銀時計の形代へ

陶國

プロローグ

 西の空を見上げると、太陽が沈もうとしていた。橙色の球形。空が燃え融けている。あの焔が空を融かし尽くしたら、その狭間に宇宙が広がっているのだろうか。インク壺を倒したときのように、藍が滲み出るだろうか。

あのそらに浮かぶ海の果てに、私の故郷がある。

「秘密にしましょう」

 私は振り返った。私の影が長く岩場に伸びていた。人の輪郭を象ったそれは夕陽を吸っていつもより蠢いているように見える。

 影の先に青年がいた。まだあどけなさの残る横顔が朱く照らされている。眼差しはぼんやりとしていて、時折白い瞼が青年の蒼い瞳を覆い隠した。金の髪がさらさらと潮風に揺れている。薄い唇は僅かに開いていて、うっすらと弧を描いていた。私が青年を観察していると、こくんと白い喉が跳ねた。掠れた声が私の耳朶を打つ。

「レナート先生、僕にあなたの秘密をください」

 青年の視線が私の足元に注がれた。つられて私も俯いた。黒の長い睫毛に縁取られた目が見える。瞳に光が射すことはもう無い。もともと白い顔はさらに血の気が引いていて、彼の魂がこの体から去ったことを知らしめていた。細い首元、そこから赤が零れでて彼の白いシャツを汚している。

 私は一歩足を引いた。革靴の先端に血の飛沫が飛び散っていたことに気が付いたのだ。懐から取り出したハンカチでそれを拭おうとしたが、結局は何もせずにハンカチを仕舞った。彼の肉体はこの後崖下に落とされる。眼下に広がる海の塵となるのだ。彼が存在していたという証明は、この血飛沫しか残らない。


 彼——レナート・ベルマンの生の証明は。


「そうだな」

 私が顔を上げると青年も顔を上げた。青年に私のことはどう見えているだろう。瓜二つのふたりの人間が目の前にいて、片方は死に、もう片方がナイフを持って佇んでいるとしたら、多くの人間はドッペルゲンガーだとか、そういった迷信の類いを持ち出すに違いない。もしくは、双子同士の喧嘩の末路だとか。どちらも私、レナート・ベルマンと、足元に転がる彼、レナート・ベルマンには当てはまらなかった。

 私はしゃがんで彼の瞳を閉じた。首を掻き切られたというのに、どこか穏やかな表情をしている。私には彼が何を考えていたのか判らなかったし、彼は私が何を考えていたのか判らなかっただろう。

 彼の懐にそれはあった。銀細工の懐中時計。彼と私を区別するものはこの時計だった。硝子にはひびが入っていて、針は止まっていた。先程揉み合ったときにぶつけたのだろう。懐中時計をポケットにしまい、私は彼の体を担ぎ上げて崖下を覗き込んだ。岩にぶつかった波が砕けて飛沫を上げている。

 手を離すと、彼はゆっくりと落下していった。ゆっくりと。地球の中心に向かって。世界は静かで穏やかだった。

 私は彼と過ごした日々を思い出した。胸の奥がざわめいていた。しかし私は、このざわめきに名前をつけられなかった。

 どぼんと音を立て、彼が波に喰らわれる。


 これでレナート・ベルマンは唯一無二になった。

「君に私の秘密をあげよう」

 私は青年を振り返った。彼は恍惚とした表情で私を見ていた。側に寄ると、美しく彫られた彼の瞳の虹彩がよく観察できた。眼球は艶めいて、よく磨かれた宝石のようだ。私たちは長い間お互いを見つめていたが、ふと青年が哀しげに眉尻を下げた。

「ですが先生...僕はあなたにあげられるものがありません。」

 私は思わず首を傾げた。

「これは契約ではない。私のきまぐれのようなものだ。気に病む必要はないのだが」

「いいえ。僕が先生の一部を持っている以上、先生にも僕の一部を持っていてもらいたいのです。」

 青年の主張は納得できた。私はしばし逡巡したのち、ある提案を青年にすることにした。

「なら、君の秘密を私にくれ」

「僕の、秘密ですか」

「ああ」

 青年は俯いて黙り込んだ。やがて首を横に振ると、私の顔を見上げてくる。

「無いわけではないのですが、どれも取るに足りないのです」

 青年の瞳が不安げに揺れた。些細なものでも秘密は秘密だろう、と私は口を開きかけたが、やめた。本人が了承できないのならば仕方がない。青年は考え込んでいるようだったので、私は海を眺めることにした。レナート・ベルマンの死骸はもう何処にも見当たらない。朱かった海が紫に染まっていて、夜が近いことを私に告げた。

「先生」

 突然青年が声をあげた。私は逸らしていた視線を青年に戻した。

「僕と秘密をつくってください」

 私は些か驚いて青年を見つめた。青年はいたって真面目な顔をしていた。青年の顔から朱が完全に去り、代わりに暗闇が、私と青年の間を満たした。陽はとうとう没したのだ。

「僕が先生とつくった秘密は、僕と先生の共通の一部になる。存在を形作る欠片に」

 青年の声が闇の中からこだまする。私は青年が本当にそこに居るのか、確かめるために手を伸ばした。微かなぬくもりを持った青年の頬が手に当たる。

「如何ですか、先生」

 私が下ろそうとした手が青年に掴まれる。人間の体温は、私にとって慣れないものだった。熱が手を伝い浸食してくるようで、居心地が悪いのだ。青年の温度が這い上がってくるのを感じながら、私は動揺を隠すように口を開いた。

「わかった。君と秘密をつくろう」

 青年の手がそろそろと離れていった。私はポケットに手を突っ込んだ。触れられると境界が曖昧になる。既に、掴まれた手の表面が融けてきているのを感じる。

 ありがとうございます、と礼をされた。晦冥の中でも金の髪は輝いて見える。闇のヴェールの向こうで、青年が微笑んだ気がした。


 おそらくこのとき、私は彼の深淵を覗いてしまったのだ。

 イェンセン・クルツという人間のうつろを。

 

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