第72話 魔球
私の言葉に、ウォルター殿下は何度か瞬きを繰り返している。
「はああー?」
椅子のほうから、兄の素っ頓狂な声が響いてきて、私はそちらに振り返った。
「なっ、何を言っているんだよ! なんで投げ直しなんか!」
兄が一人で大声を上げている。他の人は何が起こっているのかわからないのか、顔を見合わせて小首を傾げたりしていた。
「だって!」
私は声を上げ、なおも何か言おうとする兄の言葉を遮る。
「だって、魔球では……ありませんでした」
私は手のひらをぎゅっと握り締める。
夢にまで見た、王太子妃の座。
大好きなウォルター殿下の妃という立場。
すぐ目の前に、手の届く位置に、転がっている。
「ストレート、スプリット、そして魔球。この三球を捕った者が王太子妃に。そうですわよね? でしたら、わたくしには資格がありません……」
この手の中に入った権利を自分から手放すのは、やっぱりつらい。
けれどそれでは堂々となんてできない。
ウォルター殿下だって、ずっと疑問を抱き続けるだろう。
そんなのは、嫌だ。
「魔球じゃなかったって、どういう……」
呆然としたような声で兄が言う。
それに返したのはジミーだった。
「風っす」
「風?」
淡々と言うジミーに、皆が注目している。
「魔球は、風の影響を受けやすいんす。さっきちょっと強めの風が吹いてたから、きっとそれで変化しなかったんっしょ」
殿下の専属捕手であるジミー。魔球を何度も捕ったことのある彼にはそれがわかったのだろう。
ジミーの言葉に、殿下はうなずいた。
「うん、その通りだね。面目ない」
そう言って頭を小さく下げる。
私は背筋を伸ばして、言った。
「わたくしは、全力のウォルター殿下の球を捕りたい。そうでないときっと、王太子妃になったとしても胸を張れない」
私は殿下に視線を向ける。
「ですから、殿下の納得できる魔球が投げられるまで、何度でも」
投げ直しを。
あんなに楽しそうだったのに、諦めたような表情をしてマウンドを降りられた殿下。
そんな顔はさせたくなかった。
殿下はやっぱり、凛としてマウンドに立っている姿が一番素敵だから。
私の言葉に、殿下は小さく微笑んだ。
「ありがとう。いい?」
「はい」
私は確信を持って、うなずく。
「殿下の球を受ける機会が増えたこと、嬉しく思いますわ」
そう言って笑う。
「本当は、いつまででも殿下の球を捕球したいと思っておりましたの」
本心だ。
できることなら、ずっと受けていたい。
「そう言っていただけると」
殿下は私を目を細めて見つめてくる。
それはとても温かな視線で。
私は私の選択が間違いではなかったことを知った。
「では、仕切り直しだ」
そう言って殿下は身を翻す。
「今度こそ、私の渾身の魔球をご覧に入れよう」
◇
再び殿下はマウンドの上に立った。
それは私が好きになったあの立ち姿で、私は胸が温かくなる。
キャッチャーズボックスに足を踏み入れ、しゃがみ込む。そしてグラブを前に出して構えた。
どうぞ。殿下の言う、渾身の魔球を。
私はそれを捕ってみせます。
「プレイ!」
そして。
殿下はノーワインドアップで片足を上げた。
やはり踏み込みは浅く、腕の振りもストレートのときのような鋭さはない。
そして殿下の手が見えた。人差し指、中指、薬指の三本の指を折り曲げて、爪をボールに当てて握っていた。
右腕が振り下ろされる。殿下の手から離れたボールがこちらに向かってくる。
一球目のストレートや、二球目のスプリットとは明らかに違う、遅い球速。
まるでふわふわと漂いながらやってくるような、球。
ボールの縫い目がはっきりと見えた。
無回転。
「殿下も人が悪い」
苦笑しながらホワイトさんが背後で言った。
「これがナックル……」
バッターボックスに立つ選手が口の中でつぶやいた。
ナックル。これが、魔球。
右にいったと思ったら、左に動く。そこに氷があって、滑っているような軌道。
私は身体に力を入れ、ぐっと地面を踏みしめる。
最後まで、目を閉じないで、よく見て。
捕らなきゃ。捕るんだ。
練習に付き合ってくれた、ラルフ兄さま。
コニーがいいわ、と微笑んでくれたキャンディ。
自分を信じるっす、と言ってくれたジミー。
私は彼らに応えなければならない。
それに。
私は、あの人の隣に立ちたいんだ。
私は私の力で、彼の助けになりたいんだ。
いつだって凛としてマウンドに立つ彼を、一番近くで見ていたいんだ。
捕手は投手の女房役。
私はそれに、なりたいんだ。
だから、絶対に、捕る!
やってくるボールにグラブを伸ばす。
捕まえた、と思った瞬間、私を嘲るかのごとく、ボールは逃げるように動いた。
「待っ……」
けれど反射的にグラブを動かし、かろうじて引っ掛かるようにしてグラブの端でボールを挟む。
「くっ……」
私は手に力を込めて握り締める。
いつ落ちてもおかしくはない。
握れ。力を緩めてはダメ。
絶対に、落とせない。
握り込め。
グラブ全体を、自分の手と思え。
握り締めろ。
まるで永遠のような長い時間に感じられるその一瞬を、耐え。
そして。
「ストライィィィィク!」
ホワイトさんの高い声が、グラウンドに響き渡った。
*****
ナックル・・・変化球の一種。現代の「魔球」。
氷の上を滑るよう、とか、木の葉が舞い散るよう、などと形容される変化をする。
リリースからホームベースまで、一回転程度しか回転させない球。テレビ中継でも、本当に縫い目がはっきり見える。
バッターボックスに立たないとその変化はわかりづらい。なので観客席からは単なるスローボールにしか見えない。
投げた本人にもどんな変化をするかわからないので、当然捕手にもどんな変化をするかわからない。
もちろんバッターにもわからないので、これ一球で勝負できるという変化球。
その代わり、天候の影響を受けやすく、雨が降ったり風が吹いたりすると滅多打ちされる危険性も。
さらに、球速が遅い、フォームがわかりやすい、との理由で盗塁されまくりの恐れもある。
そのため、ナックルボーラー(ナックルを中心に投げる投手)には、牽制技術が要求される。その一塁に投げたむっちゃ速い球、ホームベースに向かって投げてみて?
ナックルを投げるには大きな手と握力が必要。
殿下の手が大きい、とチラチラ書いているのはそのため。
さてこのナックル、本当に捕りにくいので、メジャーリーガーの捕手でもボロボロ落としまくることも。
ナックルボーラー専属の捕手がいたりもする。ナックル専用に大きなキャッチャーミット、または一塁手用のグラブを使ったりと捕手は対策が大変。
我が贔屓チームにも、ナックルボーラーがやってきたことがありますが、捕逸記録は0なんですよ(ドヤァ)。すごいでしょー。
しかし屋外球場であったのがいけなかったのか、日本のボールが合わなかったのか、一年でお帰りになられました……。ロマン満載だったのにー。
「ストライィィィィク!」・・・「アアアアイイイッッッ!!!」。
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