六、河原 (3)

「部長!河原の再起動に成功しました!」


 モニターのライトだけがぼんやりと光っているオフィスで、ガイスが大きな声を出した。


「ガイス、R-3を河原って呼ぶのやめなさい。」


 後方の暗がりから、スルーっと車いすの彼女がこちらへやって来た。

 ヤギ対策チームの統括部長 オブシウスだ。


 今は夜中の2時半。

 R-003、通称 “河原” が、2354回目のテスト中にバグってから68時間が経過していた。


「ログイン可能になりましたけど、します?」


「いや、明日にしよう。今日はとりあえず、寝よう。ガイスも一旦家に帰って、明日は11時出勤でいいよ。みんなにもメールしといて。」


 ガイスに日報の入力と戸締りを託すと、オブシウスは地下の駐車場へと向かった。

 彼女が車に近づくと、生体認証が反応し、自動でドアが開きリフトがせり出してきて、車いすごと彼女は車の中に収容された。

 前方のタッチパネルを操作し、自宅への自動運転を開始する。


 車は滑らかに走り出し、ビルから直結している高速道路へと進んだ。


 夫のタケルに連絡しようかと一瞬考えたが、もう寝ているだろうと思い、やめておいた。

 オブシウスは目を閉じて、ここちよいドライブの振動をしばし楽しむことにした。


 10分ほどのドライブで、彼女は2日ぶりに我が家へと帰って来た。

 彼女の家は高層マンションの40階にある。玄関をそっと開けて中に入る。寝室を覗くとタケルが気持ちよさそうな寝息をたてていた。


 オブシウスはまるで母親が我が子の寝顔を見る時のように表情をゆるめると、浴室へと向かった。

 職場のシャワールームは型が古すぎて彼女には使えなかったので、家に帰ったらまずは入浴と決めていたのだ。


 車いすから浴槽の椅子に移ると、自動で湯船に入れてくれる。

 オブシウスは熱めのお湯につかりながら、ここ数日の出来事を思い返していた。


 事の発端は、職員の一人が不正行為を働いたことだった。


 彼らが開発しているのは、十年前に突如として出現した ≪ヤギ≫ を駆除するための修復プログラムである。

 ≪ヤギ≫ というのは、政府が運用する仮想現実の中で発見された不正コードの一種であり、見た目が気味の悪いヤギなのでそう呼ばれている。


 すぐに当時の修復チームのエースだったオブシウスが向かったが、彼女を持ってしてもその場で駆除することができず、巣くっていた周辺を巻き込んでまるごと隔離処置となった。

 それ以来、≪ヤギ≫ はずっと本番サーバの隔離空間に閉じ込められているが、停止はしていない。


 国は巨額の予算と国内最高レベルの人員を集めて対策チームを作ったが、今に至るまで未だ解決の糸口は見つかっていないのが現状だ。


 それと言うのも、≪ヤギ≫ は、未知の言語で書かれた不正プログラムであったために、解読にえらく手こずってしまったためだった。

 数年前に、ようやくほぼ全てのコードが解析されて、テスト環境での攻略シミュレーションが開始した。


 R-003は、このシミュレーションのためだけに作られた仮想現実世界に、チームのメンバーがログインするための管理者アカウントなのだ。

 作成者の出来心で、この施設のセンター長の容姿をしているために、密かに彼の名 “河原” と呼んでいるメンバーもいる。


 こんな状況の中、不正を働いた職員は、何を思ったのか全員の目を盗んでR-003アカウントでテスト環境にログインし、≪ヤギ≫ を見に行ったのだった。

 もちろんこの ≪ヤギ≫ はテスト用であり本物ではないのだが、本番サーバにいる奴とほぼ同等に作られている。

 シミュレーションの制度を上げるために、制御装置などもついていない。無暗に近寄ったら何が起こるかわからないのだ。


 こんな奴に近づこうなんて、正気の沙汰ではない。もともと狂っていたのか、≪ヤギ≫ と接触することによって狂ってしまったのかはわからないが、この不祥事を起こした職員は、極度の精神的ショックを受けて、現在入院している。


 ≪ヤギ≫ は独自の追跡プログラム その名も “カプセラ・バーサ・パストリス” をそこら中にばら撒く特性があり、≪ヤギ≫ と接触した際に、R-003にもこのプログラムが混入し、制御不能になってしまった。


 アクセスしていた職員は昏睡状態となって強制ログアウトさせられ、R-003はシミュレーションの中で好き勝手に動き、テストをめちゃくちゃにしてまわった。


 こいつをどうにか止めないと、システムごと再起動が必要になり、今までの努力が全て水の泡と化すギリギリのところまでチームは追い込まれてしまった。

 幸い、このテスト領域は他のネットワークとは一切接続していない独立した環境にあったので、外部にこのバグが飛ばなかったことだけが唯一の救いである。


 まったく、とんでもないことをしてくれたわね。


 オブシウスは不正を働いた職員に直接文句を言いたい気持ちだったが、そんな部下の異変に気が付けなかった自分が悪いのだ、と思い直した。


 この騒動の間もシミュレーションは続行していたが、成り行きや結果を全く確認できていなかった。

 R-003がバグったせいで、だいぶイカれたテストになってしまったようだった。


 明日早速 良介を呼び出して状況を説明してもらわないと…。


 長々と風呂に浸かって体が芯から温まり、猛烈な睡魔がオブシウスを襲っていた。

 早く浴槽から出ないと、ここで溺死なんてシャレにならない。


 「退水」のボタンを押すと、彼女は湯船から出され、同時に全身ドライヤーが起動し体はあっとゆうまに乾燥した。

 用意しておいた服を着ると、車いすに乗り、寝室へ向かった。そして夫が心地よい眠りを貪っているベッドへと潜り込んだ。


 オブシウスがベッドに入ってくるとタケルは寝返りをうって目を覚ました。


「おかえり。終わったの?」


「起こした。ごめん。やっと再起動できたよ。明日詳しく状況を見るけど、もしかしたらあなたの出番かも。」


「成功したの?」


「ざっとしかログを見てないから定かじゃないんだけど、リサコ、とうとう ≪ヤギ≫ を斬ったぽいのよね。」


「ほんとに?!」


「そう、だから平和な夜はこれでお預けかもね…」


 そこまで言いながらオブシウスはもう眠ってしまった。

 タケルはその顔を見て微笑むと、自分も再び夢の中へと帰って行った。

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