机上の極論
竜王宮リノ
前編
「三組のサシハラって知ってる?」
「サシハラさん?」
「いきなりどうした?」
放課後の教室。西日に照らされた橙色の空間に残っているのは三人の生徒だけだった。
「いや、ちょっと聞きたくてさ」
「テニス部の人ですよね。ヒナさんと同じ」
「ああ、あの童顔の。……ヒナ。そこ、間違ってる」
「え、うそ」
三人の前には小さな島のようにつなげられた机。その上にはノートや教科書、参考書が所せましと並べられている。
「三角形ABIと三角形FDIは相似だろ。だから、AB:FD=2:1」
「ホントだ。さすがだね、サクラ」
「基本だろ。ヒナがわかってないだけ」
ヒナはそっかなぁ、と頭を掻く。その小麦色の腕が眩しい。
「やっぱり勉強じゃサクラには勝てないなぁ」
「むしろヒナが勝っているのなんて運動神経ぐらいだろ」
なにを、とヒナが口をとがらせる。
「カラオケでも勝てるよ。サクラよりは上手」
「童謡ばっか歌ってるくせに何言ってんだ。流行りの歌の一つでも覚えてこい」
「サクラだって。変な英語の歌ばっか歌ってさぁ。あれ、意味わかってないでしょ。音程もずれてるし」
「馬鹿。ロックってのはああやって歌うんだよ」
ヒナがわざとらしくため息をつく。その仕草にサクラの眉がピクリと動く。
「試験が終わったら、カラオケ行こうぜ。どっちが高得点出せるか勝負だ」
「いいよ。負けた方がファミレスおごりね。ユズキも来ない?」
「私はやめておきます」
一人黙々と勉強に取り組んでいたユズキが答える。そっけない態度にヒナがえー、とぼやく。
「なんでー? ユズキ、上手いじゃん」
「私は勝てるかわからない勝負はしません」
「負けるのが怖いんだろ。やーい、腰抜け」
その言葉にユズキは顔を上げる。眼鏡がキラリと光った。
「何とでも言ってください。――ところでサクラさん。古文の書き取りが進んでいないけど?」
「あーあー。聞こえなーい」
サクラは両耳を塞ぎ、頭を振り回す。ただでさえ着崩された制服が一層乱れる。
「古文なんて生きる上に必要なーい!」
「わかるー。数学も必要なーい!」
「国語の問題なんて、全部マンガでいーじゃん!」
「部活がんばってるからいーじゃん!」
「さて、と」
ユズキは席を立つ。
「真面目にやらないなら、帰ります」
「「待って、待って、ユズキさん!」」
立ち上がったユズキを二人が引き留める。ユズキは眼鏡の奥から二人に冷ややかな目を向ける。
「二人は次の試験で赤点を取るとマズイんですよね。違いますか?」
「「はい」」
「だから私に勉強を教えてって頼んできたんですよね」
「「はい」」
「それなのに、ふざけるんですか? 本当に助けてほしいんですか?」
「もうふざけません」
「助けてください」
「では、続きをやってください。わからなければすぐ質問すること」
二人は元気なく答え、ノロノロとノートに向かう。
「どうしてすぐにふざけだすんですか、あなたたちは」
「あれだよ。箸が面白いとか何とか」
「『箸が転んでもおかしい年頃』。二人には縁のない言葉です」
「シャーペンでもやってみようぜ。そーれ、コロコロー」
「わぁ、面白い! コロコロ―」
二人のシャーペンをユズキがむんずと掴む。
「黙ってやりなさい」
「「はい」」
二人はおとなしく勉強に戻る。
「それで?」
「え?」
英単語をノートに書き写しながら、ユズキがヒナに聞く。
「さっきの話です。サシハラさんがどうしたんですか?」
「いや。なんか怪しいんだよ」
「怪しい?」
サクラも気になったのか話に加わる。
「最近、部活の後にスマホを見てんの。みんなとの会話に加わらないでさ。なんかニヤニヤしてるし。二人ならなんか知ってるかなって」
首をかしげるヒナを前に、サクラとユズキは顔を見合わせる。
「それって――」
「恋じゃない?」
「コイ?」
ポカンとしているヒナに、サクラは指を突き付ける。
「れ・ん・あ・い!」
「う、嘘だー!」
ヒナは叫びながら立ち上がる。
「あのサシハラが? 恋に興味ないって顔してたあのサシハラが!」
「人は気付かないうちに大人になるもんよ」
知ったような口を利くサクラの隣で、ヒナはがっくりとうなだれる。その背中からは悲壮感が漂っている。
「えっと、ヒナさん?」
「――恋をしよう!」
ユズキの声を押しのけるようにヒナの身体が跳ね上がる。
「サシハラに負けてらんない! 恋をするんだ!」
「へぇ。ヒナにしては良いこと言うじゃん。で、相手は?」
え、とヒナが固まる。
「街とか、練習試合で……」
「今まで声を掛けられた?」
「……無理でした」
うわーん! とヒナが机に突っ伏す。
「サシハラばっかりずるいー!」
「諦めるのはまだ早い。もっとも身近な可能性がある」
「身近って、どこ?」
サクラの言葉にヒナが顔をあげる。
「この学校で見つける!」
「え?」
その言葉に反応したのはユズキ。
「この学校で、ですか……?」
「そっかあ、さすがだね、サクラ!」
ヒナが目を輝かせて立ち上がる。
「この学校で探せばいいんだ! じゃあ同じ部活の――」
「それじゃレベルが低い!」
「低いって、だって……」
サクラは椅子を蹴って立ち上がる。
「狙うなら教師!」
「おぉー!」
ヒナもつられて立ち上がる。
「そっか、教師ならレベルも高い!」
「そう! もっとも身近な可能性!」
「完璧じゃん! さすがだね、サクラ!」
「そうだろ? そうだろ?」
ユズキが無言で立ち上がった。
「「待って、待って、ユズキさん!」」
二人に肩を掴まれ、ユズキがゆっくりと振り返る。
「勉強はもう終わりのようですし、帰ろうかと」
その顔はニッコリと笑っている。目以外は。
「違うよユズキ! これはほら、息抜きで!」
「そうそう! こっからが本番だから! マジで!」
「良いんですよ? ずっと息抜きで。私は二人の恋愛にも、二人の試験の結果にも、『マジで』興味がないので」
マジで、と言うところに力が込められていた。
「頼むよユズキ! 追試でバイトに穴開けられないんだよ!」
「これ以上、部活に休みたくない! ウメちゃんに怒られる!」
「じゃあ、自分が何をすべきかわかりますね?」
「「勉強します!」」
二人は飛びつくように机に戻った。ユズキはため息をつく。
しばらく、ノートにペンを滑らせる音だけが響いた。そんな時、サクラが思い出したようにぽつりと呟いた。
「そう言えば、今回の数学のテスト、ウメハラ先生が作るらしい」
「ウソ! ウメちゃんが作んの? やるき出てきた!」
聞き覚えのある名前に、ヒナの顔が輝く。数学科のウメハラ先生。テニス部顧問で、ハンサムな人気の先生だ。
その態度にサクラが吹き出した。
「現金だな」
「いや、ウメちゃんの問題は簡単なんだよ」
そこまで話して、ヒナがはたと気付く。
「ちょっと待って。なんでサクラがそんなこと知ってるのさ」
「職員室に質問しに行ったときに教えてくれたぜ」
「えっ!」
ヒナの目が丸くになる。
「サクラ、職員室に質問しに行くの?」
「数学だけな。得意だから」
「いーなー。聞きにいこっかなー」
「わからないところがわかりませんって?」
「ウメちゃんならきっと教えてくれるもん!」
「ただの生徒にそこまで教えるほど暇じゃないだろ」
サクラの言葉にヒナが頬を膨らませてそっぽを向く。そして思いついたように目を見開いた。
「そうだ、ウメちゃんの恋人になろう!」
「え?」
「はぁ?」
サクラとユズキが驚く。ヒナは得意げに続ける。
「さっき、サクラ言ってたじゃん。狙うなら教師って!」
「何言って――」
言いかけてサクラは神妙な顔で黙り込む。そのまま、うんうんと頷くとパッと顔をあげた。
「ウメハラ先生を狙うの、アリだな」
「え?」
「なんで!」
今度はヒナとユズキの声が重なる。サクラは不敵に笑う。
「いや、恋人になれば勉強も教えてくれそうだし? ごめんな。奪っちゃって」
ニヤニヤと笑うサクラにヒナが歯をむき出しにして威嚇する。
「サクラには負けないよ! ウメちゃんは部活でいつも一緒だもん!」
「へぇ。質問しにいくと、サクラみたいな生徒は好きだって言ってくれるけどな」
両者一歩も譲らずそのままにらみ合う。
「じゃあ、勝負! ウメちゃんはどっちが好きか!」
「いいぜ。負けた方がファミレスでおごりな!」
バチバチと火花を散らしていたが、二人はパッとユズキの方に向き直る。
「「ユズキはどう思う!」」
「どうって言われても……」
二人に呼ばれてユズキが困ったように顔を上げる。
「ユズキには恋なんてまだ早いか!」
「ユズキはそのしゃべり方をどうにかしないとダメかもね!」
「茶道部なので、しゃべり方には気を付けているんです」
二人の言葉にユズキは少しムッとしながら答える。
「ウメハラ先生に恋人がいるとは思わないんですか?」
ユズキの言葉にヒナとサクラは顔を見合わせ、我慢しきれなかったという風に吹き出した。
「いやいや、それはない! だってウメちゃんだよ?」
「平日も遅くまで仕事、休日は部活の顧問! 出会いがないさ!」
笑い続ける二人に、ユズキはぽつりとつぶやく。
「勝負してもいいですよ」
「「へ?」」
「ウメハラ先生は恋人がいるので二人を選びません。間違っていたら二人にファミレスでおごります」
「おぉ!」
「いいんだな?」
「構いません。勝つのは私です」
それにしても。とユズキが続ける。
「二人とも大事なこと忘れてませんか?」
「大事なこと?」
「先生と生徒の壁ってか? 甘いな! ウメハラ先生には、生徒のことを本気で狙っているって噂がある!」
「わかる! 部活中の視線もなんかコワいんだよね」
「そんなことではなくて。いや、それもどうかと思いますが」
ユズキは、さも不思議そうに尋ねた。
「ここ、男子校ですよ?」
その言葉が言い終わらないうちに、教室のドアがガラリ、と開いた。
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