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 こども――子供。


 考えても見なかった言葉に、わたしは牛乳パックを落としそうになった。慌てて手に力を込めると、ぺこ、とパックがへこむ。

 幸い、中身は半分以下で、あふれることはなかったが、落としても握りつぶして牛乳があふれても嫌なので、そっと作業台に置いた。


 子供。


 その単語が、今一度わたしの脳内をぐるぐるとめぐる。えっ、子供?


「こ、子供……?」


「そう、子供」


 聞き間違いかと、聞きなおしてみるが、聞き間違いなんかではなかった。


「三色鱗が気持ち悪くないのは分かったけどさ、ボクらと『どこまで』出来るのかなって、ちょっと思って」


 どこまで。


 どこまでって、何処だよ――と思うほど、わたしは幼くない。流石にね。

 話の流れ的には、まあ、いわゆる男女の営み的なあれそれだろう。正直、フィジャの口からそんな話題が出るとは思っていなかった。四人の中でも一番幼く見えるっていうか、そういうのとは、遠い場所に良そうだったから。偏見だけど。


「え、ぎゃ、逆にフィジャは出来るの? ……その、わたしと、そういうこと」


「したいよ」


「した――したいよ!?」


 出来る出来ないの返事ではなく、したいと来た。えっ、牛乳パック置いておいてよかった。絶対こぼして大惨事になってたかも。

 なんて、一瞬現実逃避をする。

 脳が処理落ちしそうだ。


「まあ、無理にとは言わないよ。ボクはこんなだし、正直、『お嫁さんと一緒に店をやる』っていう諦めてた夢が叶うんだし、これ以上は望みすぎかなって思うけど。でも、そりゃあ、したいって思うでしょ。……好きな子相手には」


「待って」


 わたしは思わず顔を覆った。熱い。絶対に他人に見せられない情けない顔をしている自信がある。

 好き? フィジャが? わたしを?

 確かに、フィジャは最初からわたしには好感度高そうな対応だったけど。でも、あれはどっちかっていうと友情っていうか、フレンドリーっていうか、そういう、そういう好感度のはずではなかったのか?

 それとも、そう思っていたのは、わたしだけだったのか。


 わたしを『好き』というフィジャが、普通の男の人に見えてしまって。ついさっきまでは仲のいい、年下の男友達のようだと思っていたのに。


 ――フィジャの家に来て一か月とちょっと。ようやく、気が付いてしまった。


 年頃の男女が、一つ屋根の下で生活しているということに。

 居候でもなんでもなくて、これは同棲であるということに。

 今更ながら。

 意識してしまうともう駄目で、心臓がばくばくと激しく動くのが分かる。完全に、キャパオーバーだった。


「か、かんがえたこと、なかった」


 そう絞り出すのが、限界だった。


「だ、だって、わたし、一夫一妻の世界でしか生きたことなくて、一杯相手がいるときの正解、わかんないし、それに、そもそも、し、し、したことないし!」


 一対一の恋愛ですら、学生時代の、キスどまりのようなものしかしたことがない。あれを四人分すればいいのか、それとも四人まとめて相手を……いやそれは普通に無理だな。流石にそれはない。体力的にも精神的にも。


 四人と結婚しないといけない、と決まった時は、ある種の諦めで決めたけれど。あんまり嫌悪感がなかった……とは思う。

 それが、ただ現実味がなくて受け入れられていなかっただけなのか、四人を同時に愛して幸せにできるだけの器がわたしにあるのか、まだ分からないけれど。


「じゃあ、考えといて」


 指の隙間から、ちょこっとだけフィジャの顔を見れば、今までにないくらい、男の人の表情をしていた。


「……あんまり、悪い反応じゃなくて安心したよ。ちゃんと答えが出るまで、ボク、待ってるから」


「ひえ」


 それだけ、とフィジャは言って、部屋に戻っていった。この空気の中、フィジャに見守られながらパン粥を作るのは非常に気まずいので、席を外してくれるのは助かるといえば助かるけど……。


 パンに伸ばした手は、情けないほど震えていた。


 フィジャの家を出るまで、あと三か月。ちゃんと彼と生活出来るだろうかと、とても緊張してきたわけだが、それはフィジャとの生活が一旦終わるだけで、彼との関係が切れるわけじゃない。

 むしろ、その後からのが、本番なのである。

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