第42話 皆勤賞のご褒美
殿下はネットの向こう、けれど私のすぐ前まで来て立ち止まった。
目を細め、口元に穏やかな笑みを浮かべて、私に向かって言う。
「今日も来たんだね」
「は、はい……」
私は真っ赤になった顔を見られたくなくて、俯いた。
「雨だから、誰も来ないかと思っていたのだけれど」
「あ、あの、もしかしたら止むかもと思いまして……」
「そう。ブルペンがあることは知っていた?」
「いえ、存じ上げませんで……」
もっとちゃんと受け答えしないと、と思うのに、しどろもどろになってしまっている。
だから余計に顔が熱くなってきた。
「これで、皆勤賞は一人だけになったっす」
私の後ろから、ジミーの声が飛んでくる。
「ああ、キャンディ嬢は来なかったんだね」
「は、はい。今日はちょっと調子が悪くて……」
「そう。まあ慣れない生活だろうから、調子を崩すのも無理ないかもしれないね」
「そ、そうですね」
すぐそこに殿下がいることが、とてつもなく私を動揺させている。
どうしよう、なにか言ったほうがいいのかしら、でもきっと声が震えてしまう、それになにを言えばいいのかわからない、などと逡巡している間に、ジミーがこともなげに言った。
「だから殿下は、皆勤賞の人にご褒美を上げたらいいっす」
「ええっ」
私は慌ててジミーのほうに振り返る。
ジミーは頭の後ろで手を組んで、飄々とそこに立っていた。
「皆勤賞の褒美か」
殿下はその言葉に、顎に手を当てて、なにやら考え込んでいる。
「あ、いえ、ご褒美だなんて、そんな。わたくしが好きで毎日来ているだけですし」
私は慌てて両手を胸の前で振った。
けれど殿下とジミーの話は続いていく。
「殿下はいつも、努力した者は報われるべきだって言ってるっす」
「うん、言っているね」
「いえ、でも、そんな」
話を止めようと割り込んではみるけれど、二人は意に介さないようで、会話を続けている。
「なにがいいだろう?」
「そうっすねえ」
二人で小首を傾げて、そんなことを話し合っている。
ご褒美だなんて、そんな図々しいこと、とても要求できない。
そりゃあ、殿下からいただけるものがあって、それを受け取れたらこの上ない幸せに違いない。けれどそれは、淑女として遠慮するべきだろう。
私はむくむくと心の中から湧いてくる欲求を必死で押さえつける。
「そんな、わたくし、畏れ多くもご褒美なんて」
「殿下が球を投げたらいいんじゃないっすか」
「え?」
私はその提案に、動きを止める。殿下もジミーの顔をじっと見つめていた。
ジミーは頭の後ろで組んでいた手をほどいて、自分の胸の前で、ぽん、と手を叩いた。
「そうだ、そうするっす。本選に向けて、殿下の球で練習したらいいっす」
「なるほどね」
殿下はしばらくじっと考え込んでいる。
もちろん、できることなら本選前に殿下の球を受けてみたい。
この一週間、いろんな投手の球を受けてみて感じた。
人によって球が違う。
同じストレートでも、速さも伸びも、全然違うのだ。スプリットだって、速さも落ち方も違う。
もちろん、受けてみたい。受けてみたいけれど。
「いや、それは問題になりそうだ」
顔を上げると、殿下はきっぱりと言った。
やっぱり。それはそうだ。いくらなんでもそれは、公平ではない。
私は気を抜くと口から出てきそうになるため息を、ぎゅっと唇を閉じて抑え込む。
「予選でも、公平性を欠いている、ということは問題視されていたし。もしコニー嬢が私の球を受けたという話が洩れたら、ややこしいことになる」
「そうっすかねえ」
「残念だけれど」
殿下は眉尻を下げて、そう言う。
本当に、残念だ。
がっかりした表情を殿下に見せたくなくて、私はなんとか微笑んだ。
「いえ、わたくしのために考えてくださっただけで、それだけで充分ですわ」
そう殿下に伝えたあと、ジミーのほうにも振り返る。
「ジミーもありがとう」
私のために、殿下にご褒美だなんて提案してくれたのだ。それはとてもありがたかったし、嬉しかった。
「うーん……」
けれどジミーは納得できないようで、腕を組んで何やら考え込んでいる。
どうしよう。本当にもう、充分なのに。
「あの、ジミー、わたくし……」
「そうだ!」
私の言葉が聞こえているのかいないのか、ジミーはぱっと顔を上げると、言った。
「殿下が俺に投げたらいいっす!」
「うん?」
殿下はジミーに向かって首を傾げた。
「それがどうしてコニー嬢へのご褒美?」
「球筋を見るだけでも違うっす。俺の後ろで見たらいいっす」
「ああ、なるほど」
ジミーの言葉に、殿下は何度もうなずいた。
「それなら、単に私の練習をたまたまコニー嬢が見た、ということにできるね」
「そうっす、そうっす」
二人は納得したようで、お互いにうなずき合っている。
「あ、あの?」
私一人がいまひとつ理解できていなくて、首を傾げる。
そんな私を見て、ジミーが説明を始めた。
「横から、しかも遠目から見るのと、真後ろから見るのじゃ、全然違うっす。俺が殿下の球を受けるからそれを見たらいいっす」
そうなのか。それなら見てみたい。殿下の球筋がどんなものなのか、知りたい。
それはきっと、捕球するときに役に立つ。
私は殿下のほうに振り返ると、おずおずと上目遣いで問う。
「……よろしいでしょうか……?」
「コニー嬢が嫌でなければ」
「嫌だなんて! ぜひお願いします!」
私は勢い込んで頭を下げた。
それを見ると殿下は満足げにうなずいた。そしてジミーに向かって言う。
「ジミー、防具を着けて」
「ういっす」
ジミーは壁際に走り寄り、長椅子の上に置いてあった防具を手に取る。
どうやらそれが彼の防具らしく、ジミーは手早く身に着けていく。近くにいたブルペンキャッチャーらしき人が装着を手伝って、あっという間にジミーの準備はできた。
それを見届けると、殿下は私に向かって言った。
「じゃあ、始めよう。コニー嬢は危ないから、ネットの向こうでね」
「はい」
ジミーはネットをくぐって位置につく。殿下もマウンドに向かって歩き始めた。
そしてジミーが後ろに立つ私のほうに振り返って言う。
「コニーちゃん、後ろに立って少ししゃがんで、目線を合わせて見たらいいっす」
「はい」
私はその言葉にうなずく。
同時に、殿下が足を止めてこちらに振り向いた。
「……コニーちゃん?」
「はい?」
ジミーが殿下に首を傾げる。
「……ずいぶん、親しくなったんだね」
「そりゃあねえ」
そう言って、彼は笑う。
「毎日練習に付き合わされれば親しくもなるっす」
「……ふうん」
殿下はそれだけ言って、マウンドに向かっていった。
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