第15話「刀」

甚五郎じんごろう殿、本当に行かれるのですか?」


 朝まで語り明かした日の昼過ぎ、信繁のぶしげは領内から出ていくという甚五郎を見送りに来ていた。


「嗚呼、今日になって急に徳川軍むこうの動きが静かになったのが気になる。もしかすると西で何か動きがあるのやも知れん」


 甚五郎と信繁が刃を交えた時から既に半日以上が経っていた。

 この日の真田領内は戦の最中とは思えない程の静けさに包まれていた。その静けさの要因には、日毎ひごと行われてきた真田軍による徳川軍への奇襲がまだ行われていないということがあったが、甚五郎はそれだけではない何か他の要因があることを感じ取っていた。

 この甚五郎の勘は当たっていた。

 この日、早朝に父である徳川とくがわ家康いえやすからの書状を受け取った徳川とくがわ秀忠ひでただは、真田領の攻略を中断することを余儀なくされ、抑えとして一部の軍勢だけを陣内に残し、自身と徳川軍本隊の大半は昼前には秘密裡ひみつりに上田から去っていたのである。

 この時、秀忠が去ったという事実を真田方に気づかせまいと策を打ったのは、真田の名を継ぎながら徳川方に属する信幸のぶゆきだった。

 信幸はこの日の朝に籠城する戸石城へ秀忠を招き入れていた。その際、秀忠は大袈裟に軍を動かし、小軍で戸石城を囲む真田方へ圧力を与えると共に徳川軍本隊の動きを真田方へ悟らせた。

 しかし、それこそが信幸の策であった。

 戸石城へ招き入れたと思われた秀忠は既に上田を去っており、大袈裟に動いたと思われた徳川軍本隊の大半は直ぐにきびすを返し、秀忠を追って陣を退いていた。


 きょもっまこととし、まこともっきょとする。


 秀忠と主軍が陣を去ったことを父と弟に悟られぬようにするため、信幸は敢えて目立つ様に徳川軍を動かしたのだった。

 そして、この策は成った。信幸は父譲りの巧みな策を披露し、見事に父と弟を欺いたのである。

 信幸は真田を捨ててはいなかったが、主君である徳川に対して義を欠くことはせず、自身が徳川のために何が出来るか、何をすべきかを的確に判断してそれを実行した。


「出来ることならもう一度立合たちあって欲しかったのですが…行くと云うのならばお引き留めは致しません」


「ふっ、俺は君とはもう立合やりたくないよ。あの様に豪力ちからされてしまうと流石に疲れるからな。未だに左手に痺れが残っているよ。ふふ、歳には敵わんな」


「御冗談を。ところで甚五郎じんごろう殿は刀はお持ちではないのですか?」


 信繁は城を出る時から気になっていたことを訊いた。甚五郎は三ヶ月前から全国を見廻っているというのに懐刀すら持たない丸腰の状態だった。

 織田おだ信長のぶなが豊臣とよとみ秀吉ひでよし、二人の天下人により天下統一が果たされたとはいえ、まだ世は天下泰平ではなかった。それにも関わらず、甚五郎の様に手ぶらで全国を廻るというのは明らかに無用心であり、どう考えても危険であった。


「刀を持ち歩くのはやめたよ。の右腕を失う事になったの日にな」


 そう云いながら甚五郎は左手で右腕の袖を捲って見せた。露になった右腕の肘から先の部分には成人の腕と同程度の太さの金属の棒があった。

 甚五郎の右腕はだった。

 甚五郎の右腕の肘から先の部分には、義手というにはあまりにも粗末な一本の鋼鉄の棒が釘や蝶番ちょうつがいで無理矢理に固定されていた。

 この鋼鉄の右腕こそ、信繁が放った渾身の一撃を受け止めたものであった。


「では、ご自身の刀はもう持たぬと?」


 信繁は訊きながら残念そうな顔をしていた。この信繁の問いに対し、甚五郎は何かを考える様にして少し間を置いてから答えた。


「………いや、別にそうではない。そうではないが、俺は此の右腕を失った時、ある事に気がついた」


「気がついたとは?」


「正しくはと云うべきかな…兎も角、俺は右腕を失った時に気がついた。刀を持たずに生きていく事が出来ればそれが一番であると」


「刀を持たずに生きる…それは、抜かずに勝つ、さればこそ真の天下無双である。この様な理念と同義ですか?」


「ふっ…ふはははは」


 信繁の言葉を聞いた甚五郎が大声で笑った。


甚五郎じんごろう殿、私の云ったことは笑うそれ程に遠かったですか?」


 信繁の云った遠かったとは、甚五郎の考えと信繁の考えの差異きょりのことである。


「おっと。いや、すまない。そうではない。源二郎げんじろうくんの考えが余りにも立派過ぎてつい笑ってしまった。いや、此の言い方でも誤解が生じるな…そうだな……要約すると、昌幸まさゆき殿は実に幸福しあわせ者だな。ということだ」


「はい?」


 甚五郎の言葉は信繁には伝わらなかった。皆まで云わなかったが、甚五郎は信繁にこう云っていた。

 信繁の様に武人としても、戦人いくさにんとしても、真っ直ぐで芯のある考え方を持っている息子あとつぎがいる昌幸は幸福しあわせ者である。


「さて、此の辺りで別れよう。此の先には徳川の先方を任された源三郎げんざぶろうくんの陣がある。いくら実弟の源二郎げんじろうくんであろうと敵方の陣に近寄り過ぎるのは良くない」


 偵察用に設けられた徳川軍の陣が遠くに見えてきたという距離で甚五郎が切り出した。

 そして、甚五郎はそれまで乗ってきた馬から下りた。


甚五郎じんごろう殿。その馬は甚五郎じんごろう殿への餞別せんべつだと父上が…」


「ふっ、馬に乗っていては城内へは入れんだろう?」


「城内に入る?」


 信繁は思わず聞き返していた。


「嗚呼、折角だから源三郎げんざぶろうくんにも会っておきたいと思ってな」


甚五郎じんごろう殿!?それはあまりにも危険では…兄上は戦場において寸分の油断も無き人でございます。戦の最中で見ず知らずの者をみすみす城へ引き入れるなど…」


「確かにそうかも知れんな。しかし、多少危険であってもあの御転婆な小松こまつ殿の旦那となった男がどの様な男なのか、それをどうしても確かめたくてな…」


 甚五郎はこう云ったが実際の理由はそうではなかった。甚五郎の本心は、小松殿の旦那としてではなく、信繁の兄としての信幸とどうしても会っておきたかった。

 弟の信繁の武勇と戦の巧みさ、人としての芯の強さを目の当たりにし、その兄の信幸がどの様な人物なのかをどうしても確かめておきたかった。

 兄弟だからといって個人の武勇の強弱は似ていなくとも、信繁の兄である信幸の戦に対する考え方や世に対する姿勢、それを確かめたかったのである。


甚五郎じんごろう殿は小松こまつ殿をご存じなのですね。しかし、御転婆などと申しては…」


「おっと。確かに不味まずいな…源二郎げんじろうくん、俺が小松こまつ殿を御転婆と云った事は内密に頼む。万が一小松こまつ殿に知られたら御転婆かどうか確かめてくれと立合たちあいを申し込まれかねんからな。彼女は千代ちよにも劣らぬ女武士もののふ、怒らせてしまうとちと扱いに困る…」


「さて、どうしますかな。ははは」


 信繁は甚五郎にも困ることがあるというのが面白くて思わず笑っていた。信繁の笑い声に同調する様にして甚五郎も笑った。二人は別れ際に大声で笑いあっていた。

 そして、一頻ひとしきり笑いあった二人は今度こそ別れることにした。

 先に口を開いたのは信繁だった。


「…甚五郎じんごろう殿。御迷惑でなければこれをお持ちください」


 信繁は一振りの刀を甚五郎へ差し出した。

 それは、信繁が甚五郎と立合たちあったときに使っていた刀であり、信繁が得意とする膂力ちからを以て先の先を取るという豪剣の衝撃にも耐えた名刀だった。


「………真によいのかな?」


 甚五郎は信繁が差し出したその刀が普通の刀ではないと直感し、それを自らに譲ろうとしている信繁の心意気を察して断ることをしなかった。


「はい。是非ともお持ちください」


かたじけない。恩に着る…む!?源二郎げんじろうくん、これはもしや…」


 刀を受け取った甚五郎は、手にした刀を抜いたその瞬間に刀の本質を見抜いた。


「さすがは甚五郎じんごろう殿。御察しの通り、その刀は村正の系譜を継ぐ者が生み出したものでございます」


 信繁が甚五郎に渡した刀は村正だった。

 村正とは、その斬味きれあじは他に類を見ないと称される実戦刀であり、後世になると徳川に仇なすという噂が発出してとまで云われることになる名刀である。


「実を申すと我が真田家にはそれの他に、もうあと二振りの村正がございます。その一つは私が継いだ戦槍せんそう。もう一つは兄の信幸が継いだ短刀。そしてそれは、祖父の生家である海野うんの家にあったとされるものでございます」


「やはり村正か…改めて訊くが、よいのかな?」


「はい。その刀は是非とも甚五郎じんごろう殿…そして甚五郎じんごろう殿の子である慶一郎けいいちろう殿に頂きたいと思います。これは父も了承していることでございます」


「…そうか。其ならば遠慮なく使もらう事にしよう」


 持っていて頂きたいと云った信繁に対し、甚五郎は使わせてもらうと云った。

 それは、この受け取った刀は持つだけではなく、刀を持っている限りはそれを使い、武士でなくとも剣の鍛練を欠かさずにいる。だから、いつの日かまた立合たちあおうという甚五郎から信繁へ向けた言葉だった。

 こうして、二人は別れた。

 以後、甚五郎と信繁は二度と会うことはなく、二人が再び立合たちあうことはなかった。

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