26

 イナリさんの家は、グリオン工務店からやや離れた場所にあった、少し古ぼけたアパートだった。築年数はそれなりに経っていそうだが、そこまでオンボロ、というわけではない。

 一階の右端が、イナリさんの部屋のようだ。


「お邪魔しまーす……」


 うわあ、と声をあげそうになったのをすんでのところで飲み込んだ。

 男の部屋ってこんなものなのか……と言うくらいに物が散乱していた。しかし、よく見れば、食べ終わった食器がそのまま、だとか、ごみが捨てられずにそのまま、だとか、そういう感じの散らかり方ではない。


 衣類や布生地ばかりが散乱しているのだ。机と、いくつか置かれているトルソーを中心に円を作る様に布類が散らかっている。

 ワンルームの造りになっている部屋は、どこもかしこも布だらけだ。


「ソファーの上は座れるでしょ」


 わたしがどうしたらいいのか分からずに、部屋の前で突っ立っていると、イナリさんはソファーの上にかけられた布を回収しながらそう言った。

 床もほとんど見えないくらいに布が置かれているのだが、イナリさんには歩く道が見えているようだ。私にはさっぱり分からない。


 フィンネルは土足文化のようなので、布を踏んだらおしまいだ……と思いつつ、わたしはつま先で歩き、布を踏まないようにソファーまでなんとかたどり着いた。

 そこに座ると、スッと大きな丸パンと何か緑色の飲料を渡される。


「僕はフィジャみたいに料理作れないから、それで我慢してよね」


「あっ、いえ、十分です。ありがとう……」


 ちらっとキッチンを見ると、まったく使われていないようだ。埃が積もっているのが見える。イナリさんは食に頓着しないタイプなのだろうか。ちなみにキッチンはパッと見た感じでは現代日本のものと大差ない。シーバイズもそうだったが、フィンネルも生活様式が遅れている……というわけではないようだ。水洗トイレだったらいいな、と少し期待してしまう。


 いただきます、と挨拶をし、わたしは丸パンにかぶりついた。少し硬めのパンだが、ぱさついているということはなく、普通においしい。ちょっと薄味なので、ジャムかなんか欲しいな、と思わないでもないのだが、まあなくても食べられる。ただ、大きいので、片手では少し食べにくい。無理ではないが……まあ、コップを置くテーブルがないので仕方がない。


 ちら、とイナリさんの方をうかがうと、彼はベットに座って、わたしと同じ丸パンを食べていた。


「……」


「……」


 双方無言のまま、室内には互いの咀嚼音だけが響く。

 気まずいな、と思いながらも、話題があまりない。わたしはフィンネル国の常識も、獣人の常識も持ち合わせていないため、距離感がいまいちわからず、どこまで踏み込んでいいのか分からない。


 まあ、まったくの手持ち無沙汰でもなく、今は食べることに集中できているのでまだマシだが、食べ終わってしまったらどうしよう……と思いつつ、わたしは緑色の汁をすする。


「んくっ」


 野菜ジュースとか青汁の類かな、と思って飲んだら、予想以上にすっぱくてむせてしまった。予想していた苦みはなく、柑橘系の酸っぱさにびっくりして、変なところに入ったのだ。

 数度、咳き込む。

 イナリさんから、無言の気にかけるような視線を受け、「だいじょうぶです」と答える。思った以上にへろへろの声になってしまったが。

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