ミシュレの街の錬金術師 ~鍛冶屋のニース勃起事件~

しんかい(神海心一)

本文

 庭の小さな畑に、人影があった。

 ふわふわとした柔らかな金色の髪を揺らし、片手に握った如雨露で土に水をやっている。背も低く、幼いと言っていい外見の少年だった。彼は種を植えただろう場所で律儀にしゃがみながら、丁寧な手つきで水を注いでいる。

 平たく均され、まだ芽も出ていないような畑だ。そこまでする必要もないところだろうが、物事をしっかりこなすのは彼の性分でもある。優しく、元気に育ってねと愛を込めるように。

 そうしていると少年の身体から、はらはらと金色の粒子がこぼれ落ち始めた。髪色と同じ輝きを放つ粒は畑の土に沈み込む。前に歩きながら水をやる少年は、自らより溢れ出る粒子の振る舞いに気づかない。

 やがて少年の通った土が、にわかに盛り上がる。土中から伸びた植物が芽を出し、茎と葉を形作り、花を咲かせ、ついには実をつけてしまう。本来なら季節を跨いで緩やかに行われるはずの、有り得ない急成長。

「アウルム」

 不意に名を呼ばれ、少年が畑から顔を上げる。工房兼屋敷の裏口から出てきていたのは、薄く透き通るような蒼銀の髪色をした、美しい女性だった。

「師匠……調合は、終わったんですか?」

「ひとまずはね。それよりも我が弟子、振り返ってみるといい」

「え?」

 言われて背後を見た少年が、遅れて畑の異常に気づいた。

「わ、わわ……っ、ぼ、ぼく、またっ」

「魔素の制御が甘い証拠だな。まあ、収穫が早い分には困らないのだがね」

「どっ、どうしましょう師匠っ」

 精神の動揺と連動するかのように、金色の粒子はますます勢いよくこぼれ出る。

 慌てる少年の様子に、女性はふっと頬を綻ばせる。それからまっすぐ歩き寄り、振り向いたり戻ったりしてわたわたと両手を振る彼をおもむろに抱きしめた。むぎゅ、と少年の顔が女性の胸に埋まる。

「以前教えただろう? 息を整え、心を鎮める。門を堰き止めるように……そう、集中して」

 穏やかな声に導かれ、豊満な胸に抱かれたまま少年は意識を己の内側に向けた。今もはらはらと身体よりこぼれ落ちる金色の粒子は、感情の高揚や動揺と連動して器から溢れているものだ。心が波打ち浮き足立てば、その拍子で制御しきれない魔素が漏れてしまう。

 だから彼は目を閉じ、自分を包む腕や胸の柔らかさに身を委ねた。言われた通り息を整え、心を鎮める。目視できるほどに濃い金色の魔素は、ゆっくりと色を失い、収束していった。

「……どう、ですか?」

「今は完全に治まっているよ。アウルム、よく自力で制御したね」

「師匠が補助してくれたから……ぼくは、まだまだ未熟です。ちゃんと、ひとりでできるようにならなきゃ」

「三年目でこの制御力なら充分すぎるほどなのだがね。ただでさえ生成量が多いというのに……むしろよく抑えている方だと思っていい」

「でも……」

「ふふ、向上心を絶えず持っているのは素晴らしいことだ。それでこそ私も教え甲斐がある」

「あうぅ……」

 抱きしめられながら耳元で囁かれ、少年はもじもじと身じろぎする。

 その反応に満足したのか、彼に師匠と呼ばれた女性は緩やかに腕をほどいた。ずっと胸に埋もれていた少年が、少し深めに息を吸う。

「明日水をやる時には、私も付き添おう。放出量を調整すれば、先ほど成長した分ならちょうど収穫できるだろうからね」

 提案され、少年はこくこくと頷いた。

 いちいち年相応に可愛らしい弟子の仕草を見て、彼女は若干鼻息を荒げながらも微笑む。ふわふわの金髪を指で梳くように撫でると、自身を見上げる彼の背中をそっと押す。

「ではアウルム、少し休憩したら、今日の座学を始めようか」

「はいっ、お願いしますっ」

 並んで屋敷へと戻っていく二人は、社会的には保護者と被保護者の関係であり、この工房においては師弟関係でもあった。

 弟子の名はアウルム。

 そして師の名は、ブリーナ=マレフィカ。

 公には“霜の錬金術師”と呼ばれる彼女が、木材と酒造の街ミシュレで唯一の錬金工房(アトリエ)『ヨトン』の主である。



 工房の隅に備え付けられた小さな机の前に、アウルムが座っていた。

 彼の前に立つブリーナは、台座で固定された白板に流麗な筆致で字を書いてみせる。

「さて、まずは復習と行こう。アウルム、魔素とは何か?」

「えっと……命あるものが生み出す力、物質や現象の変化に何らかの方向性を与える元素、ですよね」

「よろしい。正確な認識だ。ならば次、錬金術における魔素の役割とは?」

「調合した薬の効能を高めたり、道具に魔素の特性を付与したり……でしょうか」

「概ね間違っていないが、それだけだと正確ではないな。まず、魔素は生命力の一種でもあり、生物を活性化させる性質を持っている。基本的に個人が生成した魔素は直接他者に与えられないが、付与した物質を介することで、間接的に効果を及ぼすことはできる。主に治癒薬(ポーション)の効果増強がこれに当たるね」

 今度は白板に、やたらと抽象的な絵らしきものが描かれた。ブリーナは人体と魔素の流れを記したつもりだったが、余人の理解が及ばない前衛芸術にしか見えない。はっきり言えば絶望的なまでに絵心がないのだが、素直な愛弟子はふんふんと感心しながらその絵を学習用の紙に写していた。ちなみにこちらは普通に上手い。こと絵画技術に関して、弟子が師匠に学ぶところはなかった。

「先に述べたのは魔素の共通要素だ。生物が体内で生成する魔素には、個人に応じた属性が割り振られる。道具に特性を付与する、というのはそういった性質を利用する手法だが……アウルム、この街で実際に使われている魔具をひとつ挙げてみなさい」

 唐突な師の問いにアウルムは驚き、それから真剣な顔で考え始める。

 最近ようやく簡単な買い物を任せるようになったばかりだ、少し難しかったかとブリーナは瞳を細めたが、悩める弟子は数秒後にハッとした表情を浮かべた。

「あっ、そうだ、魔素灯です! 夜に街路を照らしてるあの!」

 アウルムが閃きを無邪気な笑顔で口にすると、鷹揚にブリーナは頷く。

「よく思い出した。では、魔素灯にはどのような魔素属性が付与されている?」

「光……いえ、熱だから『赤火』ですよね?」

「実によろしい。火や熱に関連する魔具は多い。錬金術に限らず『赤火』は需要の高い属性だ。工房でもいくつか実際に使っているものがあるな」

「お湯を沸かしたり、お部屋をあっためたりする魔具ですね」

「そうだな。魔素は水に溶けやすく、また高温にも馴染みやすい。特に薬の類を作成する時は重宝するが、魔具の出力次第では素材どころか工房まで燃やしかねないからね、今後も扱いには注意すること」

「はい、師匠っ」

 明朗な返事と共にアウルムは背筋をピンと伸ばし、表情を引き締める。

 とはいえ、面立ちが幼いためか、やはりかわいらしさが前に出てしまう。ブリーナはしばし彼に見えないよう背後に回した両手をわきわきさせてから「では次に行こうか」と何食わぬ顔で続けた。

「魔素属性は、個人につき必ずひとつだ。世界中を探せば例外が存在するのかもしれないが、今日までの歴史上でも二種以上の属性を持った者は確認されていない。これについては諸説あるが、所有する属性は先天性であること、死霊となった者が生前と同一の魔素属性であったことから、肉体ではなく魂に紐づいているという説が有力だね」

「人格や記憶を司るのが魂、肉体は魂が動かす外殻にして保護装……ですよね」

「後者については魔素の生産拠点でもある、と言った方が正しいな。生物にとって魂は魔素の集合体であり、もうひとつの血肉でもある。制御されない魔素は拡散してしまう性質を持つから、一定の形を保持する力が非常に弱く、基本的に剥き出しの状態だとすぐに大気中の微かな魔素と混ざり合って解けてしまう。死後も魂だけで活動できるのは、保有量と制御力が共に優秀な極一部の魔法士だけだ」

「師匠は……その、もし死んじゃっても、死霊になれるんですか?」

「ふむ。まあ、その気になればだな。これは過去の論文や伝聞からの推測でしかなく、どうにも実証に乏しい話だが、どれほど制御力が高くとも、死霊になった時点で魂を構成する魔素の拡散は避けられない。魂にとって構成魔素の拡散は、即ち人格や記憶の剥離だ。徐々に、そして確実に己が失われていく……という恐怖を考えれば、素直に死を享受した方が良い気もするね」

 かつて他国で起こった災害の中には、そういった自己の喪失に耐えられなかった死霊が暴走したものも少なからずあったという。時には国家の重鎮だった魔法士が死にきれず魂だけの存在となり、城ごと都を消し飛ばして国が滅びた、なんて実例さえ残っている。

「もっとも、魔素の保有量と生成量が一定以上だと、生物は途端に死ににくくなる。これは何故かわかるかな」

「んー……師匠、魔素は生命力の一種で、生物を活性化させる性質を持ってるんですよね」

「うむ」

「ってことは、魔素が多い人ほど自己治癒力が高かったり、身体が衰えなかったりする……?」

 少し自信なさげに、アウルムがブリーナを上目遣いで見る。

 不安そうな弟子の前で、彼女はふふ、と笑みをこぼした。常に勤勉で、謙虚で、打てば響く。実に優秀で教え甲斐のある子だ。人に教えるということがこうも楽しいものだとは、数年前まで考えもしていなかった。

「アウルム、君はもっと自信を持つといい。それで概ね正しいよ」

「あっ……ほ、本当ですか!?」

「本当だとも。魔素は物質そのものを作り出すことはできないが、今あるものには常に干渉力を発揮しようとする。微量ならば目に見える影響もないが、魔素が濃ければ濃いほど、そして多ければ多いほど与える影響も大きい。たとえば治癒薬なら?」

「効果増強……飲んだ人の自己治癒力がより上がる、ですよね?」

「そうだ。注ぐ魔素が多すぎると、今度は摂取者の肉体を壊す毒にもなってしまうが……魂を構築する体内魔素の場合、平常時は肉体を最適化するために消費されている。常人ならその割合も大したことはなく、肉体の老化を止められない程度だが、極端に魔素が多いと、怪我をしてもすぐ治り、病とも無縁になり、老いさえ遠ざかる。私やアウルムのようにね」

「……ぼくも、なんですか?」

「ああ、これが今日の本題だよ。アウルムの保有量と生成量は、ともすれば私より上だ。消費せずに魔素を溜め続けると、保有しきれない分が外に漏れてしまう。常人なら生成量の問題でそう大事にはならないが、何分アウルムはどちらも桁外れだからね。先ほどの畑であったようなことが近頃頻発しているのは、そういう理由からだ」

 肉体という器から溢れた魔素は、通常なら目に見えるものではない。

 しかし、アウルムのそれは金色の――魔素色まではっきりと判別できるほどの粒子として、外界に影響を及ぼしている。

 先日似たような問題が発生した折、ブリーナはひとまず簡単な制御法を教えたが、根本的な解決には少なくない手間や時を必要とする。今回の座学は、そのための導入でもあった。

「定期的には、たとえばこのように」

 行儀良く座るアウルムの前で、ブリーナが左手の人差し指を地面に向ける。

 爪の先からぴきぴきと、細く透明な氷柱が伸びて床板に接地した。彼女の足元をアウルムが見れば、氷柱の周囲は狭い円状に、霜が降りていた。

 柔らかく人差し指をブリーナが折れば、氷柱は粉々に砕け霜も溶ける。残り香のような冷気が室内に散り広がった。

「魔法などを行使して、魔素抜きをするのが理想だが……私と違って、アウルムは場所を選ばなければいけないかもしれないな」

「師匠の属性は『氷雪』……でしたよね。どこで消費されてるんですか?」

「私は専ら氷室でだよ。氷はあって困るものでもないし、余所に配ってもいいからね」

「なるほど……」

「しかし、アウルムの属性は『豊土』だ。人族が持つ魔素色としては相当に珍しい。私も、他には見たことがないよ」

 歴史上で確認された同属性の人物となると、片手で足りる程度しか見当たらない。単純に希少だからでもあるが、それ以上に特性が大きな価値を持っているからだった。

 ――金の御子は、純金よりも貴きものと知れ。

 古い歴史書の記述によれば、金の髪色をした者は幼い頃より御子として扱われた。必要な時以外は決して外に出さず、ほとんど例外なく彼らは閉ざされた環境で一生を終えている。そして、御子のいた国、街、あるいは村は、毎年の豊穣を約束されていたという。

 つまるところ『豊土』の魔素とは、命あるものの成長にまつわる属性だ。

 植物であれば有り得ざる速度で枝葉を伸ばし、花実をつけさせ、本来なら多大に掛かるはずの時間を踏み倒す。それでいて健やかな、ほとんど理想的な成長をもたらしてくれる。国が確保すれば、経済的、食料的な戦略にさえ用いられかねない……実際、そうして栄えた国家も存在した。個人の才覚に頼り過ぎて滅びるまでが歴史書におけるお約束だったが。

 閉鎖的な村などで金髪の子が生まれると、ろくに外にも出さず酷使され、若くして亡くなるようなこともあったらしい。歴史を知る者にとって金の御子は、栄枯盛衰の象徴めいた登場人物と言える。

「ここしばらく、中和剤の作成を教えていただろう? あれは錬金術の基礎だからでもあるが、ある程度まとめて作りやすく、それなりに注ぐ魔素量も多いためだ」

「確かに、ちょっと漏れる頻度は減ってた気がします」

「まあ……想定外だったのは、私が推測した以上にアウルムの生成量が多かったことだがね」

 薬の中でも特に魔薬と言われるものは、そのままなら劇物にしかならない素材同士を組み合わせるようなレシピが大半だ。植物にしろ獣の類にしろ、強い効果が望める素材ほど癖も強い。それらを上手く加工するのに中和剤は必須であり、ブリーナほどの錬金術師ともなれば、恒常的にかなりの量を求められる。

 当然ブリーナ一人でも充分賄えるのだが、弟子に任せられるならそれに越したことはない。それに、

「いくつかを使用してみた限り、『豊土』の魔素で作成した中和剤は明らかに素材の薬効が強くなる。私のものより少量に調整する必要はあるが、いずれアウルムなら私以上の薬を作れるようになるだろう」

「き、期待してもらえるのは嬉しいですけど……うぅ、頑張ります」

「頑張りたまえ。実践に勝るものはなし、だよ」

 白板の字を消し、ブリーナがアウルムの頭に手のひらを乗せる。さらさらの金髪をひと撫ですると、弱気を振り払うようにアウルムは立ち上がった。あとはこのまま今日も中和剤の作成をさせようか、と彼女が考えた直後、玄関からガランと重い鈴の音が聞こえてくる。

 こころなし不機嫌な表情で、ブリーナは息を吐いた。

「アウルム、来客を迎えてきなさい」

「あ、はい」

 とてとてと歩いていった彼が玄関扉を開けると、そこには長身の男がいた。小さな人影が見えていなかったのか、男は慌てた様子で踏み入りアウルムと衝突する。

「ふわわっ、あっ、あぅっ」

「わ、悪ぃ……っ!」

 耐えきれず尻もちをついてしまったアウルムに気づき、申し訳なさそうに手を伸ばす。

 しかしアウルムがその手を握るより早く、一拍遅れて様子を見に来たブリーナが弟子の腰に腕を回し、引き寄せて抱き上げた。

「私のかわいい弟子を押し倒すとは……鍛冶屋のニース、君はここで死にたいのかね?」

 淡々とした声色に反して、彼女の身体からぶわっと青白い粒子が広がった。それはさながら雪のように床へと落ち、一瞬で男の周囲だけに霜を降ろす。畑で見せたアウルムとは明確に違う、制御された魔素の振る舞い。

「違ぇ、違ぇからその冷気を抑えてくれ!」

 不格好なタップダンスを踊る男の姿を、抱かれたままのアウルムは観察する。ニース――ミシュレ唯一の鍛冶師である彼は『ヨトン』の常連だ。確かよく買っているのは、火傷用の軟膏や徹夜仕事用に飲むという栄養剤、強壮剤。彫りの深い顔と焼けた肌の持ち主で、普段は大雑把だが気の良い好漢という印象が強い。火を扱う生業だからか薄着でいることが多く、今も上半身は肌着一枚。そこに違和感はない。

 問題は下半身だった。

 なぜか、腰周りに何枚も布を巻いている。腿の半ばまでを覆っているせいで、どう考えても歩きにくい。先ほどぶつかってきたのもだからなのかな、とアウルムは内心で納得していた。

「あの……師匠、とりあえず降ろしてほしいです」

「む? ああ、すまない。少し礼儀知らずを躾けるのに熱中してしまったね」

「んしょ、っと……ありがとうございます。それでニースさん、今日はどうしたんですか?」

 弟子のことになると異様に沸点が低い師匠を目線で宥めてから、アウルムはニースに尋ねた。

 足元を囲む霜がさっと引き、寒さで鳥肌を立てつつもようやく落ち着いた彼が、まずアウルムを見て、次にブリーナを見る。それから露骨に渋い顔をし、俯き、ぼそっと何事かを呟いた。

「そんな小声では聞き取れまいよ。用をはっきりと口にしたまえ」

「……ないんだよ」

「もう一度」

「ぼ……ぼ……っ」

「ぼ?」

「勃起し過ぎて治まらないんだよ!」

 二回声を詰まらせた上で、大の男が羞恥で顔を真っ赤にしながら、やけくそとばかりに告白する。

「……ふむ。邪魔だな」

 一人頷いたブリーナが、おもむろに近づいてニースの腰布を容赦なく剥いだ。

 ほわー、とアウルムが視線をニースの股間辺りに向ける。なるほど確かに、下履き越しでも容易く判別できるほどに盛り上がっていた。

「きゃああぁぁぁっ!?」

「その女々しい悲鳴はやめろっつっただろうが!」

「へぶっ!?」

 開け放っていたままの玄関側から、突如飛び込んできた人影が叫ぶニースの後頭部をぶっ叩いた。

 現れた闖入者についても、アウルムは知っている。

 ニースの妻、コルシカ――つまり今回は、夫婦揃っての来客だった。



 前のめりに倒れて気絶したニースが復活したのは、おおよそ一分後。厳密には自力で意識を戻したのではなく、ブリーナの強烈な冷気によって無理矢理起こされたのだが、ともあれそうして二人から話を聞く運びとなった。

 問題自体は、要約すれば単純なものだ。昨晩よりニースの勃起が治まらず、股間の感覚が鋭敏過ぎてろくに仕事にも集中できない――普通に考えれば街の医師に相談すべき案件だろう。しかし彼らがそうしなかったのには、つい先日『ヨトン』でニースが購入した薬が関わっている。

「では、精力剤は昨日飲んだということかね」

 率直過ぎるブリーナの問いに、若干頬を引きつらせたニースが頷いた。

「お、おう……あ、いや別にマレフィカ先生の薬を疑ってるわけじゃねぇんだ。飲んだのも昨日が初めてってわけじゃないしな。ただ、ほら、タイミングの問題っつーかさ」

 夫の言い分を前にして、コルシカが軽く目を見開いたのをブリーナは見た。傍らに立つアウルムも気づいたらしい。心配そうな弟子の視線に小さく笑みを返す。

「薬に原因がある、と君が考えたくなるのは理解できるよ」

 ミシュレにおいて唯一の錬金術師であるブリーナは、薬剤だけに限っても相当な種類を工房に取り揃えている。それは街民の需要を手広く満たすためでもあるし、何割かは個人的な趣味によっている。いわゆる性機能を増強するような薬も、男性用女性用、効能の強弱でかなり細分化されたものが薬品棚には常に一定数並べられていた。

 ニースが先日入手したのは、中程度の効能を持つ精力剤だ。噂によれば王都では「これ一本で一晩ハッスル! お世継ぎ不足の皆様にもオススメ! ドデカミンG」などという触れ込みで販売する商店もあるらしいが、ブリーナ自身は特に名前をつけたりしていないので、ネーミングには一切関与していないという声明だけを出している。

 彼女が卸し先に言い聞かせているのは、用法と用量の厳守だ。

「しかし、職人として断言しよう。適切な摂取量であれば身体的な問題は起こり得ない。念のため確認するが、伝えた通りに使用したかね?」

「もちろんだ。一回に飲むのはスプーン一杯、水によく混ぜる……だよな?」

 ふむ、とブリーナは一人得心する。このニースという男、あまり深く物を考えないところはあるものの、決して馬鹿ではない。そもそも勝手に過剰摂取するような人物ならもっと早く問題を起こすはずだし、ブリーナもそういった客には早々に見切りをつける。薬に問題がなくとも、問題があったと吹聴されることは大きなリスクになるからだ。

「薬を飲んだということは、昨晩は性行為に励んだのだな?」

「え、それここで言わなきゃいけねぇの……?」

「ったく、なーに躊躇ってんだい。お察しの通りだよセンセ。おかげでちょっと腰が痛いくらいさ」

「体感で構わない、射精量は?」

「いつもよりは多かったね。でもどっちかっていうと、すごかったのは回数と持続だったよ。何しろ今も硬いままなわけだしねぇ。正にビンビンってヤツだ、くくっ」

「いっそ……いっそ殺してくれ……」

 夫より遙かに羞恥心の薄いコルシカが、夫婦の性事情をあっさり打ち明ける。

 港街の商家の出である彼女は、あらゆる意味で豪快な性格の持ち主だ。しかし夫のように大雑把ではなく、職人気質のニースを実家での経験と強かさで支える一筋縄ではいかない女傑で、過去に一度『ヨトン』では、アウルムが店番をしていた時に値切り交渉を仕掛けられたりもした。ブリーナが交代してすぐ、無理筋と判断して即座に引いたあたりも、機と人を見る目が優れている証だろう。

「……アウルム。同様の薬は他に販売した覚えがあるかな。ここ数日でだ」

「あっ、はいっ。ニースさんと同じものなら何人か……あとは、似たような効能のものも……確か……」

「なるほど、ありがとう。そちらは後ほど帳簿を確認するとしよう。ニース、現実逃避していないで顔を上げたまえ」

 記憶を掘り起こそうとするアウルムの頭にぽんぽん、と手のひらを置き、ブリーナは耳を塞ぎ崩れ落ちていたニースを霜の冷たさで再び立たせる。

「う……そ、それで、こいつはどうにかなるもんなのか……? まさか、破裂したりとかしねぇよな……?」

「そう悲観するほどの状況ではないよ。鎮静剤は私が作れる」

「じゃ、じゃあ!」

「ただし、今は在庫がない。残念ながら手持ちの素材も足りていない」

「…………」

 ニースがこの世の終わりめいた表情を浮かべた。

 全く命の危険はないのだが、傍から見ればあまりにも大袈裟で滑稽な反応に、さすがのブリーナも苦笑を禁じ得なかった。

「……アウルム、これから出るよ。採取用の鞄と道具を準備してきなさい」

「わかりましたっ」

「というわけで二人とも、これから……そうだね、一日は掛からないが工房を空けるから、明日の同じ時間にもう一度来るといい。その時までには薬も用意できているはずだから」

「え? マレフィカ先生……何をするつもりで?」

「決まっているだろう。素材がないのなら採りに行くまでだよ」

 王都で活動する錬金術師ともなると、素材もほぼ商家からの供給に頼る者は多い。だがそのような手を使えるのは、貴族出身などの裕福な立場にある一部だけだ。街や村付きの錬金術師は、文明が及ばぬ場所に踏み入り、素材から自分で収集するための実力が求められる。

 ミシュレのようなさほど大きくない街は、外に出る際も煩雑な手続きを必要としない。

 ましてや門番とはほとんど顔見知りだ。ブリーナほどの錬金術師がミシュレを拠点として選んだのは、そういった理由もあった。

 工房の方からぱたぱたと足音が聞こえる。ブリーナは玄関近くのクローゼットに掛かっていた外套を羽織り、坊主といったいどこに、というニースの問いかけに答えた。

「これから弟子と二人で、軽い山登りにね」



 街の西側にはハイメンという名の山がある。標高だけを見ればさして大きなものではないが、裾野が広く、麓は南西を覆う深い森と繋がっている。街道も伸びておらず、ほとんど人の手が入っていない土地だ。

 魔素は命あるものが生み出す力。人族のみならず、動植物も持ち合わせている。自然が支配するような環境では、それらが濃い魔素の影響で変質し、全くの別種となることさえある。生来とは違った性質を獲得し、個体によっては魔素を動的に行使する――学術上の分類では魔獣、魔草と呼ばれるものたちの生息する場所が、ミシュレ西方の採取地だった。

 退屈そうに空を見上げていた門番へと声を掛け、何事もなくブリーナとアウルムは街を出た。門を通る際は、内からであれば行き先と名を、外からであれば合わせて人相と由来を控えられる。不審者の侵入や脱出を未然に防ぐための対応だが、国全体が戦から遠ざかって久しく、特に街から出る者の確認は半ば素通しになってしまっていた。

 もっとも、頻繁に採取のため外出するブリーナにとっては、面倒な手続きがない分有り難い。

「師匠……目的地は、徒歩だとどのくらいなんですか?」

「そうだね、素直に歩いていけば……良くて半日だな。実際は途中で夜になるから、そう上手くも行くまいよ」

 どことなく不安げな表情をしたアウルムは、今回が初の採取活動である。

 これまでは座学と薬剤の調合が主な修行内容だった。一度にあれこれとさせても大変だろうというのもあったが、ブリーナにしてみれば、それなりに危険な場所へ赴くため、ある程度魔素の制御法を覚えてからにしておきたかったのだ。

「えっと……急がなくて、いいんでしょうか」

 ぼくは師匠と一緒にお出かけできて嬉しいですけど、と小さく呟いたアウルムを、ブリーナはおもむろに抱き上げた。片手を膝裏に、もう片手を肩裏に差し込んだ、俗に言うお姫様だっこ。

 当然周囲に誰もいないことは確認済みである。

「ふふ、嬉しいことを言ってくれた弟子の心配を解消するためにも、少し急ごうか」

「わ、ふわっ」

 青白い魔素粒子が、ブリーナの足元に薄氷の道を作り出した。一歩、二歩、滑るような足取りは間もなく風を切る弾丸の速度を得る。

 ――ブリーナ=マレフィカは錬金術師であると同時に、類稀な魔法士でもある。

 元来『氷雪』の魔素属性は、外界に影響を及ぼし難いとされていた。大抵の魔法士は拳大の氷を生成したり、物を冷やしたりする程度が限界で、時間を掛ければ、あるいは複数人いれば中規模の氷壁を生み出すこともできたが、特に戦場ではあまり目立つものでもなかった。

 そういった中でブリーナの出力は、明らかに異常だった。息をするように周囲の熱を奪い、凍らせ、一帯の天候さえも左右する。ただ彼女が悠然と歩くだけで、地に降る霜と共に敵対者は倒れ行く――特段自分から名乗っているわけでもない“霜の錬金術師”という異名は、畏怖と敬意を込めて与えられた称号でもあった。

 生成量のみならばアウルムとて比肩する。しかし、恐るべきは完璧な制御力の方だ。膨大な魔素を垂れ流すのではなく、明確な指向性を持たせている。即席の氷道は彼女の進行方向だけを正確に先行し、用を終えた背後の氷は跡形もなく溶けて消えていた。放出した魔素の振る舞いを熟知し、特性を理解し、それでいて手綱を決して放さない繊細な操作だけが成立させる技巧の極致。

 馬車要らずで便利だろう、と笑う師匠を、アウルムは常に尊敬している。

 少々過保護なところはあっても、彼女の弟子でいられることは法外の幸せと言ってよかった。

 そのまま森に入り、いくらか進んでからアウルムは降ろされた。浅い域だからか木々は背の低いものが多く、木漏れ日で程々に明るい。

「さて、ここからは実践だ。気を張り過ぎてもいけないが、周囲には意識を配るように」

「意識……ですか?」

「言い換えるなら魔素の流れだね。体内から放出した魔素は、感覚の延長として扱うこともできる。まずはやってごらん。肌にまとった魔素を薄く広げるイメージで……そう、その調子だ」

 師の教えに従い試してみたが、アウルムは即座に難易度の高さを実感した。まず、広げた魔素と感覚を繋ぎ続けることが難しい。ふっと気を抜けばすぐ霧散し、制御を離れた魔素は大気中に解けてしまう。さらに言えば、これまで感じなかった音や肌触りが一気に来る。普通に生活している時とは比べ物にならないほどの情報量。集中していた時間は一〇秒にも満たないはずなのに、アウルムの額にはじわりと汗が滲んでいた。

「ふむ。やはり飲み込みが早い。肌から離れた魔素は自分のものと認識できなくなる子も多いのだがね」

「でもこれ……すごく、疲れます……」

「最初はそんなものだろう。あとは慣れていくしかないよ」

「地道にがんばるしかないんですね……。師匠は今も、さっきみたいにしてるんでしょうか」

「そうだね。私の場合はほとんど常時と言っていい。だからほら、このように」

 ブリーナが右足を軽く上げ、爪先で地をこつんと叩いた。

 瞬間、横合いから飛び出してきた何かが宙で縫い止められる。真下より伸びた幾本もの氷針が貫いたのは、草木に似た緑色の毛並みを持つ、四つ足の獣だった。

「不意の襲撃にも、感知圏内なら先手を打てるというわけだ」

「わぁ……この獣って、森狼ですよね。図鑑で見たから覚えてます」

「他にはいない。はぐれだな。基本的には群れで襲ってくるが、少数の場合は待ち伏せていることもある。目視で判別するのは難しいので、魔素の揺らぎや痕跡を辿るといい」

「なるほど……」

「内臓は一部の薬の材料になるが、今日は時間が惜しい。死骸処理は他の獣に任せよう」

 どさりと落ちた森狼を一瞥し、二人は先に進む。

 道中では何種か素材となる野草や種実を発見した。採取した後の現物はアウルムも工房で目にしていたが、自然のものに触れるのは初めてだ。ブリーナの補足や注意にしっかり耳を傾けつつも、目を輝かせて摘み取っていった。

 森狼とは違った獣も何度か襲いかかってきたが、全てブリーナが事前に察知し、愛弟子には決して届かせなかった。彼女は専ら急所を氷針で正確に貫いて仕留めたが、それも対象を解体する際、最低限の傷で済ませるためだ。『豊土』の魔素色を持つアウルムでは、同様の対処はできない。ならどうしたらいいのかを弟子が問うと、周囲の草木を利用するといい、と師は返した。

 植物の成長を早めるだけが『豊土』の特色ではない。枝葉を伸ばして絡め取る、あるいは鋭利な先端で刺し抜く。さらに今後知識を蓄え、動植物への理解を深めれば、自然環境そのものを味方につけることも可能だろう、と。

「そっか……もっと勉強して、魔素の制御もいっぱい訓練すれば、師匠の力になれるんですね」

「ふふ、私の力にならずとも良いが、今後も励んでくれれば師としては嬉しいよ」

 改めて奮起する弟子の姿に、ブリーナは笑みをこぼす。

 弟子として育てるにあたり多くの文献を調べたが、何分『豊土』の属性は実例が少なく、どこまでのことができるかも不明瞭だ。しかし彼女には、ひとつの確信めいたものがある。

 アウルムという少年は拾い子だ。元は名もなく、そして親もいなかった。道端に捨てられていたからではない。ブリーナが彼を見つけたのは、ミシュレ西方のこの森よりもさらに奥、強靭な魔獣や変異植物が徘徊する最深部だった。黄金色の花にくるまれていた赤子は、希少な素材を採取しに来たブリーナと目を合わせ、ただ無邪気にきゃっきゃと声を上げていた。

 生物の魂が魔素によって形作られるように、自然中の魔素が極端に濃くなると、その集合体が人格めいた意識を持つようになるという。ほんの十数年前までは眉唾物とされていた話だが、ある国の研究調査隊が発見し、実在を証明したことで『地精』と名づけられた。それらは金の魔素色を持ち、周辺の自然環境を劇的に作り変える。より効率的に魔素を集め、自己を保つために。

 ブリーナが踏み入った深部に、地精の姿はなかった。ただ代わりというように見つけた赤子を、彼女は丁重に連れ帰った。

 以後、三年。たった三年で赤子は――アウルムは、今の姿に成長した。

 一度身体を失った死霊が器を再生できないのは、現存するどの魔素属性でも肉体を錬成し得ないからだ。仮にブリーナが死霊となったなら、物理的に外界へと干渉するには氷で接点を作るしかない。他者と触れ合い、物を動かすようなことはできるだろうが、結局それでは魔素の拡散を避けられず、いずれは魂が霧散してしまう。故に錬金術の秘奥として『完全な人体の錬成』が唱えられ、そして未だ誰も為せずにいるのだから。

 彼が異様な速度で成長したのは、おそらく『豊土』の魔素が肉体に強い影響を与えているからだ。地精は高濃度の魔素集合体。もし、それが自己を、あるいは周囲の何かしらを変異させ、疑似的な生命誕生の過程を経ることで、肉を持つ存在に生まれ変わったのだとしたら――。

 地精の子と呼べばいいのか、転生体と呼べばいいのかはわからない。

 ブリーナは愛弟子に関する自身の仮説を、胸の内に仕舞い続けている。

 時折採取で足を止めながらも、道行きは順調だった。背を高くしてきていた木々は、徐々に勾配が強くなるにつれまばらになっていく。森から山に差し掛かったのは、初めて来たアウルムにも何となく理解できた。

 しばらく無言で傾斜を歩く。そろそろ辛くなってくる頃だろうかとブリーナは考えるが、窺った弟子の表情にはまだ力強さがあった。

「アウルム、休まなくても平気かね」

「はい、まだ、ぼくは、大丈夫ですっ」

「……そうか。想定していたよりも体力がある。日々の鍛錬を欠かしていない証拠だ」

「今日……初めて、実感、してます……っ!」

「以前より筋肉がついてきているのは、昨日も風呂で確かめたからな。当然と言えば当然だろう」

「し、師匠……! いきなり、そういうこと、言うのは……」

「む……そろそろか」

 少し顔を赤くしたアウルムを、ブリーナが制止した。

 勾配を上がりきると、浅い森の切れ目から先に平地が広がっている。見渡せば、ほとんどが色とりどりの花畑だった。

 手前だけに注視するなら、月並みに綺麗だと感じただろう光景。

 しかしアウルムは、奥の方に視線を向け、大きく目を見開いた。

「な……何ですか、あれ」

 桃色としか言えない、毒々しい霧のようなものが一帯に漂っていた。空を飛ぶ鳥は大半がその領域を避けているが、はぐれたのか疲れているのか、遅れて低く滑空していた一羽が霧の端に引っ掛かると、吸い込まれるように霧の中へ――その下の地面へと落ちていく。

 不気味な一連の様子に、アウルムがさっと顔色を青くする。

「あそこに咲いているのが今回の目的、チャミカの花だよ」

「花……霧が濃くて見えないけど、花があるんですね」

「厳密には霧ではなく花粉だ。チャミカという植物は雌雄同株でね、同じ花におしべとめしべがある。これを両性花というが……特徴的な性質として、一度花が咲くと、枯れるまで多量の花粉を上空にばら撒き続ける。注意すべきは、あの花粉に強烈な催淫性があるということだ」

「催淫性?」

「平たく言えば、性行為をしたくなる」

「えぇっと……ニースさんとコルシカさんみたいに、ですか?」

 生後三年の少年は、性に関する知識こそあれど愛や情緒の理解に乏しい。

 そこについてもいずれ教育するつもりではいるが、まだこの子には早いとブリーナは保留していた。

「概ね認識は合っているが、仮にあの花粉を吸引した場合、そうなるより先に意識を失うな。実情は麻痺毒に近い。そうして花畑に倒れ込めば、そのまま二度と目覚めずあれらの養分になる」

 立ち込める花粉でほとんど見えないが、花の周囲は死骸だらけだよ、とブリーナが囁いた。ぞわりと背筋に怖気が走り、思わず師の顔をアウルムは見てしまう。

「そ、それじゃあ近寄れないじゃないですかっ」

「当然、無策で行けば先ほどの説明は現実になる。ではアウルム、ひとつ問おう。花粉の影響を受けずチャミカを採取するにはどうすべきか?」

 実地にいるからこそ、状況に応じた考えができるだろう。

 そう考えての師からの問題に、弟子は真剣な表情で答えを探った。

「……雨が降っていれば、花粉も舞わないですよね?」

「よろしい。まず取れる手として、雨の日に来ることだ。花粉は水に溶けやすい。川まで流れつく頃には催淫性もほぼ失われるから、川下の生物に対する影響も心配ない。よく考えたな」

「はいっ。えへへ……」

「もうひとつは、夜に来ることだ。花粉は陽の光に反応して撒かれているため、日没後なら害もない。ただし魔素灯のような『赤火』属性の光にも反応するから明かりは使えないし、夜目が利く獣にも襲われやすい。危険度を考慮すると、こちらは割に合わない手だろう」

「天気のことは考えなくてもいいけど、夜に採取するのは厳しそうですね……でも師匠、今って夜でも雨の日でもないですけど、この場合はどうすればいいんでしょう」

「今回は急いでいるからね。参考にはならないだろうが、手っ取り早く行くとしよう」

 言って、ブリーナがおもむろに一歩を踏み出した。

 そうしてアウルムは、白い霧が、桃色の霧を覆い尽くすように被さったのを見た。霧と同じ濃い桃色をした花々にも、一様に降りた霜がまとわりつく。地に落ちた死骸も全てを白く染め上げて、あれだけ広範にわたっていた毒々しい花粉は綺麗に片づけられていた。

 何事もなくチャミカの花畑に向かっていく師を、アウルムは慌てて追いかける。

 ここまで大規模に、しかも遠方で魔素を行使したにもかかわらず、全く消耗した様子がない。それでいて、近寄ってみれば他の花々には一切影響を与えていないのだから、本当に凄まじいとしか言いようがなかった。

「師匠……やっぱりすごいです……!」

「いずれはアウルムもこの程度、一人でこなせるようになるよ」

 きらきらした瞳で見上げる弟子に卒なくブリーナは返す。それから自然な動きで顔を逸らした。隠しきれない口元が、ほんの僅かに緩んでいた。

 まだひんやりとした空気が満ちる空間へと入り、アウルムはブリーナの指示で何本かのチャミカを採取していく。

「根は地下で繋がっているから、適度な長さで切断する。土はある程度払っておけばいい。そうだな……今回は二本もあれば足りるが、ストックも作っておきたい、多めに採っておこうか」

「わかりました。ちなみにチャミカは、どこが素材になるんですか?」

「おしべやめしべなら一般的な効能の媚薬だな。葉や茎はすり下ろして煎じれば滋養強壮の薬になる。根は少し効果が強い。増血剤の材料としても使えるし、媚薬としてもおしべやめしべより上のものができるよ。それと、花弁には粘液がある」

「凍っちゃってるから、そんな風には見えないですけど……」

「このまま持っていこうとすると粘液の処理が大変でね。ニースの症状を解決する薬は、この粘液が主要な材料だ。精力増強に対する鎮静剤や、避妊薬の元になる」

「全部使えて無駄がないんですね」

「その分採取が難しい素材と言われているな。ここも、実質私が占有しているようなものだからね」

 チャミカを詰めた採取袋を、ブリーナが外套の内側に仕舞った。このまま冷やし続ければ、工房に持ち帰るまで解凍されることもない。素材として使える形に加工するのはそれからだ。

 花畑も放っておけば溶けるだろう。一瞬で凍らされた花々は、陽が沈む前にはまた花粉を撒き散らすようになる。

 次に採取する時には、切除した分も生え変わっているはずだった。

「アウルム、魔薬には相性というものがある。合わせて飲めば効果が倍増したり、逆に何も起こらなかったり……中にはどちらかの薬効が過剰に増強されるような組み合わせもね」

 そう。

 つまりは、相乗効果の問題だ。

「……ニースさんは、相性が良くないお薬を一緒に飲んじゃったってことですか?」

「さて――それを確かめるためにも戻ろうか。夜はいつも通りの時間に就寝したいから、早めにな」

 街を出た直後と同じようにさっとアウルムを抱き上げて、ブリーナは微笑んだ。



 まず、チャミカの花弁から粘液を抽出し、水に溶かして煮詰める。そこにブリーナが魔素を注ぎ、馴染んだのを確認した後は一晩掛けて冷ます。翌朝、微かに色味が変わった液体を濾過することで原液が出来上がった。

 処方する対象によって濃度は調整が必要だが、ブリーナの脳内には既に案がある。今回のケースに適切な程度まで希釈したそれを、飲みやすい硝子のコップに移しておく。

 ちょうどそのタイミングで、玄関扉の呼び鈴が鳴った。師の手際を観察していたアウルムが、とてとてと応対しに行く。ブリーナも一拍遅れて、コップ片手に顔を出した。

「正に今、薬ができたところだよ」

「お、おう……マジでぴったりなんだな……」

 現れたニースは、昨日と変わらず腰に何重も布を巻いていた。ここまで来るのに奇異の視線を避けたかったのだろうが、どちらにしても不審がられただろうな、とブリーナは思う。もっとも、ギンギンに勃起した股間を見られるのとどちらが良いか、という話だが。

「ほらアンタ、センセから受け取りな」

「わかってるって。マレフィカ先生、早く飲ませちゃくんねぇか」

「無論、そのためにこれを作ったのだが……」

 敢えて見せつけるようにコップを掲げてから、ブリーナはニースの隣に視線をやった。

 わざわざ夫の付き添いで来たコルシカは、目を合わせると一瞬だけ硬直する。それは以前、値切り交渉を打ち切ったことで委縮されているからかと考えていたが、今回に限っては違う。

「コルシカ。何か、告白すべきことがあるのではないかな」

 なるべく平易な、責める色を排したブリーナの声に、コルシカは目を見開き、苦笑し、申し訳なさそうに頬を掻いた。

「……はー、やっぱ霜の錬金術師様は全てお見通しってわけさね」

「私も確信が持てたのは今朝だよ。しっかり眠ると考えもまとまるものだね」

「あの、師匠……ニースさんの勃起が治まらないのは、コルシカさんが原因ってことなんですか?」

 全く状況を飲み込めていないニースを見て、師の隣についていたアウルムが話を進める。

 愛弟子の疑問にブリーナは頷き、トンと足で床を叩いた。彼女の胸あたりまでおもむろに氷柱が伸び上がり、宙に差し出したコップをその場に固定する。

「半分はその通りだ。ニースはここで精力剤を購入し、一昨日の晩に飲んだ。が、実際はもうひとつ、別の薬を摂取していた」

「……あっ、魔薬の相性……相乗効果で、精力剤の効き目が強くなり過ぎた?」

「大変よろしい。アウルムの推測は正しいよ。コルシカ、君はここで、ニースとは別の精力剤を購入したね?」

「まあね。王都では『老人でも四〇は若返る! 晩年のお世継ぎ問題にぴったり!』だなんて言われてるヤツだったよ」

「それは委託先の商家が勝手につけた売り文句なのだが……コルシカの薬は、ニースのものより効能が高い。それに加えて、素材にチャミカの根が混ざっている。これは増血剤にも用いられるものでね、飲み合わせ次第では血が増えて集まり過ぎることがある」

 ニース以外の視線が、彼の布越しの股間に集中した。

「いやでもよぉ、そんな薬、俺は飲んだ覚えなんてねぇぞ……?」

 慌てて身を捻り、両手で股間を隠しながらニースが反論する。

「それはそうだろうね。最初からコルシカが相談していれば、今回の問題も起きなかったはずだよ」

「んん? そいつぁどういう……」

「……あ、アタシが悪かったんだよ! ほら、アンタ一昨日まで大口の仕事にかかりっきりで……いろいろ溜まってるだろうし、アタシも日が空いた分、その、欲求不満でさ。それで、夜に飲んでた水に、こっそり薬を混ぜたもんだから」

「だからニースさんは、二種類の精力剤を飲んじゃったんですね……」

「まあ、もっとも、普通にそれらを摂取しただけなら丸一日以上効果が持続することもないはずなのだがね」

「えっ? 師匠、それじゃ話がおかしくなりませんか? ニースさんはちゃんと用法用量を守ったんですよね?」

「アタシだってちゃんと聞いた通りの量しか入れなかったよっ」

「だから先ほど、半分はその通りだと言ったわけだ。もう半分の問題は、薬の作成に使った中和剤の方にある」

 ニースとコルシカの夫妻は、ブリーナの言葉に首を傾げる。

 しかし、アウルムだけはそれがどういう意味なのかを正確に理解した。理解できてしまった。

 発作的に口を開こうとして、直後手のひらで優しく塞がれる。

 見上げた隣、蒼銀の髪を揺らす師匠がウインクをしてみせる。ここは私に任せたまえ、と。

「たまたま質の良過ぎる中和剤に当たったようでね。こちらの想定よりも効果が強まってしまったのだろう。……話をまとめれば、不幸が重なって起きた事故、ということになるか」

「……そう言われりゃそうかもな。別にコルシカだって、悪気があってやったわけじゃねぇもんな」

「とはいえ、薬の複合摂取は場合によって命にも関わる。改めて、用法用量はしっかり守り、ああいった薬を使用する時はお互い相談を欠かさないこと。でなければ君たちへの販売を止めることも考慮しなければいけなくなるからね」

「ああ、反省するよ。センセ、一昨日みたいなことは二度とやらない。約束するさね」

「俺も……いや、別に俺はあんま悪くねぇ気もするけど……あ、はい、気をつけます」

「よろしい。ではニース、鎮静剤を渡そう。一〇分ほどで効果は表れるよ」

 揃って頭を下げた夫妻に、ブリーナは氷柱を解除し、コップを差し出す。

 慎重に両手で受け取ったニースが一気飲みして、空になったコップは駆け寄ったアウルムが受け取った。

 そうして挨拶もそこそこに、何だかんだで仲睦まじい二人が帰っていく。

「……ごめんなさい、師匠」

 玄関扉が重い鈴の音と共に閉じてから、アウルムはしょんぼりとした表情でブリーナに謝った。

 中和剤の件だというのは、わざわざ口にせずとも伝わった。

「アウルムが気にすることは何もないよ。『豊土』の属性がもたらす影響を読みきれなかった、私に責がある」

 体外に放出される魔素は個体差こそあれど、時間や距離に応じて色が薄まる性質を持つ。だがその一方で人族が体内で生成した魔素は、制御を離れ大気中に霧散しない限り完全な無色になることがない。薬剤の調合過程で付与した場合も、付与者の魔素色特性をいくらか引き継いでしまう。

 これがブリーナの『氷雪』ならば完成品がひんやり冷たくなる程度で済むのだが、どうやら『豊土』は素材の性質を強め、結果的に薬剤の効能まで上昇させるらしかった。

「で、でもっ」

「私は君の師だ。君の過ちは私の過ちと言える。……私を師として仰ぐのならば、アウルム、君の責任を私に背負わせてくれたまえよ」

「師匠……ぼく、早く一人前になりたいです。もっとちゃんと、師匠を支えられるように」

「無理はせずともよいのだがね。だが、かわいい弟子のお願いだ。明日からはもう少し、厳しくするとしようか」

「はいっ!」

「アウルムが作成した中和剤も、濃度や分量を調節すれば問題なく使えるだろう。外部に販売するのは危険だが……ふふ、使いどころはいくらでもある。しばらくは適切な度合いを研究するのもよいか」

「ぼくもがんばってお手伝いしますねっ」

「ああ。その時は助手として頼りにさせてもらうよ」

 ブリーナは弟子の頭に手を置き、金色の髪をくしゃりと撫でる。

 くすぐったさと心地良さに目を細めたアウルムは、ふと工房側の窓に小さな影が降りてきたのを見た。

 足に手紙を結った、長距離連絡用の伝書鳥だ。

 窓際までブリーナが近づき、手紙を解く。伝書鳥はぴぃ、とひと鳴きし、窓から飛び立っていった。

 雨天下でも決して文字が滲まない、特殊な耐水性の紙を開き、ブリーナは満足げに頷く。

「ふむ……ロンバート卿の長男が買い占めか。あまりに遊びが過ぎるようなら、手を回さなければな」

「師匠? 手紙に何か書かれてたんですか?」

「いいや、大したことではないよ。さ、アウルム、今日は新しい薬の調合を教えよう」

「はい、お願いします!」


 ――王国貴族の間で、最も敵に回してはならない者は誰かと尋ねれば、皆が決まって答える名がある。

 ブリーナ=マレフィカ……王都ではなく遠方の街ミシュレに居を構えるその女性は、王国中に出回る、あらゆる性にまつわる薬の実に九割を生産している錬金術師だ。彼女は自身が作成した商品を卸す全ての商店に、必ずふたつの事柄を厳命している。

 販売者に用法用量の厳守を伝えること。

 そして、購入者の名を定期的にブリーナへと伝えること。

 嫡子の存在が重要な意味を持つ貴族ほど、そういった薬の需要は高い。子を産むため、あるいは望まぬ出産を避けるため、彼らは絶対的な質が保証されたブリーナの商品を買いたがる。

 貴族たちにそれを求めないという選択肢はなかった。老境の男であっても子種を作れるほどの強壮剤、手軽な火遊びを確実に実現させる避妊薬。不妊を解消し、多少の下半身の緩さも許容させ得る力が、彼女の薬にはあった。

 だからこそ、彼らの欲望や思惑は筒抜けになる。

 薬に一切頼らないような一部の清廉な人物を除き、ほとんど全ての貴族はブリーナに性事情を握られている。政治に携わらない一介の錬金術師でありながら、国家さえ揺るがしかねない情報をその身に抱える氷雪の魔女。

 故に彼らは、恐怖と戦慄を以って彼女を“霜の錬金術師”と呼ぶ。

 しかし、我が子同然のかわいらしい弟子の前では、美しく凛々しく、そして優しい師匠に過ぎないのだった。

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