第77話「大御所の計略」

 慶一郎けいいちろうによる水戸獲りの宣言がされた時刻とほぼ同時刻、徳川とくがわ家康いえやすの居城である駿府すんぷ城内。

 駿府城とは、その名の通り駿府藩にある城であり、既に将軍職を辞してと呼ばれていた家康が慶長十一年から暮らしている。

 なお、駿府藩は家康が暮らし始めて実質的な領主となった際に一度廃藩となったが、その後、水戸藩より転封てんぽうした頼将よりのぶが藩主となった慶長十四年より再び藩となっている。

 しかし、藩主となった頼将はまだ若く、慶長十九年時点の駿府藩は未だに家康の実質的な直轄領となっている状態である。


「で?どうだ?水戸の状況は?むん!」


「んはぁ!…ん…ふう……」


「…はっ!奴が大御所おおごしょ様の指示により水戸藩へ入った直後に公布した触状ふれじょうにより藩内は勿論、藩外の近隣地までも多大な影響が出ている模様です。特にここ半年程の荒れ方は凄まじく、藩内の役人は野盗や山賊などよりもたちが悪く、暴徒と手を組み近隣から若い娘や幼児をかどわかして売買する者、相手の身分を問わず因縁をつけて斬り殺す者などが次々に現れ、虐げられた者達の自殺が多発しております。更に、身分を問わず無断で藩を抜けた事が判明した折には一族郎党だけでなく雇いびとに至るまで全てをみなごろしにするという処置が暗黙にて認められております」


「ほう。の思惑の上をいっておるな。やはり彼奴あやつは使える。むん!むん!むん!」


「ん!く!…あん…ダメです大御所おおごしょ様、そんなに激しく……あっ!?て、天子てんし様!今のは思わず云い間違いを…あぎっ!!」


 女が慌てて云い直したその瞬間、男は抱いていた女の首を無造作にし折った。折れた女の剄部からは骨が飛び出し、女が死んだことは明らかだった。


「……大馬鹿者めが。この駿府城では朕こそが帝であると昨日云ったであろう。…誰ぞ外にるであろう!犬の餌が出来た!取りに来い!」


 女を殺した男は部屋の外にいる配下に声を掛けると女の死体を片付けさせ、それを解体して犬に与える様に指示した。

 そして、二人の男は女の死体を片付けた後の血の臭いが残る室内で、まるで何もなかったかの様に会話を再開した。


大御所おおごしょ様、今回の城内規則はでございますか?」


「うむ。昨日から一月ひとつきの間、ここ駿府城内では朕が、この次郎じろう三郎さぶろう家康いえやすが帝である。これを伝えた以上、半蔵はんぞうの名を継ぐお前であろうと朕の事を天子と呼ばねばその場で殺す、よいな?」


 水戸の現状を伝えていた男の名は半蔵、そして半蔵からそれを聞いていた男はまさしく大御所、即ち徳川家康であった。


御意ぎょい。では天子てんし様、真に申し上げにくいのですが…」


「……なんぞ起きたか?気にするな、有り体に申せ」


「それでは申し上げます。昨日報告した真田の弟の二度目の暗殺未遂の件、この失敗には恐らく医聖こと永田ながた徳本とくほんが関わっております」


「ぬう!?あの老いれが…間違いないのだな?」


「はっ!一度目に送った刺客もの達は真田の次男に仕えていたうしおなる者の妨害によって阻まれ、皆が殺されるか自害しておりましたが、二度目に送った刺客もの達は何れも細い枝の様な道具もので耳の穴を一突きにされ、立ち上がることが困難な状態ではあるものの生かされておりました」


「それとあの徳本じじいに何が関係ある?」


「詳しいことは私にもわかりかねます。しかしながら…御医に聞いた話によると、耳の奥には人間が歩くために必要な器官があり、それを傷つけられたために歩行が困難になったとのことです。そして、これを人命を奪わずに的確に行うには相当な医術の心得と武術の力量うでか必要であると……」


「ほう。それは確かにあの徳本じじい以外には考えられんな。我が国きっての医術と帝の護衛兵に伝わるとされる秘伝の武術の使い手である奴ならば、例え小枝一本であっても二十人の刺客と渡り合うことが可能だろう。…奴が米沢に居たことは聞いておったが真田の次男に手を貸すとはな。となると、鐘に生意気な文言を印し、この次郎じろう三郎さぶろうに刃向かった真田の次男の命を獲るのは後回しにするしかないな。…まあいい。真田の次男程度のは放っておいてかまわんだろう。居所もわからんのだから真田は捨て置け。それより、例の左利きの男はどうなった?」


 家康は方広寺の一件を既に知り、それに対する報いとして信繁のぶしげを暗殺するために二度、刺客を送っていた。

 一度目はうしおが死んだ日、二度目は慶一郎と喜助きすけが米沢を経った翌日のことだった。二度目の襲撃は全て徳本とくほんによって阻まれ、家康は以後の信繁の消息を捉える事が出来なくなっていた。


立花たちばな慶一郎けいいちろうですね。奴は米沢で信繁のぶしげと別れて江戸に向かったと思われます。しかし、今までと同様に後を付けさせていた者達が道中で斬られたため詳細は不明です」


「そうか。あの男こそ徳川の次期当主である竹千代たけちよの護衛武者に相応しい。草の根を分けてでも探しだし、必ずここへ連れてこい。よいな?」


「御意」


 竹千代とは、後に徳川第三代将軍となる徳川とくがわ家光いえみつの幼名である。

 家光は、数多くの子と孫を持つ家康にとって特別な存在であった。それは、自身と同じ幼名である竹千代を名乗らせていることからも明らかである。

 そして、家康と家光には歴史に遺される事のないがあった。

 それは…


「ところで天子てんし様、なぜあの男を欲しがるのですか?竹千代たけちよ様には柳生でも小野でも腕に自信のある者を付ければよいのでは?」


天子てんしはもうよい。…お前も半蔵はんぞうの名を継ぐとは云えどまだ二十歳はたち、青いな。竹千代たけちよまもるのは奴でなくてはならん」


「む…では大御所おおごしょ様、なぜあの男でないといけないのですか?」


「よく聞け半蔵はんぞう。今のところ確証はないが、立花たちばな慶一郎けいいちろうというあの男、恐らく立花たちばな甚五郎じんごろうの血を継いでおる」


「それは真でございますか!?」


「くかか、恐らくと云ったであろう。だが、四年前にあの山で死んだ立花たちばな甚五郎じんごろう餓鬼がきを育てていたと云う噂を耳にしたことがある。そして、あの山から一人の餓鬼が逃げておる」


「しかしその子供は…」


「うむ。数刻後には死体で見つかった。人相すら判断出来ぬ程に斬り刻まれ、焼かれた状態でな」


 これは、当時その場にいた潮が徳川を欺くために行った策であった。慶一郎の逃亡を見届けた潮は刺客に紛れ込み、他者の死体を慶一郎の死体として報告していた。この潮の策に対して刺客を率いていた者はあっさりと納得した。それも仕方がない事であった。

 あの日、甚五郎と慶一郎が暮らしていた山中に送られた刺客は徳川にとって秘中の秘とも云える精鋭揃いであり、その精鋭揃いの刺客を率いていたにも関わらず多くの犠牲を被った末に子供を取り逃がしたなどと報告する事は出来ず、刺客を率いていた者は死体が見つかった時に真偽を確かめることをしなかった。確かめようにも方法がなかったが、万が一にもその死体が別人であってはならないため、端から確かめることなどしなかったのである。何故なら刺客を率いていた者にとっては家康に対して出来る報告は「成功」のみであり、失敗は即ち一族郎党に渡るまでの埋没を意味していた。

 こうして、ほんの少し前迄は徳川にとっては慶一郎は死んだことになっていた。


「その時の死体が別人の者であったならあるいは…」


「くかか、その通りだ。もしあの時の餓鬼が稀代の達人である立花たちばな甚五郎じんごろうの子であり、生き残っていたならば、巷を騒がせておる立花たちばな慶一郎けいいちろうという男と同一人物であっても不思議はない。なにせ同じ立花たちばな、同じだ。…普通、侍は左で物は扱わぬ。その普通ではない左の達人が二人、その二人が二人共に立花たちばなと名乗る。…関わり合いを疑うのも無理からぬ事だろう?」


「もしも…もしも真実ほんとう立花たちばな慶一郎けいいちろうなる者があの伝説の立花たちばな甚五郎じんごろうの子或いは弟子であったとしても、私ならば立花たちばな慶一郎けいいちろうを三十秒で殺してみせます」


「流石は三代目半蔵はんぞう。鬼と呼ばれた先代よりも勇ましいな。だが殺すな。奴はである竹千代の護衛にする。これは既に決定した事だ。そのために奴を賞金首にして追い詰めたのだ。いかに強者つわものといえど疲弊しきったならば権力に頼らざるを得ん。現に奴は真田なんぞに頼っておる。半蔵はんぞう、奴の力量うでがお前より下でも上でも関係ない。立花たちばな慶一郎けいいちろう、奴には父親である甚五郎じんごろうを殺せと命じたわしの子の護衛をさせる。父親を殺された子が復讐相手の子を護るのだ。これ程に滑稽なことはないであろう!くかかかかかか!」


「相変わらず大御所おおごしょ様は性格が螺曲がっておられる。秀忠ひでただ様の奥方に子を生ませ、それを秀忠ひでただ様に隠しておられるばかりか、その様な事を考えておられるとは…」


秀忠ひでただは本来は将軍の器ではない。よってその子も将軍の器ではない。故に我が子を奴の嫁に仕込んでやったまで。半蔵はんぞうよ、わしが螺曲がっておるか?だが、竹千代たけちよの出生を知りながら秀忠ひでただに仕えるふりをしてわしに仕えておるお前も螺曲がっているではないか。くかかかか!」


 家康の口から語られた竹千代の秘密とは、竹千代が秀忠の子ではなくであるという事実であった。

 家康は将軍を辞する遥か以前から自身の跡継ぎである秀忠が愚鈍であると知っていた。それ故に秀忠の子を徳川家の跡継ぎとして据えるのではなく、秀忠の継室であるごうに自身の子を生ませ、それを秀忠の子と偽っていたのである。

 そして、その家康の子である竹千代の護衛を慶一郎にさせようと画策していた。

 それから暫くして…


「………では大御所おおごしょ様、手筈通りに徳川の名のもとに水戸を変えて参ります」


「うむ。徳川の名を騙る独裁者を成敗し、水戸を救ったのは徳川であると示してこい。これでまた徳川の評判は上がるであろう」


「御意」


 半蔵は水戸藩主代理となっている男を斬るために駿府城を離れて水戸へと向かった。

 自身の指示で送り込んだ者により意図的に水戸を荒れさせ、折を見てそれを正して徳川が英雄であるという偶像を創る。

 これこそが家康の描いていた水戸の一件の結末であり、家康による徳川の世を強固にするための計略であった。

 しかし、その計略は既に慶一郎という存在によってほころび始めていた。

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