第10話 諦めたくありません

 そんな風に諦めていたというのに、まさかのこの王太子妃募集の文書だ。

 諦めたくない。絶対に諦めたくない。

 やってみてダメならともかく、やりもせずに最初からダメだなんて思いたくない。


 たとえ門まで走ることすらできなくても!


「基礎体力はなあ……まあ一応、コニーも貴族の娘だから、運動なんてしたことないしなあ」

「すみません……」


 翌日、作戦会議と銘打って、私たち兄妹は兄の部屋に集まる。

 私はしょんぼりと肩を落として、兄の部屋のテーブルセットの椅子に腰掛けていた。


「まあ、体力はすぐにつくものでもないから、焦らずに。それに、捕球するだけなら走ったりしなくていいし」

「そ、そうですよね」


 今まで見た試合では、殿下の球を受けていた人は座っていた記憶がある。

 攻撃のときはたぶん走っていただろうと思うけれど、王太子の球を受けるだけ、ということなら、走ることは考えなくてもいいのではないだろうか。


「うん、今回は捕球するだけ、ということだから。まずはそのあたりを考えよう」

「はいっ」


 少しほっとしてそう明るい声で答えると、兄は眉根を寄せた。


「でも、これからも走るんだよ?」

「は、はい」


 私が少し気を抜いてしまったことを見透かされたようだった。少々、厳しい声音で滔々と語られる。


「もしかしたら体力を問われる可能性もある。予選で何をするつもりなのか、僕も聞いていないからわからない」

「そうなのですか」

「うん、公平を期す、ということだろうね」


 そう言って、兄は困ったように眉尻を下げた。


「エディっていただろう? 募集要項を配っていた」

「はい」


 あの、薄茶色の髪の、穏やかな笑みを浮かべる人。


「野球に関しては、彼が殿下の側近だ。エディなら知っているだろうけど、教えてはくれないと思う」

「仕方ないです。他のご令嬢方も知らないのですから」

「うん、まずは一週間後の予選に向けて、体力をつけつつもボールに慣れておこう」


 兄は脇に置いてあった紙袋を手に取ると、なにやら中からガサガサと取り出した。

 そして私に向かってそれを差し出す。


「はい、練習用のユニフォーム。女性用はなかったから、一番小さいのを買ってきた」

「まあ!」


 差し出されたその服を私は手に取る。


「ありがとうございます!」


 兄が試合のときに着ているものと形は似ているけれど、白い地のそれにはなにも書いておらず、とてもシンプルなものだった。

 なんだか嬉しくなってしまってそれを胸に抱き締めると、兄は穏やかな笑みを私に向けた。


「それから、これも」


 さらに紙袋から取り出したものは、やはり球場で兄が使っている、グラブというものによく似ていた。


「それは内野手用のグラブなんだけれど、捕手としても使えるから」

「えっ、守る位置で違うのですか」


 全部同じなのかと思っていた。


「うん、違う。特に捕手は」

「へえ……」


 私はグラブを手に取って、しげしげと裏返しにしたりして眺めた。


「はめてみて。大きさは大丈夫?」


 私は言われた通りに、グラブの中に手を入れる。


「どう?」

「……よく、わかりません」


 大きな手袋、という感じなのだろうけれど、ゴワゴワしているし、重い。明らかに異質なものが手にはめられている、という感じがする。

 私がそう言うと、兄はこちらに手を伸ばしてきて、グラブの上から私の指先を確認していた。


「ま、大丈夫じゃないかな。僕がちょっと柔らかくしておいたけど、使っているうちにまた手になじむと思うよ」

「へえ……」

「というか、柔らかくなるまで練習しないとね」

「はいっ」


 言われて私は大きくうなずく。

 それを見て兄も満足そうにうなずいた。


「新しいグラブだと、いい音しないし。そこ大事」

「いい音?」

「殿下の球を受けたときにね、パーンッて音がしないとね」

「はい」

「たまに、キレるから。あの人」

「……殿下が?」

「そう」


 兄は真顔で首を前に倒した。冗談などではないらしい。

 あの、温厚そうな方が? キレる?


「失敗したことにはあまり怒らないけれど、一生懸命やっていないことにはよく怒るよ。いつも怒らないから、余計に怖い」


 兄は目を閉じて、身を縮こませてぶるっと震えてみせた。

 本気で怖いらしい。


「ま、それはそれとして」


 気を取り直したのか、そう言って兄は立ち上がった。


「ひとまず、ボールを使った練習を始めようか」


 そう言われて、私も立ち上がった。



*****


今回のエピソードでは、とある投手の逸話を借りています。

捕手が新しいミットを使ってボールを受けていると「俺でミットを作るな(慣らすな)!」と大激怒したとかなんとか。

実際は、新しいミットではなく、単純にキャッチング技術が未熟で音が鳴らなかった、とかいう説もアリ。

とにかく良い音、大事。投手は繊細な生き物。

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