第8話 頭がこんがらがりそうです

「そうかー、ここまでも難しいかー。こないだちょっと説明したんだけどなあ」


 兄が私の横で、天井を見上げた。

 そう言うからには、今二人が話し合っていた内容は、基本中の基本なのだろう。


「あ、でも、わたくしがわからないだけかも……」


 縮こまってそう言うと、いや、と殿下は軽く首を横に振った。


「そんなことはないと思うよ。それに、そういうのが知りたかったから。私とラルフが話し合っても、専門性がどんどん高くなるだけだ。そうだね、ひとまず、九人で一チーム、二チームがそれぞれ点を取り合うゲームですよ、ということだけ書くことにしよう」


 そう断言されて、少し不安になってきた。


「いえ、本当に、わたくしだけがわからないのかも」

「まだ二回しか観ていないんだから、わからないのは当たり前で、私たちはそういう人たちにどう言えばいいのか探っているんだから、ちょうどいいんだよ」


 殿下はそう言って、にっこりと微笑む。

 本当なら舞い上がってしまうような優しい笑みだけれど、なんだか申し訳ない気持ちでいっぱいになった。


「すみません……わたくしには、ちょっと難しくて」

「いや、謝ることではないよ。そうだね、難しいかもしれないね。私もルールのすべてを覚えているわけではないし」

「えっ」


 その言葉に驚いて顔を上げる。

 この王国に野球を広めたのは殿下だ。ならば彼が野球を一番知っているのではないのか。


「もちろんほとんどは覚えているけれどね。特殊な事例もあるから、その都度、確認したりしているよ。野球規則をもらって帰ってきたからね」


 苦笑しながらそんなことを言う。

 あの、遭難してたどり着いた先の国でもらってきたものがあるのだろう。


「殿下でもそんな感じなんですね。じゃあわたくしなんて」

「いろいろ複雑なんだ。だから、その都度覚えていけばいい。たとえば、なにがわからない?」

「えっ、あの……」


 私がうろたえていると、殿下は重ねて言った。


「今、せっかくだからわからないことを答えよう。たとえば、今日の試合を見て、わからないところはどこだった?」


 私は今日見た試合を一生懸命思い出す。

 わからないことだらけだけれど、一番わからなかったところはどこだろう。

 一つ思いついて、私はおずおずと口を開く。


「あの、打つ人が」

「うん」

「打てなかったのに、走ることがあるじゃないですか」

「ああ、うん」

「どうしてですか? 打てなかったら走ってはダメなんじゃないんですか?」


 球を空振りしたのに、なぜか一塁に向かって走り出すことがある。

 ベンチに帰るものと思って見ていたから、少し驚いてしまったのだ。


「振り逃げだね。捕手が捕れなかったからだよ」

「わたくしもそう思ったんです。でも、走らないときもあるから」

「うん、そうだね。単純に、走塁を怠った場合もあるけれど」


 殿下はこちらに身を乗り出すようにして、続けた。


「振り逃げが成立するには、条件があるんだ。絶対条件としてスリーストライク目であること。それからツーアウトであること、でもワンナウトでもノーアウトでも一塁に走者がいなければ……」

「あの、えっと」


 一気に難しくなってきた。

 どうしよう、メモを持っていない。覚えられるかしら、とうろたえていると、殿下は苦笑しながら言った。


「ああ、ごめんごめん。急に難しいことを言ってしまったね」

「いえ、その、やっぱりわたくしが理解力がないから……」


 王太子殿下に謝らせてしまった。なんてことだろう。


「そんなことはないよ。振り逃げは難しいよ。ね、ラルフ」


 殿下は兄に目を向ける。


「僕は、とりあえず走っておけば間違いないかなって」


 兄はそう言って笑っている。

 そんないい加減な。


「ね? 難しいだろう?」


 そうして殿下は私に微笑んだ。

 私の頬は、きっと真っ赤に染まっていただろう。



*****


振り逃げ・・・3ストライクが宣告された球を捕手が正しく捕れなかった場合、打者は一塁に進む権利を得ることができるというプレーを指す。

振り逃げって言うのに、バットを振らなくても成立することもあるんですよ。

うん、難しいね。


そんな感じで野球のルールは難しいところもあり、プロでも揉めることがあります。

何年か前、某球団の監督がルールブックを見ながら審判団に抗議をしたことがあり、けっきょく審判団の判断のほうが正しかったということがありました。

まず原則があり、その例外に当たるプレーだったため、マイナーもマイナーなルール。揉めに揉めました。


プロでもそんなことがあるんだから、観客が把握してなくてもへーきへーき。

楽しんだもの勝ちですわ。

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