第82話 ジュディさまの事情
テーブルの上のカップを手に取り、ジュディさまは一口、お茶を飲む。
「本当に、どんどん野球が広まっていきますわね」
苦笑しながらそんな風に言う。
「殿下の野球に対する熱意には参りますわ」
「ジュディさまは、野球を続けないのですか?」
私がそう尋ねると、ちらりとこちらを見て、ふっと笑う。
「まさか」
「だって、とてもお上手でしたもの」
「それはどうも。けれどわたくしには選手としての野球は合わないように思いますわ。領地にチームがありますし、野球自体に興味がないわけではないのですけれど」
そう言って、にっこりと微笑む。
「コニーさまは続けるのでしょう? 殿下の球を捕ったくらいですもの」
「個人的には続けたいと思っているのですけれど、試合に出られるレベルには程遠いようです」
「まあ」
苦笑しながら答える私の言葉に、ほほ、とジュディさまは笑った。
私もお茶を一口飲んでから、口を開く。
「殿下は、女子チームもいずれは発足したいと仰っております」
「あら、そんなことまで」
「キャンディさまも近くデビューさせるようですし、ジュディさまにもその先駆けとなっていただければ、と」
「嫌ですわ」
即答だ。
「どうして、とお伺いしても?」
「食い下がりますわね」
ジュディさまは口元に手を当てて笑う。
「それを言うために、わたくしに連絡してきていらしたのかしら?」
「はい」
「あとは、わたくしの立場を慮っていらした、というところかしら」
私はその言葉に、曖昧に微笑む。ごまかしたって無駄なのだろう。
ジュディさまは一つため息をつくと、言った。
「お気遣いはご無用。自分のことは自分でなんとかいたします」
そう、きっぱりと言う。
けれど、私が来たのはそれだけではない。
単純に、私のわがままでもあるのだ。
「わたくし、ジュディさまと一緒に野球がしたいと思っております」
「……わたくしと?」
「はい。だってとても素敵でしたもの。あんな風に捕れるのに、もったいなく思います」
ジュディさまが受けたあの二球目。私は思わず立ち上がって拍手してしまったのだ。
「正直に申し上げて……わたくし、ジュディさまが怖かった。この方には敵わないのかもしれない、そう思ってしまいました。そういう方は、味方にしたいでしょう?」
そう言って微笑むと、ジュディさまはその細い指先で、テーブルの上に置かれたカップの縁をなぞった。
それから小さく息を吐くと、か細い声で続ける。
「わたくしは、コニーさまが怖かった。お兄さまが殿下のチームで野球をしていらしたし、最初からユニフォームを着ていらしたし。きっとこの方が一番の障害になるだろうと思っておりました」
そしてふいに顔を上げた。
「だから重点的に情報戦を仕掛けたつもりだったのですが、引っ掛かりませんでしたわね。どうしてかしら。教えてくださる?」
そう言って小さく首を傾げる。もしかしたら私に会おうと思ってくださったのは、その理由を聞きたかったのかもしれない。
確かに、予選でも本選でも、ジュディさまは私に積極的に話し掛けてきていたように思う。
「それは」
私はジュディさまの目をまっすぐに見て、答える。
「単純に、最後まで諦めない、と決めただけの話です」
「そう」
私の言葉に納得したのか、ジュディさまはふっ、と笑った。
「愚鈍であるが故、ということかしら」
「その通りです」
ジュディさまが言ったことに、特に腹は立たなかった。まさしくその通り、としか言えなかった。
彼女はふいに背筋を伸ばすと、私のほうをじっと見つめてくる。
「わたくしも、かくあるべきでした」
「え?」
ジュディさまは、ゆっくりとその形の良い口を動かす。
「実は、ウォルター殿下が遭難なさったあの外遊」
「は、はい」
殿下の遭難。それは結果的に、このクローザー王国に野球をもたらした。
「あの外遊から帰ってきたら、わたくしとウォルター殿下は正式に婚約することになっていました」
初めて聞くその事実に、私は言葉を失う。ただ、ジュディさまの口が動くのを見つめるだけ。
「けれど、遭難なさってから何年も経ち、わたくしが不安になっているのを見ていた両親は、婚約をお断わりしたのですわ。それでなくとも殿下が帰って来られないことに悲しんでおられた王家の方々を、そのことはさらに打ちのめしました」
そんなことがあったのか。私は聞かされていなかった。
おそらく王家の方々は、婚約を解消されたことで、ウォルター殿下の死が確定されたように感じたのではないだろうか。
「でもそのあとすぐに、殿下が生還なさって」
そう言って小さく自嘲的に笑う。
「慌てて再度の婚約を申し入れましたけれど、それは都合が良すぎると王家の怒りを買いましてね。わたくしとの婚約は完全になくなりました」
客間は、静かだ。屋敷の外で鳴く、鳥のさえずりが聞こえる。
「けれど諦めきれなかったのか、その後も両親は王家に働きかけました。王家の怒りを鎮めることには初期の段階で成功しましたけれど、婚約までには至らず」
そう言って、ジュディさまは物憂げにため息をつく。
もし彼女が愚鈍であって、あと少し、殿下を待っていられたら。
「もしかしたら、正々堂々と受けてたとう、という殿下のお優しさからあの選考会は行われたのかもしれません。無くなってしまった機会を殿下は与えてくれました。わたくしがもし捕球できていれば、殿下は再度、わたくしと婚約する覚悟をしていたと思います」
ジュディさまはそう言う。私もなんとなくだけれど、それが殿下のお気持ちのような気がした。
「単純に、わたくしの力が足りませんでした。そういうことです」
そう断じて背筋を伸ばして座る彼女は、やっぱり美しかった。
窓から入る陽の光に、彼女の金の髪はきらきらと輝いていた。
だから、言わずにはいられなかった。
「わたくしやっぱり、ジュディさまと野球をしてみたいです」
「戯れを」
「本気です」
私はじっとジュディさまを見つめる。
ジュディさまも私をじっと見つめ返してくる。
二人とも、なにも言わない時間がしばらく続く。
そしてその沈黙を破ったのは、ジュディさまだった。
「やはり、嫌ですわ」
ため息とともにそう言う。
「どうしてですか」
「だって……」
「だって?」
「野球って、可愛くないんですもの」
「……可愛く……ない」
意外な理由に、私は思わず彼女の言葉をおうむ返しにしてしまう。
「ユニフォームが可愛くありませんわ。しかもあんな構え方をするだなんて! 正直に申し上げれば、本当はとっても恥ずかしかった!」
ジュディさまは真っ赤になった顔を隠すように、両手で顔を覆った。
やっぱり。
恥ずかしいですよね、あれは。
「わたくしも、恥ずかしかったです」
「ですわよね……」
指の間から、こちらを窺うように、ちらりと上目遣いをしてくる。
ちょっと可愛い。
ジュディさまはしばらくして落ち着いたのか、顔を覆っていた手を外して、握った手を口元にやって、咳払いをしてから言った。
「いずれにせよ、お断り申し上げます」
「駄目、ですか」
肩を落とすと、ジュディさまはくすくすと笑う。
なんだか少し、心を開いてくれたような気がした。
「わたくしの領地のチームは、いつも殿下のチームに煮え湯を飲まされておりますの」
「まあ」
「いつまでも殿下のチームの一強、とはさせません。わたくしが、わたくしのチームを強くして、殿下に対抗してみせます。そのほうが野球は面白くなるのではなくて?」
凛としてそう言う彼女は、殿下に負けないくらい野球が好きなのではないかな、とそんな気がした。
「ストーブリーグの始まりですわ」
そう言って、ジュディさまは口の端を上げた。
*****
ストーブリーグ・・・オフシーズンに行われる、選手、または監督、コーチなどの移籍、契約更改などに関する話題のこと。
ストーブを出す季節になると話題になるためこの名が付けられた。
貧乏球団には身も心も寒い季節。
クローザー王国にはフリーエージェント制(条件を満たすと自由に他球団と交渉できる権利を得る制度。
「辛いです……殿下のチームが好きだから……」
でも出ちゃうのね……。またいつか帰って来てね。
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