第73話 求婚
そのストライクコールを聞くと同時に、身体中から力が抜け、その場にぺたりと座り込んでしまう。
「あ……あれ……」
身体が震えて止まらない。
「ど……どうして……」
立ち上がろうにも力が入らない。
わけがわからず、おろおろしていると、殿下がマウンドから降りてきて私の前に立った。
少し身を屈めて、私のほうを覗き込んでくる。
「大丈夫?」
「は、はい」
そうは言ってみたものの、やっぱり力が入らなくて、立ち上がれない。
「緊張の糸が切れたのかな」
言いながら、こちらに左手を差し出してくる。
手を伸ばしてはみるけれど、握り返してもいいのだろうか、と一瞬躊躇する。すると殿下はさらに手を伸ばしてきて、私の手を握り、そして軽く引っ張った。大きな手だった。
ふっと身体が浮く感覚がする。私はなんとか立ち上がり、地面を踏みしめた。
「あ、ありがとうございます」
「こちらこそ」
そう言って彼はにっこりと微笑む。その笑顔を見ていると、身体の震えが治まってきた。
捕った。
私は三球とも捕ったんだ。
その事実は、まだ実感として私の中にはやってこない。
椅子のほうに視線を向けると、誰もがこちらを見つめたまま動きを止めていた。誰も言葉を発しない。ただ、見つめるだけ。
きっと、この場でなにが起こったのかわかっている人は限られている。
本人である私ですら、ぼんやりとして現状を把握できていない気がする。
ぼうっとしている私に、殿下は言った。
「実はね」
「は、はい」
慌ててそちらに振り返る。
「残るのなら、君じゃないかと思っていた」
口元に笑みを浮かべながら、握っていた手に力を込めてくる。
「君じゃないかと思っていたし、君だといいなと思っていたよ」
思いもよらない言葉に、私は何度も目を瞬かせる。
「わ、わたくし? いいな? どうして?」
口から出た言葉は、殿下の言った言葉を繰り返しているだけの言葉で、頭の片隅でどうしてもっと気の利いた言葉が返せないのだろう、と考える。
「だっていつも、応援していてくれただろう?」
言いながら握っていた手を離すと、今度は私の顔の辺りに手を伸ばしてくる。
「ひゃっ」
口からそんな間抜けな声が出たけれど、殿下は構わずさらに手を伸ばして、私のマスクとヘルメットを取った。
ぎゅっと目を閉じる。まともに顔を見るだなんてできない。
ドキドキする。マウンドとキャッチャーズボックスの間だってあんなに近いと思っていたのに、こんなに近くに殿下の顔があるだなんて。
気配が遠のいたのを感じると、ゆっくりと目を開ける。
手に持っていたマスクとヘルメットを、バッター役の選手の人に渡すと、殿下は私の前に、突如、ひざまずいた。
「えっ」
戸惑う私の手を取り、そして手の甲に唇を寄せる。
私はその間、ただ呆然とそれを眺めているだけだった。
「コニー嬢」
私を呼ぶその声が、胸の中に染み渡るようだ。
なんだか身体が熱くなってくる。きっと私の頬は真っ赤になってしまっているだろう。
「私の妃になってほしい」
私を見上げるその瞳が温かくて。
言われた言葉が信じられなくて。
けれど少しずつ現実として広がっていって。
なんだかこみ上げてくるものがあって、口を開こうとするのだけれど、言葉が出てこない。
「コニー嬢?」
殿下が少し首を傾げる。
「つ……」
本当にこれが私の身に起きていることなのだろうか。
握られた手だけが、私に現実だと教えてくれているような気がする。
なんとか涙をこらえて、目を閉じて自分自身を落ち着かせる。
そうして私は、ゆっくりと目を開け、殿下を見つめると、口を開いた。
「つ……謹んで……お受けいたします」
私の言葉を聞くと、朝露を受けて開く花のように、殿下はゆっくりと微笑んだ。
「よかった」
そう言って、手を握ったまま立ち上がる。そして苦笑しつつ言った。
「なかなか返事をくれないから、嫌だって言うかと思った」
「そっ、そんなこと」
私はぶんぶんと頭を振る。
ここまでがんばってきたのは、殿下の妃になるためだ。嫌だなんてあるはずがない。
「では皆に報告しようか」
「は、はい」
私は手を引かれて歩き出す。
足元がふわふわして、なんだか落ち着かない。
やっぱり嘘だって言われたらどうしよう、全部夢だったらどうしよう、だなんてことを考えてしまう。
令嬢たちがいるところまで行くと、私たちは立ち止まる。
皆、固唾を飲んでこちらを見つめていた。
殿下はぐるりと見渡すと、声を張る。
「皆、この選考会に参加してくださって感謝する。さきほど見ていただいた通り、こちらのユーイング男爵令嬢であるコニー嬢が私の球を三球とも捕球した。よって、王太子である私、ウォルターの妃はコニー嬢と……」
そこまで殿下が言ったところで、どこかでガタッと椅子が音を立てた。
「みっ、認められませんわ!」
一人の令嬢が立ち上がって、叫ぶようにそう言った。
*****
左手・・・実はウォルターは野球以外で手を差し出したりするときに、必ず左手を使っています。
彼、右投げなので。
投手は利き腕の肩や指先をとても大事にしている方が多く、指先をお風呂に絶対に入れない、というプロ野球選手もいたりします。
そのためか投手って、やたら手が美しい人が多いです。うっとり。
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