第16話「鐘銘」

慶一郎けいいちろう殿、こちらです」


 この日、慶一郎けいいちろう早雪さゆきと共に京都にある寺へ来ていた。

 寺の名は方広寺。五年前から豊臣家が再建に関わっている寺であった。


早雪さゆき殿。この寺に何があるのですか?」


慶一郎けいいちろう殿。今はともかく付いてきてください。言葉で語るよりもその目で見て頂いたほうが早いかと」


(一体何があるんだ?まさかここに源二郎げんじろう殿が隠れているとは思えないが…しかし、やはり寺は落ち着かないな。父上を思い出してしまう……)


 慶一郎は長年の流浪生活で人目を避けるために廃寺に寝泊まりすることは多かったが、本音を云えば寺は好きではなかった。それは慶一郎の父である甚五郎じんごろうが毎月必ず仏像を彫り、寺に奉納していたことを思い出してしまうからだった。


早雪さゆき殿はこの寺が豊臣再建と徳川打倒を目指す真田にとって、その最初の一歩を踏み出す場所と云っていたが、特段変わった様子はない。もっとも、この様な場所にある寺で徳川打倒のための備えを進めるというのは愚の骨頂だが…ここは秘密を作るには近過ぎる)


 徳川が幕府を置いた江戸からは離れているとはいえ、人が多い京都にある寺で反徳川を掲げるのは近過ぎると慶一郎は感じていた。


慶一郎けいいちろう殿、着きました。これをご覧ください」


梵鐘ぼんしょう…これが何か?」


 早雪は慶一郎にまだ吊る前の真新しい梵鐘を見ろと云ったが、慶一郎は何のことかわからなかった。早雪の言葉の真意がわからない慶一郎に対して早雪は再び口を開いた。


銘文めいぶんをご覧ください」


 慶一郎は云われるがままに鐘に印された銘文を読み始めた。

 そして…


「なっ…!?」


「わかりましたか?この寺が徳川打倒の最初の一歩となる理由が」


早雪さゆき殿…まさかこれを真田が…!?」


 慶一郎は銘文に書かれた二つの文言に目を奪われた。

 慶一郎が目を奪われた二つの文言は、の二つだった。


「はい。お察しの通り、それは真田が手回しをして銘じたものです。そしてその文言の意味は慶一郎けいいちろう殿が感じた通りかと」


 感じた通り、たったそれだけの言葉で慶一郎には早雪の伝えたかったこと、真田の意志の全てが伝わった。


(国、君楽…これを真田が…それが真実ならば…これは単なる銘ではない…これは、徳川への宣戦布告だ…!!)


 慶一郎はこの銘文が徳川への宣戦布告であると感じ取った。

 本来、寺社というものは権力者からの圧力や政治への荷担を避けるため、治世者の名前などの取り扱いは非常に厳しく管理し、それを取り扱う際には注意に注意を重ねているものである。しかし、家康いえやすの名の間に安の字を挟み、逆さではあるものの豊臣とよとみに君の字を付けたその文字は、単なる銘文と云うにはあまりにも異質だった。

 そして、その異質な銘文は真田が手回しをして銘じたものであった。


早雪さゆき殿…これを真実ほんとうに真田が…」


「はい。それは再建に関わる者を通じて銘じさせたものです。その文言は私の父の考えたものであり、意味は…慶一郎けいいちろう殿?」


 早雪は鐘に銘じられた文言を説明している途中で慶一郎の様子に異変を感じ、それを止めて慶一郎に呼び掛けた。


「…震えているのですか?」


 慶一郎は震えていた。早雪は慶一郎が震えている理由がわからず困惑した。

 早雪は困惑し、慶一郎の身を案じて慶一郎の傍に寄った。


慶一郎けいいちろう殿、大丈夫で…っ!慶一郎けいいちろう殿!?ねつが!?大丈夫ですか!慶一郎けいいちろう殿!慶一郎けいいちろう殿!」


 慶一郎は震え、高熱を帯びていた。まるで悪寒に身体を支配された様に震えながら人の体温とは思えぬ程の高熱を帯びていた。


慶一郎けいいちろう殿!!くっ!私としたことが…こんなにも震える程に熱があることを気がつかずに連れ回すなんて…申し訳ありません!すぐに戻って医者を!」


「…大丈夫です……」


 小さな声だった。

 慶一郎に寄り添う様にしていた早雪に聴こえるか聴こえないかという程の微かな声量で慶一郎が云った。

 それからほんの少し間を置いた後に慶一郎は再び口を開き、今度は確かに聴こえる声量で云った。


「大丈夫です、早雪さゆき殿。この熱は…この震えは…私のの熱、そしてが震えている証です」


 慶一郎は銘文を読み、魂を熱くし、心を震わされていた。

 八日前、慶一郎は色町で早雪と出逢った。

 その翌日、早雪自身の口から早雪が真田の者であると明かされ、慶一郎は自身の宿命を受け入れて運命と共に生きる覚悟をして真田の意志を聞いた。

 あの日、確かに覚悟を決めた筈だった…

 しかし、慶一郎はどこかで覚悟を決め切れていなかった。

 そしてこの日、慶一郎は圧倒的に不利な立場で私欲ではなくで徳川打倒を掲げる真田の意志が込められた銘文を読み、心魂こころを奪われた。


早雪さゆき殿!私は今、真実ほんとうの意味で覚悟を決めました!早雪さゆき殿、私はあなたの父上と…源二郎げんじろう殿と会いたくなった!私を源二郎げんじろう殿の元へ連れていってもらえますか!?」


慶一郎けいいちろう殿…はい!」


 慶一郎は早雪に真田さなだ信繁のぶしげと会わせる様に求めた。豊臣の血を継ぐ慶一郎が、真田の長となった信繁に会いたいと云った。

 それは、慶長十九年五月三日のことであった。

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