では暴虐の徒とされ 、その性格は奔放且つ残忍な人物であると伝えられている信長であるが、その人物像とは異なる信長の姿がそこに
この信長の姿こそ、臣下に慕われ民百姓から讃えられていた真の
「ぬうう…では何が目的なのじゃ!?御主ほど欲深い者はいないと世間でも噂しておる!御主は何のために戦い、何のために勝ってきたのじゃ!?御主の
「世間の噂話など是非もなし。…
信長は自らを三郎と称し、自身の考えを伝えた。
三郎は信長が若き日に名乗っていた名であり、その後は別の自称または
この頃の信長は既に官位を失っていたとは云えども遥か以前に名乗ることを止めた三郎の名を自称するその行為、それはまるで若き日に抱いた信念が全く揺らいでいないと云っている様であった。
「むう……なるほどのう。よし、入ってこい
正親町天皇のその言葉で一人の男が謁見の間へ入ってきた。
その男は
この前久という男は歴とした公家の身分を有し、同じ公家の中でも別格の
前久は公家でありながら信長と
それだけでなく、前久は信長の死後に
猶子とは、
「ほう?誰かと思えば
「いかにもその通りだ。
「無論、そうするべきであろう。前だの後だのどうでもいい。俺は既に官位を辞しているのだからな」
信長と前久は言葉を交わすと同時に互いの眼を視ることで互いの
二人には多くの言葉を必要としなかった。
「…して、帝よ。貴殿はその
「
「よいよい。
「ふっ…どうやら帝も人としての礼儀は持ち合わせている様で安心し申した」
信長は敢えて「人として」と云った。
これは『天皇は人ではない』という前提から出た皮肉の言葉である。
「ほっほっほっ…人として、か。御主、朕を試したな?」
正親町天皇の云った通りだった。
信長は正親町天皇に対して不遜な物云いをする事で人としての心を持ち合わせているかどうかを試した。
一方的に信長を呼び出し、権威を与えると云ってその反応を見ることで信長が如何なる人物かを試した正親町天皇の行為は天皇としては当たり前の行為かも知れない。この国に於いての天皇とはそういう立場なのである。
だが、もし天皇ではなく
信長は自身に対する人としての越権行為に対し、正親町天皇には天皇に対しての越権行為をする事で正親町天皇を試したのだった。
この意趣返しとも云える一連の
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