第44話 変化しませんでした

 またボールが消えるように見えるかもしれない。なにせ、魔球なのだ。

 私はなるべく瞬きをしないように注意して、じっと殿下を見つめる。


 殿下が腕を振る。

 けれど今までのフォームと違って、軽くボールを放るような感じだった。

 ボールはふわっと弧を描きながら、ジミーのミットにポスン、と収まる。


 私は何度か目を瞬かせる。

 ……これが、魔球?

 やっぱり遅い球にしか見えない。

 なにか、素人である私にはわからない変化があったのだろうか。


「あれ?」


 ジミーがぽつりと言う。


「……あれ?」


 殿下が首を傾げている。


「あまり変化しなかったな。今のは失投だよ」


 そうなのか。

 遅い球にしか見えなかったのは、間違いではなかったということか。


「なんでだろう」

「雨だからじゃないっすかね。前も、雨の日はあまり変化しなかったっす」

「湿度が高いと変化し辛いのかな」


 首を捻りながら殿下はマウンドを降りて、こちら側に歩いてきた。

 そしてジミーの前で立ち止まる。ジミーも立ち上がって、二人でなにやら会話し始めた。


「そう投げる球じゃないから、単純に技術が落ちたのかもしれない」

「でも、こないだの予選のときには投げられたじゃないっすか」

「うーん、だから安心してたんだよね。やっぱり公式戦では使えないなあ」

「うわっ、まだ諦めてなかったんすか。俺、あの球を公式戦で受けるの嫌っす」

「そんなに嫌がらなくても」

「だってパスボールがつくんすよー。嫌っすよー」


 ジミーが自分の身体の前で腕を交差させて、ふるふると首を横に振る。


「減棒はしないから」

「それも嫌っすけど、自分のせいで失点も嫌っすー」


 よくはわからないが、ジミーですら捕りにくい球であることは間違いないらしい。そういえば、予選会のときも捕り損ねかけていた。

 本当に私に捕れるのかしら、と不安になってくる。


 殿下はこちらに振り向くと、困ったように眉尻を下げた。


「ごめんね、魔球は見せられなかった」

「い、いえ。ここまで見せてくださっただけで」


 本音を言えば、魔球も見たかった。けれどそこまで望むのは強欲というものだろう。

 皆勤賞のご褒美は、ストレートとスプリットで十分だ。


 とにかく魔球は、速くはないけれど、変化する。

 それだけは二人の会話から推測できる。十二分だ。


 これ以上はもしかしたら、『ずるい』のかもしれない。


 ジミーは肩をすくめて言う。


「でもまあ、見たところでどうにかなるものでもないっす。そのときそのときで違うから、むしろ見ないほうがいいかもしれないっす」

「ああ、そうだね。そうかも」


 殿下はジミーの発言に、納得したようにうなずく。

 そのときそのときで違う? どういうことだろう。


「本選までには、仕上げておくよ」


 そう言って、殿下はにっこりと微笑んだ。


「でも、コニーちゃんからすると、失投してくれたほうがいいんじゃないっすか」


 ジミーが、さっくりとそう言った。

 確かに。さきほどの失投を見る限り、あれなら捕れるような気がする。

 それに、殿下とジミーの話を聞いていると、魔球は本当に魔球で、捕るのは困難だということも理解できる。


 でも。

 私はその言葉に、うーん、と考える。


「それはそうですけれど……。でも、ちゃんとその魔球を捕ったほうが、堂々とできると思うし、嬉しいと思います」


 私がそう言うと、殿下もジミーもぴたりと動きを止めたあと。

 そして大きくうなずいた。


「そっすね」

「そうか」


 二人はなんだか満足げだったので、私はほっと息をつく。

 私の考え方は、たぶん、間違いじゃない。


「王太子殿下」


 ふとブルペンの入り口のほうから声がして、そちらに振り向く。

 見たことはない人だ。ユニフォームではなく正装をしていて、チームの人ではないようだった。


「ああ、もうそんな時間?」


 殿下はため息をついて言う。


「では私は失礼するよ」


 そう言って片手を上げて、去って行こうとする。


「あっ、あのっ、殿下!」


 私は慌てて呼び止める。殿下が足を止めてこちらに振り向く。


「あ、ありがとうございました!」


 そう言うと、彼は口の端を上げた。


「がんばってほしいと思っているから」

「は、はいっ。がんばります!」


 そう答えると、また軽く手を上げて、殿下はブルペンを立ち去って行った。

 私はその背中をぽーっと見送る。


 雨だったけれど、本当に来て良かった。ご褒美までもらえるだなんて。

 私は今さらながらに熱くなってきた頬を、熱を冷ますように両手で包む。


 そのとき視線を感じて、振り返る。ジミーだった。じっと私の顔を見ている。

 そうだ、ジミーにもお礼を言わなくちゃ。


「あ、あの、ジミーもありがとう。ジミーのおかげでご褒美をいただけましたわ」


 そう言うと、ジミーは軽く肩をすくめた。


「いや、別になにもしてないっすから」

「そんなこと。ジミーが殿下に言ってくださったおかげですもの」

「まあ、お役に立てたならなによりっす」


 そう言って、口の端を上げた。けれどすぐに真顔になって言う。


「なんか、意外っす」

「え?」


 私はジミーの言葉に首を傾げる。意外?


「殿下はあれで王子さまっすから、そういう、権力とか欲しいお嬢さまばかりなのかなって思ってたんすけど、コニーちゃんは違うんすね」

「あ……えと……」


 つまりジミーは私の恋心について指摘したのだ。

 恥ずかしい。見てわかるくらいなのか。では殿下にも見透かされているのかもしれない。


「えっと、あの」

「殿下はね、俺の恩人なんすよ」


 ふいにジミーがそう言い出して、私は彼の顔に視線を移す。

 ジミーの口元が笑みの形になっている。


「だからまあ、殿下が幸せになれるように、いいお妃さまが来るといいな、とは思ってるっす」

「ええ……」

「コニーちゃんなら応援してもいいっすよ」


 そう言って、にかっと歯を出して笑った。



*****


パスボール・・・捕逸。捕手が、捕れるはずのボールを捕れなかった場合に記録される。

ちなみに失策には含まれない。

捕手ではなく、投手の暴投により捕れなかった場合には、ワイルドピッチが記録される。


捕手の後逸の間に進塁できるので、下手すると点が入って泣きたくなる。

三塁にランナーがいる場合に後方に逸らしてしまうと、間違いなくホームに突っ込んでくるので、捕手が捕りにくい変化球を投げるのは勇気がいる。

なので、「俺を信じて投げろ」とか「身体で止める」とか「絶対後ろには逸らさない」とかスポ根マンガとかで言っているのは、たいていこのパターン。


減棒・・・この世界の野球選手のお給料は年俸制。王太子殿下が査定に関わっています。

「中継ぎの乱」というのが現代日本野球でありましてね……。嫌な事件だったね。

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