310

 売ってたら買うのにな、と思っていると、背後から「どれ?」と声がする。


「これ――」


 これが好き、と言おうとして、ぴしりと固まってしまった。振返ると、すぐ近くにイナリがいたのである。気が付いているのはわたしだけで、イナリの視線はわたしの手元に注がれている。


「ああ、これ。君、結構ワンピース好きだよね」


 好きだと思った、と笑いながらイナリがこちらを見る。ようやく顔の近さに気が付いたのか、笑顔が固まった。

 ほんの数秒、間があいて、一気にかぁっと顔が赤くなる。


「近い!」


「いや、うるさ!」


 ただでさえ顔が近いのに、叫ばれると耳がキーンとなってしまう。反射でわたしも叫んでしまったので、おあいこだが。

 イナリの耳にもダメージが入ったようで、眉をしかめながら耳を押さえていた。……もしかしてわたしのほうが声量大きかったりする? わたしも耳がキーンとなったが押さえる程ではない。


「な、なんかごめん……」


 思わず謝ってしまった。


「……別に」


 イナリは顔を赤くしたまま、わたしの手からワンピースのデザイン画だけをひったくる。そしてそのまま、机の隣にある棚の、紙束の上に置いた。そしてそのまま作業に戻る。


「これもそっち置く?」


 もしかして必要だったのかな、と思い、残ったデザイン画もいるかと聞くが、「いらない。その辺に置いておいて」と言われてしまった。


「その辺って……」


「さっき置いてあった場所でいいよ」


 さっき置いてあった場所、と言われてもそこは床なんだけど……本当にいいの? 丁度通り道で、イナリが使う作業机に行こうとしたら踏んでしまうと思うんだが……。

 イナリは避けて歩くスキルが高いのかな、と思って端に避けつつも床の上に置いた。

 床の上に置く際に、辺りをちらっと見てみると、やっぱり書類やらデザイン画やらが散乱しているけれど、踏んだ跡がついているものは一つもない。


「……イナリって、浮いて歩けるの?」


 自分でも馬鹿な質問をしてしまったと思う。でも、こんなに紙が散らばっているのに、踏んだ跡がないなんて、浮いているからとしか思えない。


「は?」


 案の定、呆れたような声が聞こえた。


「だって全然踏んだ跡がないから。こんなにも床に散らばってるのに」


「見て歩いているだけ。浮くなら、君の方が出来るんじゃないの」


 「魔法で?」と聞くと、肯定の返事が帰ってきた。


「まあ、できなくはないけど……」


 でも多分、やったら床に置いてある紙はばさばさと舞うことだろう。風もなく浮くのは、わたしには無理だ。


「――っと」


 立ち上がろうとして、髪飾りが床に落ちてしまう。髪へ刺さりが悪かったのか。

 ベッドの下に転がってしまい、わたしはひょいとベッドの下を見た。部屋は物で散乱しているくせに、意外とベッドの下には物がな――目が、合った。

 ベッドの下に、誰かいる。


「ぎゃぁあああ!」


 びっくりして、いままでにないくらいの大音量で叫んでしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る