01

 ぐるる、とリーデルの腹が悲鳴を上げた。もう、何度目か分からない。


「ひもじい」


 同じく何回言ったか覚えていない嘆きをぽつりと呟いた。その声には生気がまるでない。


「……白魔法、かける?」


 牢の隅で膝を抱くようにして座り込む、淡い緑髪を持つエルフの少女――キキョウが、リーデルに負けず劣らず今にも死にそうな声で、小さく提案した。リーデルの方を見ているようで、別の、どこか遠くを見るような彼女の瞳は濁っている。


「……まだ、いい」


「そう……」


 ささやかな会話は、すぐに終わる。牢に閉じ込められた二人には、会話をする元気が消え失せていた。

 そう、二人は牢に閉じ込められている。牢と言っても、刑期が確定した罪人が閉じ込められるものでなく、罪状と刑期が決まるまで拘束される、仮牢と呼ばれるものだ。犯罪の疑いを賭けられた冒険者だけが収容される、少し特別な牢獄。


 そんな牢に幽閉されていた二人だったが、もう何日、放置されているのかわからない。


「なんでこんなことになったのかな……」


 かすれた声で、キキョウが呟く。言葉を返す気力がないリーデルは、返事もせず黙って言葉を聞いた。この階にはいくつか牢があるが、使われているのはリーデルとキキョウがいる牢だけで、他には誰もおらず、看守の姿さえないので、小さな呟きでも妙に響いた。


「わたしたち、何も悪くないじゃん……。護衛の依頼主が違法薬物の売人だったとか、知らないし。何も、悪く、ないじゃん……」


 キキョウの力ない声に、涙が混じる。ぐすぐすと嗚咽を漏らし始めたキキョウに、リーデルは「確認を怠ったギルドが悪いよな」と返すのがやっとだった。


 隣町まで道中の護衛任務。


 冒険者ギルドではよくある依頼だ。

 最近、パーティーメンバーが冒険者を引退し、リーデルとキキョウの二人きりになってしまったので、慣れた依頼にしよう、と受けたものだった。

 そうして受けた依頼の主が違法薬物の売人で、自分たちまでとばっちりをくらい牢に放り込まれるなんて未来、誰が想像できただろうか。

 冒険者ギルドを通さない、野良クエストだったら自分たちが馬鹿だった、と受け入れることもできただろう。

 しかしそうではない。冒険者ギルドからの正規クエストだったのだ。違法な依頼があるとは夢にも思っていなかった。何のための冒険者ギルドだというのだ。違法な野良クエストから冒険者を守るためじゃないのか。リーデルたちは、そう冒険者ギルドに文句を言いたかった。


 しかし、過ぎたことで今はどうしようもない。直面している問題は別にあった。


 どうしてここまで放置されているのか、ということである。


 牢に放り込まれたばかりの頃は、粗末ではあったが一日三食、定刻に食事が出されていたし、それとは別に日に二度、看守による巡回があった。

 巡回にくる看守からは、冒険者ギルドが動いており、無実が証明されるのも時間の問題で、すぐに出られると聞いていたのに。


 ある日を境に、看守は来なくなってしまった。


 看守が来なくなって一日目は、さぼりかな、なんて話をする余裕もあった。

 けれど、食事がなく、水すらも飲めない環境で、だんだん体力と気力が奪われていくと、会話をすることもままならず、じっとして体力を温存することしかできなくなっていった。

 自警ギルドの仮牢の中では、ほとんどの魔法が使えなくなってしまう。冒険者の大半が下級魔法くらいは使えるため、脱獄防止に魔法無効化の細工が施されているのだ。唯一、怪我や病気を癒す、回復系の白魔法だけは例外だった。


 こんな状況で、キキョウが白魔法を取得しているのが不幸中の幸いだった。

 死ぬギリギリに白魔法を使い、回復して何とか死を免れる。気が狂いそうではあったが、二人は一貫して、死にたくない、と意思を持ち、誰かが来るのをひたすらに待った。

 せめて、草木を操るりょく魔法が使えれば野菜なり薬草なり、それなりに食べられるものを生成できたし、水や氷を操るせい魔法を使えば飲み水の確保もできただろう。


 しかし、それらはどちらも基本的には攻撃系の魔法だ。脱獄に使われてしまうかもしれないものを、牢屋内で使える様にするわけがない。


「なんかもう、普通に脱獄できねえかな……」


「……地面掘る元気がないよ」


「そう、だな」


 こんな状況になってしまうのなら、脱獄による追加罰を恐れないで、体力があるうちにとっとと逃げ出すべきだった。罪状と刑期が確定するまでの簡易的な地下牢だ。牢の中は魔法が使えなくなる術式以外、これといってなんの舗装も施されていない。床も地面となんらかわりない。根気よく掘り続けていればいずれは外に出られたかもしれない。

 今更か、とリーデルは床に寝ころんだ。土の床は冷たく、体温が奪われるのであまり寝ころびたくはなかったが、もはや座るのも疲れてしまった。


「どうせ死ぬなら、伝説級の魔物とかと戦って相打ちで死にたかったなあ。冒険者らしく、さ」


「馬鹿言わないで。わたしが、リーデルのこと、死なせないもん」


 冗談のつもりで言ったリーデルの言葉は、今の状況では真実味を帯びすぎて、キキョウの耳には冗談として入らなかったようだ。さっきまでか細かった声は、随分と強い語調に変わっていた。


「ごめん、今、言っていいことじゃなかったな」


「別に……こんな状況じゃ、まともな判断できないでしょ。でも、もうそういう話はしないで」


 キキョウのほうを見れば、こめかみの辺りをぐりぐりと抑えていた。頭が痛いのだろうか。

 変なことを言った罪悪感から、リーデルは「ごめん」ともう一度、謝った。その視線に気が付いたのか、キキョウは小さく、ゆるく首を横に振った。


「リーデルのせいじゃないわ。だいぶ前から痛いの。……悪いけど、一回、白魔法使っていい?」


「聞かなくても、キキョウの判断で自由にしてくれ。お前が死んだら終わりだろ」


「確かに、それも、そうね」


 一呼吸置き、キキョウは詠唱を始める。


「――ヴァッサーの民よ、あ、ちがっ……え?」


 なぜか水の精霊に祈り出したキキョウは、目を丸くして驚いていた。

 魔法とは、精霊に祈り、願いを叶えてもらうすべ。同じ属性の魔法でも、祈る精霊は細かく分かれており、一つか二つ下級魔法を覚えている、という冒険者は少なくないが、極めるほどの人材はそうそういない。魔法を極め、精通した者を『魔法の使い手』と呼び、『魔法の使い手』は様々な分野で重宝される。

 魔法に強い種族とされるエルフであるキキョウは、その噂通り、様々な魔法を取得していた。


 たいした数の魔法を使えるわけでもないリーデルですら、白魔法ならば光の精霊に祈るべきだと知っている。

 ろくに詠唱もできなくなるほど朦朧としているのか、とリーデルは思ったが、それにしては様子がおかしい。


「キキョウ? 大丈夫か?」


「……使える、かも」


「何を?」


 白魔法は最初から使えるだろう、と言おうとして、リーデルは口をつぐんだ。

 今、キキョウが口にしたのは水の精霊の名前だ。ということは、まさか……。


「水が飲みたすぎて、素で間違えたんだけど、え、嘘、今、詠唱に力入った感じした……」


 詠唱に力が入る。魔法が確実に発動する、という自信。それは一つでも魔法を使える人間なら、『魔法の使い手』でなくとも感覚的に分かるものだ。

 しかし、牢の中で魔法が使えないことはリーデルもキキョウも知っている。ここに入る前、看守から説明されたのだ。

 何より、異変に気が付いた二日目、魔法でどうにかならないかと片っ端から試したが、失敗に終わっている。

 どれだけ呪文を唱えても魔力が霧散し、詠唱に力が入らず、無駄になっていった。

 白魔法以外、何一つ成功しなかったはずだ。


「ヴァッサーの、民よ、我が、僕よ」


 恐る恐るという様子で、キキョウが詠唱を始める。


せいの者が、命ずる、命ずる」


 ここまで詠唱を進めていけば、魔法を使っていないリーデルにも、魔法が発動しかけていることがわかる。

 中級、上級魔法とは違い、魔法陣を必要としない下級魔法は、精霊が発動者の周りに集まる。本来は魔法陣に集まるのだが、下級魔法には魔法陣がない場合が多いため、行き場のない精霊たちは発動者の周りを浮遊するのだ。

 淡く光る精霊たちが、今、キキョウの周りに集まっていた。

 まさかの展開に、リーデルは思わず起き上がる。

 キキョウが、指を軽く折り曲げて交差させ、震える手で椀のような形を作る。


「飲み水を、今、ここに――《水生成ウォルタ)》」


 ――ぱしゃん。


「……嘘、出た」


 リーデルは、キキョウの元へ這うようにして向かう。彼女の両手を覗き込めば、確かに水が存在していた。透き通った、綺麗な、水が。


「り、リーデル! 手、手、出して!」


「お、おう!」


 キキョウと同じように手を椀の形にすると、キキョウがもう一度呪文を唱える。やはり、リーデルの手の中にも、水が現れた。

 どうして、今、なぜ。


 そんな考えが浮かばなかったわけではないが、議論するより先に、二人は久方ぶりの水を口にし、喉を潤した。

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