Day.11 栞
栞【栞と栞】
本棚には整理整頓された本が並び、心地よい音色のジャズが流れ、コーヒーの香りが漂う。そんな空間で、私はアルバイト店員として働いている。
ここは、いわゆるブックカフェ。コーヒーと読書が好きなマスターが、こだわりの一杯を提供している。店内にある大きな本棚にずらりと並ぶ本は、マスターの私物で閲覧専用。小説からビジネス書から、哲学の本や観光地のガイドブック、世界の絶景をおさめた写真集などなど、本のジャンルは多岐にわたる。
私物の本を持ち込んで読書を楽しむ常連さんも多く、何人かのお客様には私の顔を覚えてもらい顔馴染みになった。
「あら……?」
ある秋晴れの日曜日。お帰りになったお客様の席で、使用済みの食器を片付けていると栞を見つけた。忘れ物だろうな、と思ってマスターに断りを入れ、栞を片手にお店の外へ出る。エプロン姿のままキョロキョロと辺りを見回し探したが、いつもの静かな住宅街にお客様の姿はなかった。
「さっきのお客様、見つかった?」
店内に戻るとマスターに声をかけられた。
「いえ、もういらっしゃらなくて……」
「そうかい。まぁ、後で取りに来るだろう。そんな素敵な栞だからね」
素敵な、という言葉に、手元の栞を改めて確認する。
プラスチック製の、青い半透明の栞。満月と星、それに小鳥のシルエットがデザインされていて、綺麗な夜空を切り取ったような栞だった。確かに、素敵な栞。マスターに、そうですね、と応えて記憶の海をたどる。
あの席に座っていたのは、どんなお客様だったっけ。私と同い年くらいの、若い男性、だったけれど。うちのお店は初めてだったみたいで、注文の時におすすめの飲み物を尋ねられて。マスターこだわりのブレンドコーヒーをすすめて……。あとは、大手書店のブックカバーに包まれた、私物の本を静かに読んでいた。……それしか記憶に残っていない。
マスターと相談して、レジ横の目立つところに【お忘れ物です】とポップをつけた小さな籠を置くことに。栞を籠の中に入れて、早く取りに来てくれるといいんだけどな、と願った。
一週間経っても、二週間経っても、あの栞の持ち主であるお客様はやって来なかった。電話での問い合わせもない。
あんなに綺麗な栞なのに、どうしてだろう。
どこに忘れたか分かっていないのか。忘れたこと自体に気がついていないのか。それとも、栞のひとつくらい、と思って気にしていないのか。
理由を考えては虚しくなってしまう。
「今どき、栞なんてそんなに必要とされていないのかな……」
レジ横の籠の中、夜空の栞はどこか寂しそうに見えた。
「今日は冷たい雨ですね」
「そうだねぇ。そろそろ家の衣替え終わらせなくちゃなぁ」
「ご自宅の衣替え、まだ終わってないんですか……」
お客様がいない店内でマスターとのそんな会話に若干呆れていると、からんからん、とアンティークのドアベルが鳴った。
「あっ……」
思わず声が出てしまった。あの時、と声が出そうになって、なぜか飲み込んでしまう。
夜空の栞の、お客様だ。
「すみません。一ヶ月ほど前に、栞の忘れ物、ありませんでしたか……?」
申し訳なさそうに尋ねるお客様に
「あります!こちらの栞ですよね!」
思っていたより大きな声が出てしまった。籠の中の栞を持ってきて、両手のひらにのせて差し出す。
お客様は何度か瞬きして少し驚いていたが、すぐに安堵の表情を浮かべた。
「良かった、お気に入りの栞だったので……。やはりこちらに忘れていたんですね。あの日、オープンキャンパスの帰りにここに寄ったのは覚えていたんですけれど……。たまたま見かけて入ったカフェだったので、店名も住所も、分からなくて。この辺の土地勘も無かったし。家が他県で、すぐに取りにも来れなくて」
苦笑するお客様に、なるほどそういう事情だったのか、と納得。そして、一箇所だけ引っかかった。
「オープンキャンパス……?もしかして、××大学の、ですか?」
「はい。第一志望の大学なんです」
「良かったねぇ、栞ちゃん。栞のこと気にかけてたもんねぇ。いや、栞先輩、かな?」
マスターが茶化すように軽口を挟んだ。お客様は不思議そうに、首を傾げる。
「栞、先輩?それって、どういう?」
「あー、混乱させちゃってすみません……」
先輩、なんて、呼ばれ慣れてないから気恥ずかしい。頬に熱が集まるのを自覚しながら、形だけの咳払いをした。
小さく深呼吸して、にっこりと微笑む。
「二度目のご来店、ありがとうございます。……店員の高橋栞です。──××大学の二年生です。よろしくね、未来の後輩さん」
次の春、大学のキャンパス内で君と再会するのは、また別のお話。
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