振り返って、もし、ミテ、しまったら?  

槙村まき

振り返って、もし、ミテ、しまったら?

 ひたひたという足音が聞こえたのは、学校を出てすぐのことだった。

 アスファルトで舗装された歩道には、わたしのローファーの音がコツコツと響いているだけだったのに、いつの間にかそれに重なるようにして、ひた、ひた、というフローリングを裸足で歩くかのような音が耳に届いた。

 立ち止まって振り返ってみるが、誰もいない。気のせいだったのだろう。

 再び歩き出すが、夕暮れ時も過ぎた夜道に響くのは、わたしのコツコツという足音だけだった。


 帰宅して母にそのことを話すと、「やだ、こわい」と口元を手で押さえた。

「でも誰もいなかったし、気のせいだと思うよ」

 わたしの言葉に頷くか、母は浮かない顔だった。

「だけど、気をつけるのよ。もう秋だし、陽が落ちるのも早いのだから。こういう季節はね、不審者が増えてくるのよねぇ」

「気にしすぎだって。わたしそんなにかわいくないし、不審者が狙うとしたらもっとかわいくって、スタイルの良い美人だって!」

 不審者なんて、背が低くてぽっちゃりとした体形のわたしには関係のないこと。

 そう思っていたのだけれど、次の日も、その足音は聞こえてきた。


 ひた、ひた。

 私の足音に重なるようにして、小さく、だが、やけに近くから聞こえてくる足音。

 街灯のあるところで振り返ってみるが、やはり背後には誰もいない。

 もしかしたらひたひたという足音は気のせいで、制服と鞄がこすれた音がそう聞こえるだけなのかもしれない。

 そう思うことにして、その日も何事もなくわたしは帰宅した。


 次の日の放課後。美術部に入部しているわたしは、部室に到着するとすでに部屋のなかにいたケイコにこの話をしてみた。

 あくまでも世間話として話したのだが、予想に反してケイコは真剣な顔になった。

「それ、いつから?」

「一昨日、部活の帰りからだよ」

「……そう」

 ケイコは美人だ。すらりと身長が高くて、顔立ちが整っていて、化粧をしていないのに二重で目が大きい。わたしにはないものを持っている、わたしの憧れの友人。もし不審者が狙うとしたら、わたしではなくって、きっとケイコを狙うに決まっている。

 そんなケイコが顎に手を当てて、なにか考えるように俯いている。

「どうしたの?」

 呼びかけると、「いや」と、ケイコは顔を上げた。

「きっと気のせいだと思うけど、もしまたひたひたという足音が聞こえても、ぜったいに振り返ったらダメだよ」

「どうして?」

「なにかよくないものだと困るから」

「よくないものって?」

「よくないものは、よくないものだよ」

 ケイコの言っている意味はよくわからないが、せっかくの友人からの忠告なので、わたしは「ひたひた」という足音が聞こえても、振り返らないようにしようと思った。


 その日の部活帰り、ケイコとは家が反対方向なので、校門前で別れた。

 それからすぐのこと。

 コツコツ、というわたしのローファーがアスファルトを鳴らす音に交じって、ひたひたという音が耳に届く。

 その音は近づいてくると思えば、離れて行き、そしてまた近づいてくるように私の背後から離れない。

 まるで自分のすぐ後ろに、裸足の子供が歩いているような音だった。

 気のせいだ。

 きっと、気のせい。

 でもその音は昨日よりもはっきりと、耳に届くような気がした。

 ひたひたひたひた。

 背後から、息遣いさえ聞こえてきそうで。

 わたしは振り返ろうとして、やめた。

 絶対に振り返らない方がいいという、ケイコの忠告を思い出したから。

 わたしは荷物を抱えると、家までの道をダッシュで帰宅した。


「あら、まだ聞こえるの? 不気味ね。警察に相談した方がいいかしら」

 母の言葉に、わたしは慌てて首を振る。

 子供を心配するのは母親として当然だ。万が一があったら大変だし、母親がそういうのも無理はない。

 無理はないとはわかっていても、わたしは勢いよく首を振った。

 わたしみたいな美人じゃない女がストーカーに遭っているかもしれないなんてそんなことを話したら、自意識過剰だと笑われるだけだ。わたしも、母も嫌な思いをするかもしれない。

 ひたひたという足音よりも、わたしはそっちの方が嫌だった。

「いや、いいよ。振り返っても誰もいないし」

「でも」

「それに猫とか動物かもしれないじゃん」

「そう? ……そうかもしれないわね。でも、部活があるのは仕方ないけど、なるべく早く帰ってくるのよ。秋は陽が落ちるのが早いんだから」

「わかった! 明日は早く帰ってくるようにするね!」

 腑に落ちないという顔をしているが、わたしの言葉に母は頷いてくれた。

 いま制作中の絵は、もう仕上げの段階だ。明日は早く帰って来られるだろう。

 そう思っていたのだけれど。


「やば! もうこんな時間じゃん!」

 時計の短い針は、もうすっかり六の数字を回っていた。

「あ、ほんとだ!」

 ケイコが立ち上がり、美術室に残っていた他の生徒も慌てて片づけを始める。完全下校時間は六時半だ。早くしないと校門が閉まってしまうかもしれない。

 ちゃっちゃと仕上げをするだけのはずが、まさかこんな時間になってるなんて。

 絵を描くのに集中しているとどうしても時間を忘れてしまう。今日は早く帰ると約束したのに、いつもよりも遅い時間になってしまった。

「職員室に鍵返してくるね!」

「ごめんケイコ。お母さんに早く帰ると言っちゃったから、先帰ってるね!」

「了解! あ、そうだ! もしひたひたという足音が聞こえても、振り返っちゃだめだからね! みたら、連れて行かれちゃうかもしれないから!」

 みたら、連れて行かれる? どういう意味かは分からないけれど、わたしは「はーい」と返事をすると、急いで学校を出た。


 わたしの通っている中学校は、家から歩いて十五分ぐらいのところにある。

 走ったら十分ぐらいだろうか。どちらにしても、文化部のわたしには体力がないので、十分間も走ることは不可能だ。

 だからわたしは、家までの道のりを早歩きで帰宅することにした。

 ひた、ひたひた、ひたひたひたひたひた。

 家まで十分ほどのところで、その足音は耳に届いた。

 ひたひた、ひたひたひた。

 いつもはわたしの足音に重なるようにして聞こえるのに、今日は少し遅れて聞こえてくる。

 ひた、ひたひた。ひたひたひたひた……ひた。

 近づいてきて、遠くなっったと思たら、すぐ背後でまた聞こえる。

 気のせいか、その足音は昨日よりも大きく聞こえるようだった。

 鼓膜の傍で、誰かが歩いている。

 はあはあ、と息を切らして、歩いている。

 ひたひたと、わたしを追いかけてきている。

 ひたひたひたひた、とわたしを追いかけてきている。

 ひたひたひたひたひたひた、とわたしを追いかけてきている。

 ひたひたひたひたひたひたひたひた、とわたしの背後で――。

 いつしか走っていたわたしは、暗い夜道の途中で立ち止まった。

 呼吸がしづらくなってきたからだ。

 わたしが立ち止まったからか、ひたひたという足音は聞こえてこない。

 はあはあ、荒い呼吸が聞こえてくる。

 すぐにその呼吸は自分のものだと気づいた。

 大丈夫、気のせい。足音も、呼吸も、不審者なんかいるわけがない。

 そこでふと、わたしは帰り際にケイコに伝えられた言葉を思い出していた。

 ――もしひたひたという足音が聞こえても、振り返っちゃだめだからね! みたら、連れて行かれちゃうかもしれないから! 

 みたら、連れて行かれる。それは、不審者にさらわれるということなのだろうか。

 「あ」と私は思い出した。

 ケイコの趣味を。彼女は、ホラー小説や映画を観るのが好きだと言っていた。

 もしかしたらケイコはわたしの話をそういうものだと受け取っていたのかもしれない。わたしを狙っているのは、人間ではなく、オバケ。

 ひたひたと聞こえてくる足音は、オバケの仕業なんじゃないか、ってそう疑ったのかもしれない。

「だいじょーぶ」

 わたしは産まれてから一度もオバケなんて見たことがない。だからオバケの存在は信じていない。

 ひたひたという足音は気のせい。

 気のせい、なんだ。

 わたしは再び歩き出した。

 家まではあと五分ぐらいだ。すぐにつく。

 ひたひたひたひた、と、背後から足音がついてきていたとしても。

 ひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひた。

 ひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひた耳元で音が。

 ひたひたひたひた、はあはあはあはあ自分の呼吸の音に交じって。

 ひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたどんどん。

 ひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひた大きくなっている。

 ひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひた。

「あああ、もう!」

 いい加減、わたしは限界だった。

 頭の奥で、ひたひたという幻聴が響いているのに我慢ができなくて。

 わたしは振り返った。

「にゃあ」

 という声で我に返る。

 一匹の黒猫が、飛び上がって、目の前を通りすぎていく。

「なんだ」

 わたしはホッと、安堵した。

 ほら、やっぱり、

 オバケなんて、いやしない。

 やっと恐怖から解放されたわたしは、迷うことなく家についた。

 ひたひた、という足音も聞こえなかった。

 黒猫を見た後からだけではなく、それからずっと、ひたひたという足音はもう聞こえなくなった。


 ――でも。

 わたしはその日のことを思い出すたびに背筋を震わせる。

 もし、振り返った時に、わたしが見たのが黒猫ではなかったら?

 黒猫以外のモノを、ミテしまっていたら?

 そしたら、わたしはどうなっていたのだろう。


 あの日以来、わたしはもう、ひたひたという足音を聞いていない。

 だけど、あの日以来わたしは、夜道を歩くとき背後を振り返れなくなってしまった。

 

 振り返って、もし、ミテ、しまったら?

 

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