313

「い、いやでも、わたしが仮に死んだとしても、イナリは戻ってこないんじゃ……」


 そもそも、わたしがこちらに来る前から、イナリは冒険者を辞めて今の職業についていたはず。だから、わたしが死んだって、さして影響はない。

 と、思って言ってみたのだが。


「ハァ? アンタ、イナリの女なんだろ。大事にしてる女が冒険者に殺されたら、冒険者に戻って、特権を利用してでも殺しにくるだろ」


 その理論は全然わかんない! 百歩譲って、イナリが復讐に走るとして、それが冒険者になることに繋がるのか……?

 いや、でも、ウィルフがジェルバイドさんを探す為に冒険者になったんだっけ。冒険者の情報を探すには、冒険者になったほうが手っ取り早かったりするんだろうか。


「――僕は、戻らないよ」


 ピリピリとした緊張感が走る中、イナリは静かに言った。


「僕は戻らない。冒険者なんて、やりたいことが特にないから適当になっただけだ」


「適当!? 適当であんな強くなるって!? 嘘ばっか言うんじゃないよ!」


 ガリガリと、シャシカさんは頭をかく。苛立ちを隠そうともしない。

 何か反撃する手立てはないか、わたしは辺りを見回しながら考える。


 今回のシャシカさんは前回とは全然雰囲気が違う。ちょっと寄っただけ、みたいな気軽さがあった前回は言葉だけで帰ってくれたけど、「絶対殺す」と言わんばかりの強い殺意を持った今回は、簡単に納得して帰ってくれそうになかった。


 イナリの部屋に散乱しているものは、大体が布か紙で投げにくそうな上に当たってもたいしたダメージにならなそうなものばかりだ。一瞬の目隠しには使えるかもしれないが、その後すぐに反撃を食らってしまうことが簡単に予想できる。

 これらを使うなら、一撃で対処できるなにかを思いついてからじゃないと。


 ……いや、もういっそ魔法使うか? 最近魔法の使用を控えているし、多分、使っても大丈夫だと思うけど……。


 何とか打開策を、と頭を使っていると、室内に、この緊迫した状況にそぐわない音が聞こえてきた。


 ――コンコン。


 ノックの音だ。扉を叩く音。

 バッとシャシカさんが扉の方を見る。その一瞬で、イナリが動いた。

 ガッとベッドの上に載ったかと思うと、そのままシャシカさんに組みついて、短剣を取り上げる。ベッドの上に落ちた短剣をイナリが蹴飛ばした。ベッドの下へと落ちる。

 なんとか拘束から逃れようとシャシカさんが身をよじるが、体格の差で逃れられないようで、じたばたと暴れるのみだ。


「イナリー、マレーゼー、いるー? マレーゼの忘れ物届けにきたんだけどぉ」


 フィジャの声だ。緊迫した室内とは裏腹に、非常に明るい、抜けた声。


「今取り込み中! 出られないからポストに適当に突っ込んでおいて!」


 イナリが強く叫ぶ。次いで、わたしに、「その辺の長い布、取って」と指示してきた。わたしは床に散乱したものの中から、帯のような布を彼にわたした。ついでに短剣を拾ってもっと遠くへ行くよう、床で滑らせた。


「え、大丈夫?」


 フィジャの心配する声。全然大丈夫じゃないけど、多分、フィジャが手伝えることはそうないと思う。フィジャだって男だからある程度の力はあると思うけど、『戦闘力』という話で考えるならば、シャシカさんには敵わないだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る