白百合の少女たち

しんかい(神海心一)

本文

   1


 すっかり古びて背面の塗装がかすれたデジカメを無言で構える。

 目の前には校舎の外壁に沿う形で築かれた花壇。今は水やりを一通り終え、七月下旬の生ぬるく湿った風に揺られる、よく咲いた白百合の写真を撮影しているところだった。

 カメラは私物じゃない。先輩によれば八年も前より使われている園芸委員会の備品だという。

 小中高一貫の九年間を通し、良妻賢母の教育と輩出を謳うこの女学園は、本来であれば入学に際し私立らしくとんでもない金額を要求される。生徒の九割九分が良家のお嬢様や財界の子女で構成されている女の園に、お世辞にも裕福とは言えない、どころか貧困一歩手前の一般家庭出身である私がここにいられるのは、奇跡的に今年からできた特待生枠を勝ち取れたからだ。

 学内試験での一位と、中等部全国模試での上位二〇位キープ。

 どちらか片方でも守れなかったら即退学、かつ入学費全額返済のリスクと引き換えに、在学中は学費全額免除を約束してもらっている。公立の中学校じゃ逆立ちしたって叶えられない待遇だ。幸い優秀な成績を残せるような頭で生まれてこられたので、有り難く特待生としての特権を享受している。

 でも、だからというべきか。

 正直なところ、入学して三ヶ月半が経った今でも、私は学内の空気に溶け込めていない。

「蒸し暑……」

 一旦下ろしたデジカメを花壇の縁に置き、ペットボトルの麦茶で唇を湿らせながら息をつく。他の園芸部員はいない。私だけだ。元々いいところのお嬢様が多いものだから、手が汚れるとか虫が嫌だとか陽に焼けたくないだとか、大抵の女生徒は雑な土いじりをしたがらない。私立なら業者に任せるところもあるだろうけど、花を育てる優しい心がうんぬんかんぬんみたいな話で、校舎の園芸は生徒に任せるのが伝統なんだとか。まぁ、細かい事情が何であれ、私にとっては都合がよかった。一人で、ある程度マイペースに作業ができる。花の世話をするのも好きだし、どうせ家にいたって勉強するか本を読むかくらいだ。勢い余って先輩の分も仕事を請け負ってしまったけど、夏休みの過ごし方としてはそこそこ健全で有意義だろう。

 学風が学風だからか、運動部は文化部ほど精強でも熱心でもない。わざわざ夏季休暇中にまで練習に励むところもほとんどなく、昼の学内は静かなものだった。あとこの時間帯に来るような生徒は、試験でやらかした補習組くらいなはず。

 そういえばあの子が、一科目だけ補習になっちゃったなんて嘆いてたっけ。

 つらつらと雑な思考をめぐらせつつ、カメラに撮り溜めたデータを確認する。園芸委員の活動は不人気で地味だけど、こうして撮影した写真は結構色々なところが欲しがる。それはたとえば学園のホームページだったり、保護者向けに配布される生徒の活動記録だったり、新聞部が記事のバリエーションに困ったときの穴埋めだったり。デジカメならこまめにデータの整理さえしておけば、容量に乏しい骨董品でも枚数を気にしなくて済むし、素人の私にだって一枚二枚程度はいい感じの絵が撮れてしまえる。

 手ぶれで明らかに失敗している数枚を削除してから、再びカメラを構えた。主役の花たちが綺麗に映る立ち位置や角度を探り、カシャカシャとシャッターボタンを押して離しては繰り返す。

 多年草の百合は、一度植えれば根元がダメになるまで毎年花を咲かせてくれるローコストなところも強みだ。それでいて見た目可憐で、こうして花壇に並んでいると文字通り華がある。夏休みだろうが冬休みだろうが春休みだろうが花の世話はしなきゃいけないし、もっと手間のかかる繊細な花も管理しているので、個人的には逞しくてよい子たちだと思っている。少なくとも、姦しい同級生よりはよほど接しやすい。

 黙々と撮影するのがだんだん楽しくなってきて、もう少し引いて花壇全体の写真も欲しいなと何歩か後ろに下がる。夏の暑さに頭がゆだってきてるのかもしれない。額に滲む汗をときどき拭い、立ったりしゃがんだり身体を傾けたり、ズーム倍率を変えたりと試行錯誤していると、花壇の先にある窓がふっと目に入った。

 ……確か、生物準備室植草先生の私室だったかな。

 中等部生物担当、植草純香教員。聞いたところによると、ここの先生は例外なく卒業生がしているらしく、植草先生も私たちのずっと上の先輩だ。最初の自己紹介で言っていたし間違いない。

 配属される教員には業務の円滑化を名目として、一人一人に専用の自室が与えられる。冷暖房完備、防音仕様、許可制ながら私物持ち込み有りとほとんど私室扱いだ。公立では考えられない好待遇だと思う。職員室も一応存在するけど、個室の方が色々捗るのか、大半の先生は自室で雑務をこなしているとか。わかる気もする。仮に私が教員だったとしてもそうするし。

 窓からは微かに部屋の明かりが見えた。今の時間は在室中だろうか。

 夏季休暇中は教員も基本学園に来ないらしいけど、部活の顧問と補習の担当は別だ。確か生物も何人か対象生徒がいた。モモ――私の友達、葉月百もそこに含まれていたからよく覚えている。

 正確な時間割までは知らないけど、もう正午近いし、よほどのことがなければ補習は終わっているはずだ。私がさっさと写真を撮りきれば、帰るタイミングを合わせられるかもしれない。少しだけ急く気持ちを抑えてカメラを持ち直し、腰を落とす。あと数枚、とファインダーをのぞき込む。

 そうして最後の一枚を撮影した後、私は立ち上がって花壇からカメラごと視線を上げた。先生はいるのかなと、ズームのかかった視界で、窓から室内の様子を軽く窺おうと考えた。ほんの気まぐれだった。

 思わず、息を止めた。

 人影があった。短めに切り揃えられた黒髪。植草先生に違いなかった。こっちに向けた背中……白い肌が剥き出しになっていた。

 でも。それでも、きっと先生だけなら私はさして驚かなかった。

 裸の後ろ姿の奥に、もう一人いた。

 肉眼ならはっきり判別できない距離だけど、ファインダー越しならよくわかった。その顔も判別できた。知っている。同級生なんて顔と名前くらいしか覚えてない子がほとんどだけど、私はその子をよく知っている。

 先生じゃない。生徒だ。小さな身体。つるりとした綺麗な肌。植草先生に背を預けながら、やっぱり裸で、一度も見たことないような表情で喘いでいる。

 そこにいたのは、モモだった。

 かしゃり。音が聞こえた。気づけばシャッターを押していた。慌ててカメラを落としかけ、胸元へ抱え込むようにしゃがみ、身をかがめる。情けないよちよち歩きで近くに置いていた如雨露を回収し、向こうの窓からは見えない位置まで移動して、私はようやく呼吸を再開する。

 誰もいない暗がりで、撮るつもりはなかった最後の一枚をカメラの背面ディスプレイに表示させる。錯覚じゃなかった。そこには女性教師と女生徒が裸で絡み合う絵が映っていた。

 不明瞭な感情からか、お腹の奥に微かな鈍い痛みが走る。

 心臓が、耳に抜けるほど激しい鼓動を響かせていた。



   2


 煎餅みたいな布団に寝転びながら、私は考え事に浸っていた。

「だいたい毎月このくらいの時期に来ちゃうんだよね」と、以前モモが嘆いていたことを思い出す。

 小学校の頃、保健体育の授業が何度かあった。子どもはどうやって産まれるか。男と女は肉体的にどう違うのか。ぼんやりとしかわかっていなかったことを授業で教えられて、そのとき生理の話も説明された。男にはないもの。女にだけあるもの。血が出て、子どもが産める身体になるということ。初めてそれを聞いた私は何となくでしか理解できなかったし、正直に言えば、今もまだちゃんと理解できていない。

 個人差はあれど、中学生になる前には結構な割合の子が初潮を迎えるらしい。中には高校生になるまで来ないような子もいるそうだけど、そんなの本当にごくごく一部。生理が重いタイプの子は毎月憂鬱だなんて言いながらトイレにこもったり、体調を崩して保健室に行ったりする。特に女学園ともなれば、毎日誰かしらが辛そうにしている。冗談みたいな、でも当たり前に近い光景。

 モモのそれは、殊更に重たいのだという。だいたい毎月の下旬、多少ずれたりするものの「ああ、今日から来たんだな」とすぐわかるほど表情に出る。露骨に顔色悪くなるし、むっとした感じを隠せてないし、授業中にペン先でずっと机をトントンしていて、だいたい集中できないままあとで私にノートの写しを頼んでくる。私はいつも「しょうがないなぁ」という顔をとりあえず見せるだけ見せて、その日の放課後にノートを貸し出す。一連の流れは、お決まりの儀式みたいなものだ。

 辛そうにしているモモを前にするとき、かわいそうとか、大変だよねとか、ありきたりでつまらない同情や憐憫の言葉を投げかけることはない。ただ私は一歩引いた目線で、少しだけ猫背になったモモの額とつむじを交互に見下ろしている。

 ――いいよね、莉々ちゃんは。まだ来てないんでしょ?

 それこそ毎月お決まりのように、モモは私に羨ましそうな声で言う。

 莉々。三枝莉々。私の名前。我ながら女の子らしいと思う。だけど、鈴を鳴らすような響きで私を呼ぶのは、今のところモモだけだ。

 特待生として私が入学した時点で、クラスの空気はもうできあがっていた。小中高一貫のこの学園において、同級生は基本的に十二年間変わらない。クラス替えで多少の変化はあるとしても、小等部の六年で人間関係なんてだいたい決まりきってしまうだろう。

 中等部になっていきなり外から来た私は、みんなにとって相当な異物だったと思う。たとえば良家のお嬢様は家同士の深い繋がりがあるとか、企業で提携組んだり水面下であれこれしたりするから家族ぐるみの付き合いがあるとか、いいところの子女にはそういう大人の事情も絡んでいるみたいだけど、残念ながら私は一般水準以下の貧乏庶民。彼女たちの話についていけるわけもない。

 他にもやれ何とか筋の派閥だとか、何とか家系列のグループだとか、露骨なスクールカーストも存在するらしい。伝聞なのは全部モモに聞かされた話だからで、良くも悪くも私は無縁な立場にいる。もっと言えば、モモ以外にはわかりやすく避けられている。

 入学式で特待生だからと壇上挨拶をさせられたときから、私を見る子たちの視線は常に遠巻きだった。檻の中の珍獣とか、そういうカテゴリに入れられている気さえする。同類はいない。ほとんど自分で選んだこととはいえ、姦しいクラス内で私は孤独を強いられかけた。

 そこであっさりするすると檻の中に入ってきて、珍獣に声をかけたのがモモだった。

 彼女もこの学園の生徒らしい、私でも聞いたことがある企業の一人娘だ。祖父が会長で父が社長。ちょっと話しただけでもわかるくらい、色々と価値観が違う。金銭感覚も違う。もちろん最初は一切会話が噛み合わなくて、苦笑しながら「出直します!」と逃げていったけど、次の日も彼女はめげずに話しかけてきた。正直面倒だなと思いつつ付き合っていたら、いつの間にか友達ということになっていた。恐るべきコミュニケーション強者の手口だった。

 モモは人の内面に入り込むのが上手いし、適切な距離感をはかるのにも長けていた。よく喋るのに、こっちが話すときにはちゃんと聞いてくれる。眩しいくらいの明るさも押しの強さも、割と遠慮ないスキンシップやボディタッチも、不思議と嫌味がなかった。

 そんな子だから、当たり前かもしれないけど友達は非常に多い。同級生に留まらず、中等部や高等部の先輩から小等部の子たちまで、幅広い人間関係を構築している。輪を広げるのは将来のためになるから……なんて言っていたけれど、持ち前の人柄によるところも大きいだろうな、と思う。

 はっきり言ってしまえば、モモにとって私は数いる友達の一人だ。特別な関係とか、そういうのじゃない。同じクラスで授業を受けて、教室なり廊下なりで会話し、ときどき放課後は途中まで一緒に帰り、毎日じゃないけど夜には家でLINEのやりとりをする。ごくごくまれに電話をかけたりもする。だけどお互いの家に行ったことはないし、考えてみれば遊びに出かけた覚えもない。私は土日でもほとんど勉強漬けだし、モモはモモで習い事や家の付き合いがある。私よりもっと親密で、長く時間を共有している子は少なからずいるだろう。

 それでも私にとって友達と言えるのはモモくらいだし、スマホの連絡先に入っている同級生の名前も彼女だけだ。

 だから……だから、何なんだろう。不安? 心配? 私はあの光景を、どう受け止めればいい?

 普段のモモなら補習対象になるようなミスはしない。何事も卒なくこなす彼女らしく、成績は平均より少し上くらい。なのに今回期末試験の生物科目でやらかしたのは、ちょうどその時期に生理が重なって、モモ曰く「トイレか保健室に駆け込まなかったのを褒めてほしい」ような体調だったらしいから。試験自体はちゃんと受けたものの、そんな状況で集中力を維持できるわけもなく、途中から回答欄を一個飛ばして書いちゃってもうめちゃくちゃ悔しい! と向こうからの電話で愚痴られたのを覚えている。

 仮にモモが、植草先生に……なんというか、ただならぬ感情を持っていたとして。少しでも一緒の時間を過ごしたいとか、そういう短絡的な理由でわざと赤点取るような子じゃないのは確かだ。いや、そもそも女同士だし。ありえない。ない。普通じゃない……。

 自分に言い聞かせるように心の中で繰り返す。でも普通じゃないなんて思いながら、私は普通が何なのかわからなかった。私とモモの常識は違う。入学して、知り合ってからの三ヶ月半で、これでもかってほど見せつけられた。私の知らない彼女だってきっとまだたくさんいる。植草先生の前で見せていた、あの顔みたいに。

 それに植草先生といえば、クラスでときどき聞く噂があった。気さくで親しみやすいと評判のいい人。とにかく生徒にはフレンドリーで、個人的な相談にも喜んで乗ってくれる。どころか、頼めばどんな悩みでも解決してくれるという。……たとえば、性の悩みとか。

 信憑性の薄い噂を信じるなんて我ながら馬鹿らしい。全部勝手な妄想だ。モモのことも、植草先生のことも必要以上に疑ってしまっている。あんなの見間違いだって、私の胸の中に仕舞って片づければおしまい。そうした方がずっと賢いはずなのに。

 天井のくすんだ蛍光灯に向けて、左手でスマホをかざす。写真フォルダの中には、今日撮った最後の一枚が入っていた。裸の二人。教師と生徒。昼の私室で行われていた、本当なら誰も知ることがなかっただろう秘め事。備品のデジカメには絶対残しておけないデータだけど、どうしてもそのまま消せなくて、あれこれ手間をかけて自分のスマホに送ってしまった。だから私はもう、あの光景を見間違いだと切り捨てられない。

 生理が重いだとか辛いだとか、そういうことを話すときには決まって茶化すようなニュアンスが私たちの間にはあった。でもそんなの、同年代の子ならほとんど誰だって一緒だろう。性の話題と真剣に向き合うのはどこか怖くて、恥ずかしくて、漠然とよくないことなんだって感じている。興味本位で調べたりすることもあるけど、自分が当事者になるとは考えない。ましてや女学園で生活していれば、男子と接する機会なんてこれっぽっちもないんだから尚更だ。

 モモは生理が来るのを嫌がっていた。毎月こうなると女に産まれたの損だなって思うよ、と私に漏らしたこともある。性行為。エッチ。セックス。いろんな名前がつけられたその何事かは、不気味で恐ろしいものだという共通認識を私たちは持っていたはずだった。

 お腹をさすりながら辛そうに俯くモモと、植草先生の前で見たことないような顔をしていたモモが、どうしても重ならない。同一人物のはずなのに、今スマホの画面に表示された女の子と、私の知る葉月百が結びつかないまま、頭の中でふわふわと漂い続けている。

 すっとお腹に鈍い差し込みを感じ、私は身体を横に倒しながら、むずがるように背中を丸める。ぱたんと力なく落ちた手がスマホを枕に叩きつけた。痛くはない。でも、息が詰まって仕方ない。

 薄く影のかかった画面を親指でタッチして、LINEを開いた。トークの欄にたったひとつある『葉月百』のルーム。どうでもいいやりとりの履歴は、昨日の夜で止まっている。

 メッセージを打とうとした。ひらがな並びのキーボードを出して、触れかけて、何をどう書けばいいのかわからないことに気づく。今日のことを聞くの? たまたま窓からのぞいちゃったって? だいたい聞いてどうする? あんなことやめた方がいいとか?

 私は、モモのことをどれだけ知ってるっていうんだろう。

 賢しらに何を言っても、無責任で残酷だと思えた。親指で画面の下から上にスライド。LINEを閉じる。結局一文字も打たなかったから、向こうに通知は行かなかったはずだ。

 のそりと起き上がって蛍光灯を消し、スマホの電源も切る。蒸し暑い夜、クーラーなんて上等なものは部屋にはない。最近たびたびお腹に鈍い痛みも来る。どうせすぐには寝られないけど、考え事も止んではくれないけど、朝になれと祈るように私は目を閉じた。



   3


 若干寝不足の頭に栄養を詰め込み、私が学園に向かったのは昼すぎのことだった。花壇にやる水は多少タイミングが前後しても問題ないし、昨日と同じくらいの時間に行くのは何となく抵抗があったからだ。夏季休暇に入る前からモモの補習スケジュールは聞いていて、今日は彼女が来ない日だってわかっていたとしても。

 梅雨が先週終わり、数日前からうんざりするほどの快晴が続いている。一日ぶりの土はすっかり乾いていて、如雨露で水を回しかけると貪欲に吸い取っていく。蒸し暑い直射日光を浴びつつ蛇口と花壇を何十度も往復しなければいけないんだから、夏季休暇中の園芸委員活動が不人気なのも非常によくわかる。綺麗に咲いた花々を愛でるような余裕なんて、この状況じゃそうそう持てるものでもないだろう。

 もっとも、水やりさえ済めばゆっくり花を眺めることもできる。一人の方が気楽な私にとっては、その不人気さも逆に有り難かった。

 ……この学園の中で、私は確かに異物だ。けれど、そんな環境を変えようという気概も自分にはなかった。

 元々私は社交的な性格じゃない。自覚はある。物心ついたときからそうだったのか、あるいは周囲の環境によって培われたのか、正直よくわからないけど……思い返せば小学生のときだって、私はずっと外れものとして扱われてきた。

 昨日と同じ校舎裏、植草先生の私室の窓にはうっすらと、私の上半身が映っている。

 女子らしくない高身長。制服の生地越しに強く主張する胸部。小学六年生の時点で、クラスの中では男子を含めても三番目に背が高かった。昔から運動全般はセンスがなくて壊滅的に下手だったけど、背丈も胸もどんどん大きく育って、身体だけは大人っぽくなっていって、だから男子には散々からかわれたしつっかかられた。巨人だとか胸デカ女だとか、色々言われたっけ。それをやめなよって止める女子もいれば、おっぱいおっきくていいよねーとか妬んだり羨む子、図体の大きさを怖がる子……みんなの反応は様々だった。共通していたのは、私と積極的に関わろうとする子はいなかったってことだ。

 争ったり言い合ったりして騒ぎになるのが嫌だったから、私は何を言われても黙って耐えた。冗談抜きでテストじゃ百点以外取らなかったものだから、勉強できるからってみたいなやっかみもあったのかもしれない。たぶん私は先生からしてみれば、真面目で大人しい、模範的に近い生徒に見えていたんだろう。からかいに来る子がそこそこ小狡くて巧妙だったのもあり、傍目にはクラス内に問題なんてひとつもなくて、だから当時の先生たちは私を軽い言葉で褒めるだけ。他に何も言わなかったし、何もしなかった。

 小学校で、私の居場所はどこにもなかった気がする。自分はきっと周りにとって『変な子』だった。一時はどうにかみんなと馴染めないかって試行錯誤したけれど、変な子扱いから抜け出すことはできなかった。

 三枝さんは大人だよね。クラスの女の子は口を揃えてそう言っていた。そんなことないって否定しても、逆に私がみんなに否定された。だって、三枝さんみたいに考えられないもん。三枝さんみたいに頭よくないもん。三枝さんは違うよ。違う。

 うん、そうかもねって投げやりに返したのは、いつだったろうか。

 張られた壁を乗り越えることも壊すこともできず、私は『変じゃない子』になるのを諦めた。

 この学園に入学しようと決めたのは私だ。私のわがままが発端だった。六〇分近くかかるけどギリギリ家から徒歩圏内で、特待生になれれば学費全額免除で、将来的にはいい大学にも行ける可能性が高くて……なんて両親を説得したけど、本当の理由は、あのまま同じ顔触れを見るような中学校に行きたくなかったから。もっと言えば、男子というもの自体にうんざりしていた。

 とはいえそうやって逃げてきて、結局ここでも遠巻きに見られてるんだからどうしようもない。一念発起して環境をがらっと変えて、そこでもやっぱり異物にしかなれないのなら、自分はそういうものなんだって納得するしかないだろう。

 だから私はいい。敬遠されたって、今更誰にも話しかけられなくたって構わない。けれど、モモは違う。私なんかよりたくさん友達がいて、明るくて人気者で、キラキラしている。そのままでいてほしい。綺麗な色を、くすませてほしくない。

 昨日偶然撮ってしまったあの光景が、モモにとって、もし望まなかったことだとしたら。誰かに知られたら白い目で見られるかもしれない行為を、それでもせざるを得なかった理由があったんだとしたら。

 発作的に、私は走り出した。備品の如雨露を置き去りにして、強い陽射しをかき分けるように腕を振り、必死に駆け、校舎の入口で乱暴に靴を脱ぎ捨てて、上履きに履き替える時間さえ惜しんで突き進んだ。

 そうして植草先生の私室前まで来たところで、補習日かどうかを確認していなかったことに思い至る。徒労だったかもと考えながらノックをすると、あっさり「どうぞ」なんて声が返ってきた。荒れた息を軽い深呼吸で整えてから、失礼しますと室内に踏み入る。

 初めて入った教員の私室は、想像よりもさっぱりしていた。右手には学術書や授業で使う教科書らしきものが几帳面に並べられた書棚とPCデスク。左手には小型のクローゼット、実験器具を仕舞った棚、壁に立てかけられたコルクボードとピン留めされた数枚のメモ書き。さらに奥にはそこそこ大きいサイズの水槽があって、何か小魚のような複数の影が元気そうに泳いでいる。

 私室っていうくらいだから、もっと好き放題に物を置いてるのかなと思っていたけど。

 最低限に近い内装だ。完全に実利優先で、生活感はほとんどない。

「今日は生物の補習日じゃないけど……君は?」

「一年の、三枝です」

「三枝……ああ、確か中等部からの特待生の子がそんな名前だったね」

 さっきまでPCで雑務でもしていたのか、デスク前で相当高そうな椅子に座ったまま植草先生が頷く。室内に飾り気がないのに、よく使うだろう椅子だけはやたらシステマティックなあたりも実利性重視の性格が垣間見えた。

「昨日も見かけた覚えはないけど、君が補習対象……というのは有り得ないな。だとしたら夏休み前に退学勧告を受けているはずだし。なぜ学園に?」

「園芸委員なので。夏季休暇中でも花壇の水やりが仕事なんです」

「なるほど。職員を雇う予算くらいあるだろうに、あの叔母は昔からそういうところで生徒を使いたがる」

「叔母?」

「学園長のことだよ。歳はだいぶ離れているけどね」

 苦笑しながら植草先生が椅子から腰を浮かせる。そうやって立つと、私ほどではないにしろ身長の高さがよく目につく。すらっとした無駄のない体型で、足が長くスタイルもいい。中性的な面立ちと口調も相まって、良くも悪くも学園内では映える人だ。クラスメイトが結構な割合でかっこいいよねー、なんて熱を上げていたのを思い出した。

「しかし、そうなると何の用事かな。今更授業の内容でわからないことが、というわけでもないだろう?」

 私の前まで歩き寄り、少しだけ見上げるようにして植草先生は尋ねてきた。

「……昨日」

 ここまで半ば衝動任せで来てしまったけど、一度踏み込んだからには手ぶらで帰れない。

 覚悟して、その顔を見返す。

「モモ……葉月百が、ここに来てませんでしたか」

「来ていたよ。それがどうかしたのかな」

「私、窓から見たんです。いえ、のぞこうとしたんじゃなくて、偶然だったんですけど……モモと先生が、裸で、くっついていたのを」

 おや、というように目を開いて。

 植草先生は小さく口元を緩めた。たぶんそれは、笑みだった。

「そこの窓、のぞき込むには少し高いはずなんだけど……まぁ、君の身長なら容易か。外にいたのは、園芸委員の仕事?」

「はい。ちょうど窓の外に花壇があるので」

「ああ……そういえばそうだった。疲れたら気分転換に眺めたりしてるよ。百合が植えてあるんだったね」

 いやいやまさか、誰かに見られるなんて想定もしていなかった――なんて。

 あっけらかんと白状しながら、植草先生は部屋の奥に移動し、そこから折りたたまれたパイプ椅子をふたつ持ってきた。

 両方を開き、向き合わせる形で並べ、立ちっぱなしも何だしとりあえず座って、と私に促してくる。

 言われるまま腰を下ろすと、今度は実験器具の並ぶ棚になぜか入っていたマグカップを取り出した。

「コーヒーは飲める?」

「え? あ、はい、砂糖があれば飲めます」

「スティックシュガーならあるよ。できたてじゃなくて悪いけど、冷めてはいないから」

 水槽よりも奥の窓側には、明らかに私物らしきコーヒーメイカーがあった。左手でふたつのマグカップを持ったまま、右手でサーバーの取っ手を掴み、器用にコーヒーを淹れる。保温機能がついているのか、注がれた液体はふわりと湯気を上げていた。

 渡されたマグカップにスティックシュガーを流し入れ、同じく渡されたティースプーンでよくかき混ぜてから「いただきます」と口をつける。久々に飲んだコーヒーは、苦くて甘い。

 植草先生は私の向かいに座り、静かにこっちを観察していた。

 なんだかずっとペースを握られているようで落ち着かず、両手でマグカップを抱えてじっと睨む。

「そう怖い顔をしないでほしいな」

「……ならどんな顔をすればいいんですか」

「笑顔でいてくれるのが一番だけど、難しいだろうね。ひとまず話を聞くまでは睨まないでいてくれると助かるかな」

「それは、昨日のことをちゃんと話してくれるって意味ですか?」

「話せる限りはね。ただ、まず誤解しないでほしいんだけど、誰にでもああいうことをしてるわけじゃないよ」

 思ったよりずっとストレートに認められてびっくりした。恥ずかしがりも、誤魔化しもしない。

 つまりこの人は、モモとの行為を、少なくとも悪いことだとは思っていない。

「だ……誰にだって、するべきじゃないと思います」

「どうして?」

「どうしてって……」

 咄嗟の言葉は出なかった。だって私はまだ、それがどういうものなのかをちゃんと知らない。

 子どもとは縁のない、不気味で恐ろしい何事かであるという認識しか持っていない。

 どこかで大人が言っていたように、ただぼんやりとよくないことだって思って、怖がって、遠ざけているだけ。

 それをたぶん、植草先生は見抜いていた。

「今更伏せる必要もないから、ここははっきり言っておこうか。確かに私は、葉月百さんと性的な行為に及んだ。三枝さん、君が昨日見た通りだ」

「……はい」

「詳細までは話せない。別に私はカウンセラーじゃないけど、相談してくれた子のプライバシーは守りたいからね。ここで言えるのは、葉月さんが今回生物科目の補習対象者で、補習試験後に悩みを聞いてほしいと相談された。昨日したことは、その悩みを解決するための確認みたいなもの……ってくらいだよ」

「先生が、強引に迫ったわけじゃない?」

「もちろん。そんなことしたってお互い不幸になるだけだしね」

「お……女同士でああいうことをするのに、抵抗はないんですか?」

「ないよ。そもそも私の学生時代はもっとすごかったからね。こじらせて男性とは結婚できなくなった人もいる。私はさすがにそこまでじゃないけど、性のパートナーは異性でなければならない、とは考えてない。たとえば誰かを好ましく感じて、一緒に楽しいことをしたい、気持ちよくなりたいと思ったなら、あとはリスクの問題だ。社会的にはマイノリティかもしれないけど、自分に嘘をつくのもそれはそれで辛いものだろう?」

「そう……かも、しれませんけど。モモが、先生と同意の上で……してた、なんて」

「信じられない?」

 首肯する。モモはそんなことしないって、私は思っていた。

 勘違いだったんだろうか。私がモモのこと、理解できてなかっただけなのか。

 この学園に入った私が本当の意味で一人にならず済んだのは、間違いなくモモのおかげだ。モモに救われた。嬉しかった。遠巻きに見られたり爪弾きにされたり、それをしょうがないってずっと諦めてきたけど、現実を認めても寂しく感じる気持ちはなくせない。誰かと気兼ねなく話したかった。そばにいてほしかった。わかってほしかった。

 胸の奥から湧き出る欲求を、ずるいとも、浅ましいとも思う。

 モモはそんなふうに、一度も私を求めてこなかったから。

「……君たちの関係が壊れるのは、私にとっても本意じゃないからね。ひとつ約束しよう。葉月さんとああいった関係を継続する気は、少なくとも私にはないよ。そしておそらく、彼女にもないはずだ」

 焦燥とか、苦悩とか、そういう感情がわかりやすく顔に出ていたのか、私の様子を見ていた植草先生がはっきりした声で言った。

「その約束を破ったら、どうしますか」

「学園長に私の罪状を訴えてもいい。半分コネで教員になったけど、問題が大きくなったら叔母も容赦なく私を切るよ。仮にそうなっても、葉月さんたちの名前は絶対に出さない。これでも尊敬される先生を目指してるしね」

「……たち?」

「あっ……この話、他の子には内密にね?」

 もしかしなくてもこの人、モモ以外にも手出してるんじゃ……。

 一瞬本気でまだ結構熱いコーヒーでもぶっかけてやろうかと思ったけど、約束だって口にしたときの声色と表情からは本気さが感じられた。いろんなことがまだ信じられない。それでもひとつだけ、植草先生を信じることにする。

 残りのコーヒーをぐっと飲み干す。少しだけ舌と喉にひりつきが走ったけど気にしない。

「……いきなり押しかけちゃって、すみませんでした。コーヒーとお話、ありがとうございました」

「また相談したいことがあったらいつでもどうぞ。あ、椅子とマグカップはそのままにしておいていいよ」

 テーブルに置いたマグカップの底には、溶けきらず茶色に染まった砂糖が溜まっていた。

 砂利のような粒を噛み砕きながら立ち上がる。花壇に戻って如雨露を片づければ、今日はもうお役御免だ。

 失礼しますとお辞儀をして、植草先生の部屋を出る。

「葉月さんと、仲良くね」

 そのとき去り際に聞こえた言葉が、やけに耳に残っていた。



   4


 昼のほどよくざわついた駅前で、私は改札の方を向きながら立っている。

 発端は昨日夕方にLINEで来たモモからの連絡。『補習でノート切らしちゃったから買い物付き合って!』なんて唐突にメッセージが飛んできたものだから、いきなりの誘いにちょっと困惑したのを覚えている。

 考えてみれば、二人で休日に会うのははじめてだ。

 だからというべきか、微妙に気持ちが急いてだいぶ早めに家を出て、集合場所の駅前に着いたのは約束の三〇分も前だった。モモはいない。まぁ、普段から絶対遅刻はしないけどきっちり五分前到着みたいな感じだし、今日もそれくらいになるんだろう。

 改札を行き来する様々な人をぼんやり観察していると、約束の一〇分前、小型のトートバッグ片手に割と気合の入った私服を着た、明らかに見覚えのある子が現れた。軽く周りに視線をめぐらせ、こっちに気づいてすたすたとまっすぐ歩いてくる。

「莉々ちゃん、久しぶり! 終業式以来だよね」

「うん。LINEでほぼ毎日話してたから、あんまりそんな感じしないけど」

「そうだけどぉー。っていうか、もしかして待った?」

「ちょっとだけ」

「えー、ここは今来たところって言ってくれないと! そしたらわたし、デートみたいだねって言うから!」

「女同士なのにデートっていうのかな」

「二人でお出かけするんだから、デートって言っていいと思うな」

 ころころと笑うモモが、当然のように私の手を取って引いた。

「まずはノート買いに行こっ。莉々ちゃんは買うものある?」

「特にないよ。シャーペンの芯もノートもまだ保つし」

「じゃあわたしの分だけだね、すぐ済ませて喫茶店でゆっくりしよっか」

 その言葉通り、最寄りのお店でモモは迷わず目的を果たし、私の手を引いたまま小洒落た喫茶店に入った。

 濃いコーヒーの匂いが漂う、落ち着いた内装。自分だけだとこういう場所に来る機会は全然ないから、少し気後れしてしまう。

 店員さんの案内で四人用のテーブル席に向かい合って座る。モモが開いたメニューを一緒に見るけど、一番安いブレンドコーヒーが下手なコンビニ弁当より高くて「うわ」と思わず声が漏れた。

「……私、お冷だけでいいよ」

「いやいや莉々ちゃん、連れ込んだのはわたしだし、ここは奢るから遠慮なく頼んで!」

「でも悪いし……」

「最初からそのつもりだったんだって。ここまで付き合ってくれたお礼ってことで、ね?」

「……なら、ブレンドで」

 小声で答えた途端、モモは店員さんを呼んでぱぱっと二人分のブレンドを注文する。これ以上有無を言わせない勢いだった。

「えへへ、ごめんね。莉々ちゃんこういうの遠慮がちだから、今日は強引に行こうと思ってました」

「もう……ありがとう。ごちそうになります」

「うん、感謝するがよいぞ」

 冗談めかして胸を張る姿に、私は堪えきれず小さく笑う。

 それから店員さんがブレンドを運んできて、私とモモは揃ってカップに砂糖を入れて、くるくる混ぜて。

「なんかね、莉々ちゃんの顔、急に見たくなっちゃって」

「それで買い物行こうって?」

「だって夏休み入って、こんなに会わなかったことなかったんだもん」

「まだ二週間も経ってないでしょ」

「一週間も離れてたらじゅうぶんだよー」

「習い事とか、今日は平気なの?」

「夕方は予定入ってるけど、それまで時間あるし。やっぱりお喋りはこうやって直接会ってした方が楽しいから」

 そうだね、と同意する。

 写真に残してしまった光景と、昨日植草先生に言われたことが一瞬頭をよぎった。

 葉月さんと、仲良くね。

 そんなの言われなくたって、するに決まってる。

「……補習はどうなの? 予定通り終わりそう?」

「へーきへーき。植草先生教えるの丁寧でわかりやすいし、そもそもわたしの成績なら、試験で体調管理ミスってなければ赤点取るようなこともなかったしね。あと一回簡易試験片づけば無事完了です」

「ならよかった。モモはそんなおバカじゃないもんね」

「むむ、ひどい言い草ー。そりゃ莉々ちゃんと比べたらだいぶ下だけどさー」

「私は特待生なんだから、モモに抜かれちゃったら条件不履行で退学だよ」

「確かに、在学中は学年一位キープしなきゃいけないんだもんねぇ。うんうん、引き続きがんばりたまえ」

「そっちこそなんて言い草だ」

「あははっ」

 こうしてちゃんと顔を合わせて話すと感じる。明るくて、キラキラしてて、一緒にいるのが心地良い。

 もしかしたらモモは、私が人生ではじめて友達と言える相手なのかもしれない、なんてことさえ思う。

「莉々ちゃんは夏休み、遠出とかしないの?」

「予定はないよ。お父さん仕事で全然休み取れないし、お母さんも病院通い長いし、お金もないし。成績落とさないためには勉強も欠かせないからね」

「特待生って大変だね……。わたしは八月に家族で海外行くから……一緒に行けたらいいのに」

「家族団欒を邪魔する趣味はないから。楽しんできて」

「ありがと。莉々ちゃんにもお土産買ってくるね」

「そっちは楽しみにしてる」

「……ところで莉々ちゃん、夏休みの課題は?」

「もうすぐ終わるよ」

「早すぎー! 真面目にもほどがあるよ!」

「だってあんまり後に残したくないし。そういうモモは?」

「お盆くらいまでには終わるようにスケジュール組んでるけど……もしわたしが苦戦してたら助けてね?」

「してたらね」

 こういう他愛ない、どうでもいいような話をするのが楽しかった。

 笑って、泣き真似して、怒るふりして頬を膨らませて、ころころ表情を変えるモモを見ているのが楽しかった。

 私は確かに、モモのことを全部知ってるわけじゃない。けれど友達だからって何もかもさらけだせるとか、そこまで重たい関係を求めるのは筋違いだ。

 わからないことがあったっていい。私に話せない気持ちや悩みを抱えてたって……よくはないけどしょうがない。

 友達として、葉月百という子が好きだから。来年も、再来年も、高等部に上がっても、学園を卒業しても、今の関係が続けばいいなって思うから。

「……あのさ、モモ」

「なになに、どうしたの莉々ちゃん」

「今日は、誘ってくれてありがとう」

 気恥ずかしくて少し顔を逸らしながら伝えると、モモは珍しいものを見たような顔をした。

 その態度は釈然としないけど、どうせなら最後まで言おう。

「私も……モモとはちゃんと、顔を合わせて、話したかったから」

「そっか。じゃあ、おそろいだ」

 視界の端っこでモモが笑った。なぜかほんのちょっとだけ切なそうだった。どうしてだろう。いつも通りの笑顔なのに。

 気になってもっとしっかり顔を見ようとして、不意にくっとお腹が痛んだ。まただ。近頃多い感覚。

 だけど今回は痛むだけで終わらなくて、おへそのあたりから、何か熱のかたまりが下りていくのを感じた。私はぎょっとして、壁側に寄りながら右手でホットパンツをかき分け、下着まで指を差し込む。生温かいねばりがクロッチに貼りつき、そっとテーブルの下で引き抜いた指には赤黒い粘液がまとわりついていた。

「莉々ちゃん、何かあった?」

「……来たかも」

「え?」

「生理」

 それは私の、あまりにも呆気ない初潮だった。

 正面に座るモモが弾みで声を上げかけ、自分で自分の口を塞いだ。

「ちょっ、ちょっと、前兆とかなかったの!?」

「いや、最近ちょくちょくお腹痛いなとは思ってたんだけど、ストレスで胃でも荒れてるのかなって……」

 正直まだ自分とは縁遠いものだという意識でいたから、全く何の準備もしていない。一周回って落ち着いた私を前に、モモは小声で器用に叫びつつ、慌ててトートバッグから何かを取り出した。

「とりあえずわたしのナプキンあげるから、指拭いて、下着に敷くようにしてっ」

「う、うん」

 テーブル下で手を出し合い、ごそごそと受け取りを済ませる。指の粘液を拭い、下腹部にナプキンを仕舞い込むと、ねばついた気持ち悪い感触が和らいだ。

「あとはトイレで処理! わたしも付き合うから!」

 言われるままに引っ張られ、店のお手洗いに入り、空いていた個室に二人で収まる。モモは下まで脱がそうとしてきたけど、さすがにそこは自分でできる。大量のトイレットペーパーと数枚のナプキンを犠牲にしてしばらく、ようやく暫定的な処理が終わった。

 応急処置済みの下着を穿き直し、深い溜め息をつく。

「……モモは毎月こんなことしてるの?」

「してないから。いくらタイミング悪いとはいえ、無防備すぎる莉々ちゃんが悪いよ……」

「ごめんね。色々してもらっちゃって。……下着まで脱がそうとしたのはちょっとまだ許してないけど」

「あ、あれは緊急だったからわたしも慌ててたの!」

 他にトイレには誰もいないのを確認してはいたけど、二人でいるには狭い個室で、声をひそめて言い合って。

 一段落したらそれがたまらなくおかしくて、顔を見合わせてくすくす笑う。

 そして、モモは私に言った。

「おめでとう、莉々ちゃん。大人に一歩近づいたね」

 ――ああ、そっか。

 大きいだけで子どもだった私の身体は、ようやくモモに追いついたんだ。

 さっきまでの慌てぶりなんてなかったかのような振る舞いで私たちは席に戻り、手早く会計を済ませた。誰にも気づかれてないんだとしても、あのまま居座れる度胸は少なくとも私にはない。

「モモ、時間は?」

「まだ大丈夫だから、莉々ちゃんの生理用品買いに行っちゃおう。また夜とかに来るかもしれないし、サニタリーショーツなんかもあると便利だよ」

「サニタリーショーツって?」

「生理用の下着でね、ナプキン挟めるようになってるの。周期がわかるようになってきたら、その時期にだけ穿いてればいいから」

「ふうん……あ、でも今手持ちほとんどないんだけど……」

「どれどれ……確かにこれだと厳しいなー。うん、よし、わたしが貸してあげる」

「いや、悪いよ。帰ってお金取ってくるから」

「いいのいいの、今度返してくれれば。ほら、そしたらまた近いうちに遊べるし、そのついでって感じで」

「……ふふ、わかった。有り難くお借りします。帰ったら予定聞かせて、合わせるから」

「やったー! 莉々ちゃん大好き!」

 腕に抱きつかれながら、モモが私を薬局の方へと連れていく。

 お腹にはまだ違和感があるし、これが毎月のように来るとなると、なるほど確かに恐ろしい。でもモモも一緒なんだって思えば何とかなる気がしてくるから不思議だった。

 男にはないもの。女にだけあるもの。血が出て、子どもが産める身体になるということ。

 ずっと私が目を背けていた性の始まりを、彼女は嫌な顔せず受け入れて、手伝ってくれている。

「モモがいてくれて、本当によかった」

 帰ったらあの写真を消そう。忘れることはできないけど、もう何も聞かない。友達のことを、私は信じる。

「わたしもだよ」

 隣でモモはそう返した。顔は見えないけど、きっと笑っているんだと思った。

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