振り向いてはいけない
和來 花果(かずき かのか)
1
学校の昇降口で、上履きを美環高校指定のローファーに履き替え外に出ると、冷たい風が吹き付けてきた。紺色のブレザーの中で自然に体が縮こまってしまう。制服が夏服から冬服に変わったのはつい先月のことなのに、もう肌寒いを通り越している。
「今年は冬が早いんだって」と、私の心を読んだみたいに、
「寒いし、もう暗いもんねぇ」と相槌を打つ。
校門を出て、紗那と並んで歩く。登校する時には見えるクリーニング店の看板が、もう見えない。あたりが暗いせいだ。今は、夜のとばりが降りる速さに、街灯が灯るのが追いつかない、ちょうど隙間の時間帯なのだ。
「早く電気を付けてくれればいいのにねえ」とつい昨日と同じ文句がぽろりとこぼれ落ちる。
この時間が、私は一番嫌い。「暗いと怖い」単純だけど、それは動物の本能だと思う。
暗くなる前に帰りたいのは山々なのだが、特別進学コースの私たちは、一時限目の前に、0《ゼロ》時限目という授業がある。そして授業の終了は、他のクラスは六時限までだけど、私たちは七時限だ。さらに七時間目の後に、「自主」学習という名の、強制的自学時間まであるのだ。
当然、部活動には入っていないが、それでも帰る時間は、部活動組よりも遅いほどだ。
「ひな、英文の暗唱はどこまで進んだ?」
「今日はなんとか、一つ合格した。紗那のおかげだよ。本当に英文を覚えるの、苦手。紗那はサクサク覚えられて、いいなあ」
分厚いテキストの英文を覚えて、先生の前で暗唱する。合格すると次の英文に進んで、また覚える。私はこれが苦手だ。毎日英文の暗記だけに一時間は費やしているというのに、進行速度はクラスでも下の方だ。自分の記憶力に嫌気がさして、恨みがましい気持ちが声に交じってしまったのかもしれない。
「覚えるのは得意だから」と、紗那はちょっと困ったように首を傾げた。
「あっ、ごめんごめん。愚痴っぽかったね。勉強方法、教えてもらってホント、感謝してる! 紗那がいなかったら、私はクラスでビリだったかもしれないもん」
慌てて胸の前で手をぶんぶん振った。紗那に感謝しているのは、本当の気持ちだ。羨ましいと思うことはあるけれど、私からみてなんでも「持ってる」紗那を、妬む気持ちは全くない。
「紗那はすごいなぁ。テストのヤマだって皆に教えてあげて。抜かれたら嫌だ、とか順位が下がったら嫌だとか、思わないの?」
特別進学コース、略して特進コースは学年でもたったの一クラスしかない。勉強をするためのコースだから、自分で言うのもなんだけど、勉強が出来る子達ばかりが集まっている。だから、紗那を含めた数人が飛び抜けている以外は、皆どんぐりの背比べだ。私を含めて。
「私なら、ここが出る! と思ったら、黙っておくけどなぁ」
そんないつわらない本音を言えるのは、紗那だからだ。紗那は私のブラックな部分を、軽蔑したり誰かに漏らしたりしない。
「だって、特進コースは推薦をもらえないんだから、成績なんて関係ないじゃない」紗那はくすりと笑った。
「そうなんだけどね……」
特進コースは学校の推薦をもらえない。受験してなるべく偏差値のいい大学に合格するのが、学校から課せられた使命なのだ。成績は受験に関係しないのに、ついこだわってしまうのは、もう習性みたいなものかもしれない。うつむいて、足元にあった石ころを蹴る。成績にこだわる自分がちょっぴり恥ずかしかった。うつむいた私の頭の上から、紗那の声が降ってきた。
「私は、ひなが羨ましいよ」
その声がひどく遠く聞こえて、顔を上げた。ちょうど緩やかなカーブに差し掛かったところだった。後ろから車が走ってきて、私たちを追い抜いていく。同時に、私たちは車のライトに照らされて、いくつも出来た影が、後ろから前に、ぐるっと円を描いて、まるで走っているみたいに、私を追い抜いた。
「どうして?」と、紗那の後姿に問いかけた。勉強も容姿も、性格もいい紗那が私を羨ましいと思う要素が見つからない。
紗那は振り返らずに、後ろ手に手を組んで、空を見上げた。
「だってね、ひなは学校の先生になりたいんでしょう?」
紗那が話している間にも、私たちの横を車が通り過ぎ、そのたび新しい影が生まれて、どんどん追い抜いては消えていく。
「あー、うん、なれたらね」と曖昧に頷いた。学校の先生になる、というのは、小さい頃からの私の夢だけれど、あまりはっきり言うのは照れくさい。
「ほら。がんばったら、ひなは学校の先生になれるじゃない。私は別に、なりたいものってないから、がんばる意味がないんだよね。いっそ何も考えずに、行き先も知らずに、こんなふうにただ付いて行く方が楽かもしれないなぁ」
紗那は追い抜かしていく影を指さした。その後ろ姿が、頼りなく揺れているように見えて、不安になる。
「そ、そんなこと! 紗那くらい、勉強ができたら、どこの大学だって行けるし、そうしたらなんにでもなれるじゃない!」
思わず必死に訴えると、ククッと紗那の笑い声がして、背中が震えた。
「うん、そうだね。ありがとう」
紗那はそういって、カーブを周りきってから、ゆっくりと振り返った。
「紗那、疲れてる?」
紗那は微笑んでいるのに、どこか希薄な気がして、聞かずにはいられなかった。紗那はほんの少し、目を見開いてから、ふっと優しく細めた。
「平気。ひな、ありがとう。」
紗那はそう言ってくれたけれど、いつもと違う笑顔が、牛乳を飲み干した後のコップの底にくっついた白い澱みたいに、私の胸に残った。
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