争いのない世界でまったり暮らす
談儀祀
プロローグ:ERの世界
01.ERを始めよう
「――できた」
彼はそう言って立ち上がった。
夜も更けて、卓上ランプだけが部屋の暗闇を切り裂いている。照らされているのは2000頁にも及ぶ論文。その大半は知り合いの学者に頼んで簡単な査読をしてもらってある。
彼が見ていたのは残りのわずかな部分。誰か査読を頼むわけにはいかない、彼オリジナルの概念。
(――そう、異世界への行き方)
繰り返し読み込んでいたそれらをクリップで束ね、丸ごと紙封筒に入れる。ここに置いておけば、いずれ読む者がいるだろう、と彼は考える。
彼の理論上、彼の遺体は発見されない。ならば、彼の部屋を見に来るのは自殺を疑った警官ではなく、彼がいないことに気づいた誰かだ。それならば警察に証拠として押収されてしまうこともないだろう。
彼は封筒を置くと、躊躇いなく部屋を出る。床に散らばった無数の紙は、彼の足を止められない。扉が開く音が一度だけして、そしてそれきり部屋の中は静かになった。
――――――――――
『怪奇! 真夜中の**高速で飛び降り死体の霊が!?』
読者諸君、昨月**日の夜**高速道路で通行止めが発生したことをご存じだろうか。
これは通行中のドライバーから「高速道路の上の歩道橋から転落した人を轢いてしまったようだ」という通報を受けた警察が、その被害者を捜索するために行ったものだ。
結果として、遺体――ないしはそれに類する怪我人は発見されなかった。警察も夜間の単調作業が発生させたとして、事故は発生していないと結論付けた。
しかし、本誌は独自に得た情報よりこの時車を運転していたドライバーに話を聞くことに成功した。
ドライバーは「この車に買い替えてからは事故は起こしていないが、今回の騒ぎの際にバンパーが大きく凹んでおり、これは実際に何者かが衝突した証拠だ」と語り、(後略)
――――――――――
ぱちりと目を開けて、彼はあたりを見回す。
草木が生い茂る森の中、広葉樹の間に獣道が続いている景色は、少なくないVRゲームで採用されているチュートリアルゾーンに見える。
(ひとまずは成功か、では次は……)
彼は自分の今いる地点に納得すると、警戒のため近くの木のそばによって腰を下ろす。道のど真ん中で突っ立っていては森の中にいる獣たちに襲われてしまうからだ。
彼は座ったまま、右手の人差し指で虚空をタッチする。多くのゲームで採用されているメニュー画面起動コマンドだ。
チープな機械音と共に、メニュー画面が表示される。空欄のままの名前の横に『放浪の民』と記載されているのを見て、彼はようやく安堵した。
「放浪の民……、よかった……。『
彼はそのまま空欄の名前欄をタッチすると「タビ」と音声入力する。彼はこのゲームをよく知っている。この名前であればおかしなことにはならないだろう。
『名前は以後変更できませんが問題ありませんか?』
ポップアップに躊躇いなくYESを選択する。メニュー画面には改めて「タビ/放浪の民」が記載され、下部にはアイテムストレージ、マップ、クエストへの遷移ボタンのみ表示されている。本来右端にあったシステムメニューが消えているのを確認し、タビは小さく苦笑した。
タビは手早くアイテムストレージとマップを確認する。どうせクエストはまだ空だろう。アイテムストレージは空、マップも現在いる「はじまりの林道」のみが表示されている。タビはここで首を傾げる。
「『Ewige Reisender』とは少しマップが変わっているのか」
何にせよ、ここで座っていては待っているのは飢えだ。このゲームに餓死の概念は存在しないが、単純に飢えるのは辛い。その前に行動を起こさなければ。
タビはゆっくりと腰を上げた。
――――――――――
『Ewige Reisender』、通称
永遠の旅人の名の通り不老不死の放浪の民になって広い大陸を好きなように歩くVR RPG。
このゲームの特徴は「争いのない世界」だ。
全てのNPCが無限の富を持ち、不老不死であり、"神"に与えられたとおりに生活している。
主人公はこの世界で唯一の役割「放浪の民」によって世界を旅するのだ。
その性質上、重厚なストーリーも対人要素もない本作は、しかしVRゲームとしてはほどほどの売り上げを収めた。
疑う必要がないというのは、疑うことが苦手な人間にとってこれ以上なく魅力的だったのだ。
そしてタビも、そんなERに魅入られた一人であった。
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