床屋

あべせい

床屋


 この床屋の職人は丁寧だ。丁寧すぎる。過ぎたるは及ばざるがごとし、という言葉があるが、それでいくと、この職人はお客の気持ちに及んでいない、ということになるが……。

「お客さん、もみ上げの長さはどれくらいにしますか?」

「あン?」

 適当にやってくれればいい。おれは知らないやつと話すのは苦手だ。

「長めにしますか、それとも……」

「いまのままで……」

 この床屋は、住宅街にある。以前から、車でよく前を通るので気になっていた。いまは千円カットの理髪店がふえ、洗髪から髭剃りまでやってくれる昔ながらの床屋は、ずいぶん減った。

 この床屋だって客足は落ちているだろう。よく持ち堪えていると思う。どんな秘密や秘訣があるのか、おれはそれだけの興味でやってきた。店の名前は、ドアのガラスに「理髪タケイ」とある。

 オヤジは見た目、50才前後だろう。白髪まじりの豊かな髪、太い眉、二重まぶたの大きな目、どちらかと言うと好男子だ。悔しいが、正直言って男ぶりでは、おれの負けだ。

 理髪用の椅子は2脚ある。おれがきたときはどちらも空いていた。8畳ほどの店内にはだれもいなかった。ドアを開けると、ドアにとりつけてある鈴が鳴り、まもなく奥からオヤジが現れた。

「いらっしゃい」

 ニコッとした。作り笑いだろうが、不自然な感じはしなかった。愛想はいいのだ。腰までの白い上着をきていて、一見拉麺屋のオヤジと間違いしそうな服装だ。

 オヤジは、手ぶらのおれを見て、セールスではないと考えたのだろう。大きなカガミのほうを向いていた椅子を、いきなりくるりと回転させて、おれのほうに向けた。そこに座れというのだ。

 ここでごねても仕方ない。おれは回れ右をしてその椅子に腰掛けた。するとオヤジは、再び椅子を回転させ、元のカガミのほうに向けた。そして、カガミのなかでおれの顔を見た。目が合った。しかし、おれはすぐに視線を外した。こういうのがイヤだから、おれはこれまでこの種の床屋を避けてきた。千円カットの店なら、手早い動作で、てきぱきと進める。視線を合わせたりはしない。

「きょうはいいお天気ですね」

 昨日は一日雨だった。きょうは朝から青空が広がっている。だから、どうした。おれは返事をしない。

「お客さん、きょうはどのようになさいますか?」

 そォ。これだ。床屋にくれば、これだけは答えなければならない。

「刈り上げてください」

「上の髪はどれくらいにしますか?」

「3センチくらいに……」

 刈り上げはふだんのおれの髪型だ。床屋なら見ればわかる。

「バリカンは使いますか?」

 腕がよければ、ハサミでやれ。そうでなければ、バリカンだろう。

「どちらでも、かまいません」

「はい……」

 床屋は、イヤな客が来たと思ったに違いない。そうだ。おれはイヤな客だ。

 オヤジはその後、ハサミを使いながら探りを入れるように、いろいろ話しかけて来た。

「最近工事が多くて。この前の道路なンか、先月掘り返したのに、また明日からやると言っているンですよ」

 年度末でもないのに、やたら道路工事が多い。道路の補修だけではない。水道管やガス管がからんでいるからだ。このオヤジ、おれが役所の人間だと知っているのだろうか。まさかッ。

 おれが黙っていると、

「ご覧になったでしょうが、お隣のヤマボウシの枝がうちのほうにせりだしてきていましてね。ちょっと困っているンです」

 そういえば、幹周り30センチ、樹高4メートルほどの木の枝が、隣からこの床屋の家の窓に伸びている。しかし、緑の葉の間から覗かせる白い花はきれいだ。

 おれがそれでも相槌を打たないでいると、

「お客さん、お車をお駐めになるンでしたら、どうぞお使いください」

 と言って、窓の外を目で示した。床屋のドアに向かって右側に車2台分のスペースがあり、赤地に黒いラインが入った軽乗用車が1台駐車している。オヤジの車だろう。おれは、近くの安売りショップの駐車場に車を駐め、ここまでは歩いて来た。徒歩で5分の距離だ。

 おれがそれでも無言でいると、とうとうあきらめたのか、オヤジはしゃべらなくなった。おしゃべりの嫌いな客はいる。おれがそうだ。

 オヤジは、髪のカットを終えると、

「では、洗髪に移ります。失礼します……」

 と言って、おれを前のめりにさせ、頭で前の洗面台を覆うような格好をさせたまま、奥に消えた。タオルでも持ってくるのだろう。おれは目を閉じて大人しく待った。

 すると、まもなく、細い指が、おれの髪の毛に鋭く突き刺さり、頭をゴシゴシと引っ掻き始めた。と同時に、

「伊東さん、お久しぶりです」

 弾んだ声が耳元でした。

「エッ……」

 女性だとはわかるが、思い出せない。顔を振り向けたくても、おれの頭を掴む女性の力が強く、どうにもならない。

「わからないンでしょ。わたしが……」

「い、いいえ……」

 おれは下を向いたまま、口ごもる。

「ウソ、おっしゃい」

 そう言われても。声の調子では、女性は30代前半。さっきのオヤジの女房なら、40代だろうが……。

「5日前の月曜日、役所にお邪魔したアサカです」

 と言われて、おれはハッと緊張した。

 市役所4階道路課の窓口で、おれに鋭い口調で抗議した女性の妖艶な顔が蘇った。名前は、武居麻花(たけいあさか)。

 彼女のクレームは、「店の前の道路がいつも掘り返されて商売にならない。営業妨害ダ」というものだった。

 道路占用の許可権限は役所にある。しかし、一市民の抗議で工事は中断できない。そのときおれは、そのことを彼女に丁寧に説明した。すると、彼女は、

「そんなことは承知しています。去年も、水道管やガス管の取り換え工事は公共のもので、不許可には出来ないと聞かされました」

 前にも抗議に来たのか。おれはことし道路課に異動してきたから、彼女は初めてだった。

 そのとき、彼女が窓口のカウンターに身を乗りだし、おれの体に接近してきたため、彼女から発する、香水なのか体臭なのか判然としないが、甘い香りをモロに浴びてしまった。不快ではない。明らかに、仕事中には不適切な快感だった。

 だから、彼女に反論する気力も意欲も失せ、出来るだけ長時間、彼女のそばにいようという、けしからぬ欲望を抱いてしまった。

 彼女の言い分は、工事を短期間にしてくれるように上に要望して欲しいというものだった。

 おれは住宅地図をとりだし、カウンターに広げて、彼女の住居兼店舗の所在を確認した。駅から徒歩10数分の距離で、近くには小学校や中学校もある。こんなことまでする必要もないのに。おれはダメな男だ。美女にからきし弱い。

 彼女は月曜から金曜の、朝から夕まで、老人介護施設でバイトをしている。その話から、彼女には夫がいて、こどもはいないことがわかった。

 おれは自分の名前を告げ、上司に相談してみると約束した。彼女はそれで納得したのか、「お話を聞いていただいて、ありがとうございます」と言って、帰って行った。おれは、足早に遠ざかる彼女の後ろ姿を見送りながら、改めてイイ女だと思った。

 おれには妻もこどももいる。年齢は38才だ。離婚など考えたこともない。しかし、あんな女性となら、一度くらい間違いを犯してみたいと思った。

 しかし、そのことをなぜかきょうまで忘れていた。どうしてなのか、わからない。しかし、偶然にもおれはきょう、彼女の住居兼店舗に来ている。これは、どういうわけだ。


 きょうの土曜日、おれは「図書館に行ってくる」と言って車で家を出た。妻と2人の娘は、昼食用にピザを作ると言って、台所で大騒ぎをしていた。3人とも機嫌はよさそうだった。

「行ってらっしゃい」

「パパ、早く帰って来ないと、なくなるから」

 と、10才の娘。

「パパにはあげません」

 と、6才の娘が憎まれ口をたたいた。

 図書館には行った。家では購読していない新聞数紙を読み、住宅地図の棚が目に付いたので、自宅がどのように掲載されているのか、調べてみた。我が家は、築11年の建売住宅で、同時期に売り出された同じ間取りの一戸建てが8軒、道幅6メートルの私道を挟んで軒を連ねている。住宅地図には、我が家の「伊東」のほか、隣家の「鈴白」「那須」などが記されている。

 図書館を出ると、おれは自宅の方角とは逆方向にハンドルを切っていた。別に不思議には思わず、よく行く安売りショップを覗いてみようと考え直した。どうせ、正午過ぎに帰ればいいのだ。妻も子も、夫は早く帰らないほうがあり難いに違いない。おれは勝手にそう決め込んでいた。

 図書館も安売りショップも、3ヵ月ほど前に出来た大型ショッピングモールと自宅の間にある。勤務先の役所とは正反対の方角だ。ショッピングモールにはこれまで家族で5回出かけている。だから、ルートは決まっている。

 ショッピングモールは錦町。錦町は広い。安売りショップも錦町だ。そして、「理髪タケイ」も……。

 安売りショップに到着する前に、幹線道路から右に折れ、理髪タケイの前の道路に差し掛かった。そこは渋滞しているときの抜け道の1つだ。

 そうだ。これから散髪をしようか。毎月一度床屋に行くことにしているおれは、来週の週末を床屋の日と決めていたが、サインポールを見た途端、以前から気になっていたその床屋に行こうと即断した。一旦通り過ぎて、安売りショップに車を駐め、徒歩で理髪タケイを訪ねたのだ。しかし、あの麻花がやっている床屋とは、夢にも思わなかった。いや、そうじゃない。

 おれは彼女が、道路工事が商売に悪影響していると苦情を言って来たとき、「どんなご商売ですか?」と尋ね、彼女は「理髪店です」と答えている。彼女が床屋の女将であることは、すでに知っていたはずだ。

「では、ヒゲをあたります」

 洗髪を終えた麻花は、おれを仰向きにして、蒸しタオルをおれの顔に被せた。

 剃刀の使い方は堂にいったものだ。にわか仕込みではない。何年もやっている手際のよさだ。これだと夫がいなくても、ひとりで店を切り盛りできる。いま彼女の夫は何をしているのだろう。テレビでも見ているのか。この住宅兼店舗は、敷地が60㎡ほどだから、1階は床屋と風呂、台所、食堂で、寝室と居間は2階にあるはずだ。

 剃刀が済み、おれの体はようやく起こされ、正面のカガミと向き合った。

 おれは思わず会釈した。カガミの中で彼女が艶然と笑っていたからだ。右手をおれの肩に置き……。いや、そうじゃない。簡単なマッサージをやってくれているのだ。肩の凝りをほぐし、首筋の張りを取り除く。

「きょうは工事がないようですね」

 床屋の前の道路は、幅1メートル弱の仮舗装がしてあり、凸凹しているが、車が走れないわけではない。

「伊東さんのおかげですわ」

 と言って、麻花は肩をもむ指先にグイッと力を入れる。誘い?……恋情?……おれは手前勝手に都合のいい解釈をしていく。

 おれは大したことはしていない。ここで彼女に出会うまで、彼女のことは意識にのぼらなかったほどだから。

 道路課の朝の打ち合わせで、「一市民から、道路工事にクレームが入っている。少し、工事の間隔を空けられないかと言ってきた」と言っただけだ。きょう「休工」しているのは、元々の予定なのだろうが、そういう余計なことは言う必要はない。それにきょうは土曜日。土曜は休工することが多い。

 それよりも、きょうおれは、どうして麻花の住宅兼店舗に来たのか。さきほどから考えているのだが、納得のいく答えが出て来ない。

 ひょっとして、潜在意識……。昔読んだ本に、人間の行動の大半は、潜在意識に支配されている、という意味のことが書かれていた。

「伊東さん、よくここがおわかりになりましたね。以前から、うちの理髪店はご存知だったのですか?」

「はァ、この前の道は、何度か通っていたので、承知していました。このお店に奥さんがおられることは知りませんでしたが……」

 ここまでは本当だ。幹線道路から1本住宅街に入ったこの道は、月に一度は通っている。

「それでわざわざ来ていただいた?……」

「『理髪タケイ』というのは頭の隅にあって、この前役所に奥さんが来られたとき、ご商売が理髪店で、お名前が武居麻花とおっしゃったから、そのとき結びついたのだと思います」

 これはウソだ。ドアに描かれた「理髪タケイ」の文字を見るのは、きょうが初めてだった。役所で彼女が「武居」と名乗ったとき、ありふれた苗字ではないと思った。そのあと、商売が床屋とわかったが、「理髪タケイ」には結びつかなかった。

 それなのに、

「うれしいィッ!」

 麻花が後ろから、背中をマッサージしていた両手をいきなり俺の首筋に回して、頬ずりした。危ない! 夫は……夫の気配はない。それに、人目は……外から見られたら、どうするンだッ。おれはドアを振り返った。幸いドアには、パイプで上下を支える水色のカーテンが引いてあり、外からは見えづらくなっている。

「奥さん、ご主人は……」

「うちのひとは、いまこの時間は、パソコンにかじりついて、相場に夢中になっています……」

「相場ですか……」

「そォ。だから、困っているンです。仕事もしないで、相場ばっかり……」

 麻花は、我に返ったように姿勢を正すと、哀しい顔でカガミのなかのおれを見つめた。

 客が来ないのだから、店にいても仕方ない。床屋の主だったら、おれだって同じことをするだろう。

「この家のローンはまだ残っているのに。わたしは休みなしに働いている……わたしだって、たまに息抜きがしたい……」

 そりゃそうだ。月から金の平日は介護施設でバイト、土日は夫の手助けをして店に立つ。それ以外に家事がある。彼女の夫はいったいどういうつもりなのだ。仕事は丁寧だが、妻に対する思いやりは皆無なのか。

 結婚して10年もたつと、結婚当初の愛情は失せ、友情以下になってしまう。うちがそうだ。

 おれの女房はこどもには一生懸命になるが、おれのことになると二の次、三の次だ。しかし、彼女はおれの女房より若い。30代前半だろう。

 麻花は、ドライヤーを使い、おれの頭髪を乾かしている。愛想のいい職人の笑顔に戻り、最後の仕上げに向け、両手を無駄なく使っている。あと数分だ。

 もう、ここには来れない。こんどここに来たら、きっと間違いが起きる。いや、おれは間違いを起こす。おれはそんな男だ。過去にも何度か、そんな機会があった。間違いに至らなかったのは、偶然に過ぎない。

「はい、伊東さん。お粗末さまでした」

 麻花がカガミのなかで小さく笑ってから、前に回り、おれの手をとった。おれは素知らぬ振りで、手を握られたまま立ちあがる。

「このまま、別れるのは……」

 おれは麻花の眼を見ながら小声で言い、手を握り返す。

「エッ……」

 彼女は目を見開く。

「息抜きしませんか。少し、買い物でもして……」

 おれは、思いがけないことを口走っていた。

「エッ、いいのッ……」

 麻花は低いが、弾んだ声をあげ、改めておれを見つめる。おれは女にモテる男ではない。まして、彼女は、生活にやつれているが、目立つほどの美人だ。

「近くに車を駐めています。それで……」

「待って。夫に、買い物に行くと言ってくるから」

 麻花は、急いで白い上着を脱ぎながら奥に消えた。幸いか、いつものことか知らないが、待っている客はいない。

 おれは、潜在意識を考えた。人間の行動は、顕在意識下に隠れている97パーセントの潜在意識の支配を受けている。彼女を誘ったのは、おれの潜在意識……。

「いいわ。行きましょう」

 麻花は黒いタイトスカートに、薄手のカーディガンを羽織って現れた。顔は別人のように明るく輝いている。

「買い物してくると言ってきたから……」

 夫は、妻が役所の男と出かけることを承知しているのだろうか。イヤ、いい。もう、そんなことはどうでもいい。ルビコン川は渡ったのだ。きょうは前進あるのみ……。


 5分後。

 おれと彼女は車を走らせていた。車は国産の大衆車。デートに使うようなシャレた車ではない。しかし、車内の掃除とワックスがけは欠かしたことがない。

「ショッピングモールでいいですか?」

「どちらでも……」

 助手席の彼女は、ゆったりと腰掛けている。もうどうにでもなれという心境なのか……。バカなッ。

「ご家庭のほうは、いいンですの?」

 安売りショップの外で彼女を待たせ、駐車場から車を出すとき、おれは家に電話を入れた。

 外からかかってくる電話は、10才の上の娘がいれば、彼女が必ず受話器をとる。だから、それは予想していた。

 おれは電話に出た上の娘に、

「図書館で昔のともだちと会ったから、食事してから帰る。ママにはそう言えばわかるから」

 と、告げた。

 何がわかる、だ。女房は首を傾げるだろう。昔の友達って、だれよ! しかし、これだって、考えて言ったことではない。自然と口から出たことだ。

「家を出るとき、外で食事はすましてくると言ってきたから、心配はしないと思う」

 おれは彼女にそう答えてから、車で家を出て来たことを不思議に思った。図書館までは徒歩で10数分だ。いつもは歩く。雨が降っているわけではない。潜在意識は、家を出る前から、「理髪タケイ」に行くことを予定していたのか。

 女房は、車がないことに気がついて、不思議に思うだろう。図書館以外に用事があったのかしら、と。何か、うまい口実を考える必要がある。しかし、いまはいい。

「遅くなっても、いいンですか?」

「いいわ。たまには。夫だって、わたしが息抜きしていないことは承知しているもの。昔のおともだちに会ったから、とあとで電話するつもり……」

 麻花は、急に饒舌になってそう言うと、シートを少し後ろに倒して目を閉じた。

 昔のともだちは、こんなときに利用するものらしい。だれの思いも同じか。

「あなたは、どうなの? 夜になってもいいの?」

 麻花は目を閉じたまま、言った。

「朝になっても、平気だ……」

 おれは車をすぐに止め、目を閉じている彼女の唇に、覆い被さりたくなった。

「ダメよ、朝は……。どんなに遅くなっても、帰らなくちゃ……」

 目の前にショッピングモールの大きな駐車場が現れた。案の定、駐車待ちをしている車が道路にあふれている。おれは、その手前の交差点で右にハンドルを切った。

「駐車場がいっぱいだから、ほかに行きます」

「いいわ。どこ?……」

「車で行ける河川敷にしようか?」

 彼女は、目を閉じてまま無言で頷く。

 あの近くには、ケバケバしいホテルがある。

 こんなことでいいのか。おれは、自分でコントロールできない潜在意識を呪った。この先、何をするつもりなのか。おれは、それを途中でやめることができるのか。いや、おれより彼女はどうなのだ。彼女の潜在意識は、何を求めているのだろうか。息抜きがしたい。役所の人間なら、一応身元ははっきりしている。間違いはないだろうと考えているのか。

 潜在意識がどうであろうと、最後は顕在意識が決定する。夢ではないのだから、いざとなれば、拒否すればいい。相手は、女に見向きもされない男だ。おれが求めれば、彼女は間違いなく拒否するだろう。おれはそれを知っていて、それまでの過程を楽しもうとしているだけなのか。

「わたし、こんなことをするのは初めて。一度しか会ったことがない人と……。でも、こんなことがある日を、ずーっと待っていたような気がする。いけない女よね……」

 彼女は、前を見つめたまま言った。表情は固い。

「でも、ご主人を裏切っているわけではないですよ。ぼくも、女房を裏切るつもりは、ない……」

 いや、おれはウソをついている。潜在意識はいざ知らず、顕在意識はすでにゴーサインを出している。

「わたし、最近自分でも思いがけないことをよくするの。してから、後で、どうして、って、考えてしまう。きょうも、そのようになる気がしている。でも……」

 彼女はそう言って、シフトレバーを掴んでいるおれの左手に、彼女自身の右手を添えた。

「ミラーを見て、後ろから車がついてくるでしょ……」

 ドアミラーに、床屋の駐車場に駐めてあった赤地に黒の軽乗用車が映っている。運転席には、あのオヤジの渋い顔が……。

「夫はあれでもたいへんな焼きもちやきで、わたしがひとりで買い物に行くというと、必ずこっそりあとをつけてくるの……前にも彼は、わたしを誘惑する男を脅して大金を取ろうとしたことがあったわ。若い頃、ヤンチャをしていた癖が抜けないらしいのね……でも、乱暴なのは、口だけ。わたしが何もしていないとわかると、おとなしく引き下がるから」

 彼は、ハンドルを急いで切り、ショッピングモールの方向に車を向け直した。もういい。駐車場が空くまで、何時間でも待てばいいのだ。2つの家の、平穏な生活が保てるのだから……。彼は、潜在意識に引きずられ、床屋に行ったことをようやく後悔し始めた。

                  (了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

床屋 あべせい @abesei

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る