09
ルトゥールに勧められた出版社の中で、書店の店員に勧められた本。自分の意思で買ったにも関わらず、一切わたしが選んでいないその本たちを毎晩読む日が続いた。
今夜もまた、わたしはページを読み進める。
ルトゥールや店員の態度からして、おそらくは絵本を卒業して、少し文字の多い本を読んでいる子供が、もう少し難しい本を、と考えたときに読み始める本のようだ。だから、描写もマイルドな物が多いが、それでも十分わたしには刺激的だった。
ルトゥールの言う通り、最初から成人本に手を出さなくてよかった。絶対男嫌いが加速していたと思う。
デートして、手を繋いで、キスをして。まあ、子供向けだから、唇同士のキスは、ここぞというシーンでしかしないけど。
お姉ちゃんの『初体験』の話がすっかり頭にこびりついていたわたしは、すっぽりと『付き合う』期間のことをすっかり失念していた。出会って、好きだなって思って、結婚して子作り、ではないのである。普通は。
本を閉じてから眠りに付くまでの短い時間の中で、こういうことを、ジェゼベルドとするのかな、と、つい、想像してしまう。
アリヴィドとはたまに食材の買い出しや、店の参考になれば、と新しい飲食店を開拓する。新しく店が開かれた、という話を聞けば、特に、必ず行く。
でも、デートって、そういう物じゃないんだろう。
アリヴィドはグレイと、ルトゥールはレノと、デートと称して遊びに行くことがそれなりにある。他人の目があるから、わたしにしかデート、とは言わないけれど。
皆、行く前は少しそわそわして、帰って来るときはすごく楽しかった、という顔をしている。
わたしだって、アリヴィドと出かけるのが楽しくないわけじゃないけど、皆の態度とは全然違う。ただ店の為に出かけるだけだから、楽しいけど楽しみではない。
……わたしとジェゼベルドだったら、どんなデートをするんだろう。
わたしは遊びに行くような場所に詳しくはない。いろんな雑誌に取り上げられるような、有名な観光スポットくらいは流石に知っているけど、そこに訪れることはあまりない。アリヴィドとだけじゃなく、個人的にも飲食店を開拓するから、おしゃれなカフェやおいしいご飯屋さんの方が詳しい。
でも、わたしたちだったら、下手にどこかへ遊びに行くよりも、飲食店のがいいかもしれない。
ご飯を食べに出かけて、話をして、帰って来る。昔はよく遊んだけれど、彼が引っ越してから遊べなくなってしまって、そこから先のジェゼベルドを知らない。彼も逆に、今のわたしを知らないだろう。
だから、お互いを知るために、世間話でもして、美味しいご飯を食べる。……そのくらいなら、出来る、かも。
そ、その場合、デートなんだから、手くらいは繋いだほうがいいんだろうか。でも、初回で手を繋ぐのは早くない? 本でだって――いや、これ子供向けの本だった。大人なら初回で手を繋ぐどころか、キスまでしちゃうのかもしれない。ジェゼベルドと? ジェゼベルドとするの?
本の主人公の少女と、相手の男の子を、わたしとジェゼベルドにすり替えて想像してみる。……うーん、やっぱりキスまではちょっと。怖い、というより、緊張してキスまでたどり着けない気がする。
だって、今まで男と極力接触を避けてきたのに、一度にそんなにあれこれできるわけがない。
でも、手を繋ぐくらいなら……?
――ギッ。
「――っ!」
あれこれ考えていたら、扉の外で廊下が軋む音がした。本を読んで感じたドキドキとは比べ物にならないくらい、心臓が早鐘を打っている。
わたしの部屋の前に人がくることは、ほとんどない。寝坊したときか、体調が悪くて寝込んでいるときに、アリヴィドが様子を見に来るくらいである。
でも、彼の足音はこんなに軽くない。本人は気を付けているようだが、体格が大きいので、気を抜くとすぐに足音が大きくなるようだった。
じゃあ誰だろう、と考えたとき――当てはまるのは一人しかいない。
グレイはわたしにあまり興味がないみたいだから来ることはあり得ない。ルトゥールはこんな夜遅くにわたしを尋ねるようなことはしない。仮に来るとしても、よっぽどの緊急事態だろうから、もっとバタバタしているはず。レノは今の時間、とっくに寝ているはずだ。翌日が仕事の休みの日は、誰よりも寝るのが早い。
となればやはり――。
「――ジェゼベルド?」
思わず名前を呼ぶが、返事はなかった。そもそも、足音はしたが、今、扉の前にいるんだろうか。
勇気を出して、わたしはベッドから降りる。ゆっくりと扉へ向かい、深呼吸を一つして、扉を少しだけ、開いた。
――そこには、誰も居なくて。
おかしいな、と扉を開けて廊下を見てみるが、本当に誰もいない。確かに軋んた音を聞いたけれど、聞き間違いだったんだろうか。
廊下に出て、わたしは下へ続く階段の方へと向かう。下を少し覗いて、何もなければ寝てしまおう、と思いながら。
そして、ひょい、と階段を覗く。
「――ひゃあ!」
階段を数段降りた所に、ジェゼベルドが座ってうずくまっていた。びっくりして思わず声を上げてしまった。
誰かいるかも、とは思っていたけど、わたしの頭の中では、階段を降りていく後ろ姿を想像していたのだ。こんな中途半端なところでうずくまっている姿は想像していなかった。
「ジェゼベルド……? た、体調悪いの?」
わたしは数段降りて、彼の隣に座る。少し迷ったが、わたしは彼の肩を揺さぶった。
「……こんな夜中にすみません」
少しだけ、ジェゼベルドが顔を上げる。顔がほとんど腕で隠れているが、見える目元にはクマがあって、半分以上顔が隠れても、疲れ切っている様子が簡単に分かった。現に、声にも張りがない。
いつもの明るい表情がある、とは思っていなかったが、予想以上に弱った姿に、わたしはなんと声をかけたらいいのか分からなかった。
「研究が、全然うまくいかなくて……」
ぽつり、と彼が話始める。
「早く、と思うほど上手くいかない研究結果にいら立ってしまって、効率よく進めるためにも寝た方がいいのは分かっているんですが、眠りにつくぎりぎりまで開発のことを考えていると、『これなら上手く行くかも』と案が思いついて、つい起きて試してみたくなってしまって……。でも、結局は上手く行かないんです」
完全に悪循環だ。誰がどう見たって、こんなの、「休め」と言うしかない。
「貴女の顔を見れば少しは落ち着くかも、と思ってここまで来てしまったんですが、よくよく考えたら今は夜中で、貴女が起きているとも限らないですし、勝手に忍び込んで寝顔を見るのも、非常識だと思って、帰ろうと思ったんです。でも、帰り際、名前を呼ばれたような気がして……」
それで部屋に戻りがたくなってしまって、こんな所で座り込んでいたのだという。
再び顔を伏せてしまったその姿に、がしっと心臓を掴まれたようだった。ぎゅう、と胸が締め付けられる。
別に弱っている姿にキュンときたわけじゃない。でも、こんなにも、わたしの為に頑張れる相手が、わたしに酷いことをするだろうか。
今まで、男を見れば、お姉ちゃんの話が頭をよぎったのに、どうしても、今、この瞬間、彼を見て、お姉ちゃんの話と彼の姿が合致することはなくて。
「――ちゃんと、寝よう、ね? 仮眠とかじゃなくて、ベッドの上で」
思わず、わたしはそんな言葉をかけていた。
「いえ、ベッドの上にも紙や道具が散乱しているので……」
「じゃあ、わたしのベッド、貸すから」
するりと出た言葉。今まで、勇気を出して声をかけたり話をしたり、そんなときはいつだって、やっぱり辞めれば良かったかな、でも頑張らないとな、と後悔しながらも勇気を出して、彼と話をしていた。
でも、今、こんな言葉を出したにも関わらず、後悔の念は一切なくて。
「それに、わたしの部屋の方が近いから」
階段は、ほんの数段しか下りていないので、二階に下りるよりも三階へ上るほうが早い。
頭が働いていないのか、わたしが手を引くと、彼はよたよたとした足取りでついてきた。
「どうぞ」
ベッドまで案内すると、彼は倒れ込むように眠ってしまった。本当に限界だったらしい。下手に階段であのまま眠ってしまわなくて良かった。体がこり固まってしまうくらいならまだいいが、階段から落ちてしまう可能性が十分にあったように思う。
「――おやすみ」
わたしは彼に小さく声をかけると、わたしはソファへと寝ころんだ。
寝室にわたし以外の誰かがいる、というのは落ち着かなくて、なかなか眠りにつけなかったけど――この日、わたしは初めて、家族以外の男と、同じ部屋で眠った。
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