龍の褒章 Ⅱ

 この日、改めて思えば、リュディガーとは彼が朝早く出かけていくときに挨拶をしたきりだった。


「あら、その格好……」


 現れたリュディガー。合流するのなら第一礼装で現れると思っていたのだが、彼は龍帝従騎士団としての第一礼装を纏っていて、キルシェは面食らう。


 一般的な礼装と同じく、飾り袖があるのが龍帝従騎士団の第一礼装だが、それに加えて深い紫の制服の胸元にあるように、外套にも金糸で龍帝従騎士団の紋章__背中に負っている紋章と同じ__が刺繍されているのが特徴だ。


 胸元には、叙された勲章がいくつかあって、世間一般で見かけ、かつ龍騎士の制服として思い描くそれよりも、装飾が多いのは言うまでもない。


「__これを着て出ろ、とラエティティエルに言われたんだ。預けてあった予備」


「まぁ! ラエティティエルさんはお元気ですか?」


 懐かしい名前に、キルシェは笑顔にならずにはいられない。


 耳長族の、“碧潭の森”のラエティティエルは、リュディガーの中隊を支える侍女だ。


「ああ、相変わらずだ」


 リュディガーは微かに笑うと、キルシェのそばにいるローレンツに改めて視線を向けた。


「こちらは?」


「ローレンツ・フォン・カレンベルク男爵です」


「はじめまして、リュディガー・ナハトリンデンです」


「あぁ……矢馳せ馬に出られていたお方か。大任、お疲れ様でした」


「見られるものを奉納できて、安心しております」


「確か、最後を走っておられましたね。素晴らしい矢馳せ馬でした」


 ローレンツは言ってキルシェへと向き直ると、右手を取った。それは流れるような仕草で、非の打ち所がないお手本のような動きだった。


「__では、コンバラリア嬢、失礼いたします」


「え? はい……」


 そして彼は、甲に軽く口づけて踵を返して行ってしまう。


 その背を見送りながら、キルシェは小首をかしげる。


「お話を、ということだったのに、あまり話さずじまいでした……」


「……ほう、話を」


 すぐそばで同様にローレンツを見送っているリュディガーの視線が、心なしか厳しいものにキルシェには見えた。


「リュディガー?」


「__キルシェ、気をつけろ」


「何を?」


「婚約している、ということを気づいていて、独りでいる君に近づいた輩だ」


 え、と自身の左手を見る。その薬指の指輪を。


 ここに入るとき、羽織物とともに手元を覆っていたマフも預けていた。そして、手袋はしていない。何故なら、婚約者がいるという証の指輪をつけているからだ。未婚で、かつ婚約の指輪をつけていない者は、手袋をすることが求められている。


 では彼は__とリュディガーの手元を見てみると、いつもと同様に指輪はなかった。


 __ん? なぜカレンベルク男爵は離れたのかしら?


 指輪の有無で、リュディガーとそういう間柄だと気づいた訳ではなさそうだ。


「__よくわからないのだけれど、ただお話を、と言われていただけですよ?」


「それが可笑しいと言っているんだ。まだビルネンベルク侯爵家に近づきたい、という下心で近づくのならいいが……」


 人垣のほうへ視線を向けるリュディガー。


 その人垣の中心に、頭ひとつ__否、ふたつ出して、まっすぐ天へ伸びた耳があるビルネンベルクを見つける。


「君はもう少し、他人を疑うということを__……まあ、いい」


 こちらの視線に気づいたのだろう。ビルネンベルクは体を返して、こちらへ戻ってくるようである。


「ああ、そうだわ! リュディガー、矢馳せ馬ご苦労さまでした。よかったですね、全部射抜けて」


「ああ」


「すごく落ち着いていて……見ている私のほうが緊張していました」


「外れるかも、と?」


「いえ、そんなことは思ってはいなかったのですが……場の雰囲気が、あまりにも静謐で。夏至の矢馳せ馬とはまるで違っていましたから」


「なるほど。場に飲まれたのは、何人かいたな。3人だったか?」


 彼が言っているのは、一矢も当てられなかった者のことだろう。


 そこへちょうどたどり着いたビルネンベルクが、柔和に笑んだ。


「撃退したね、リュディガー」


 __撃退…?


 キルシェは小首を傾げる。


「__先生、キルシェを独りにするとは……」


「待て待て、紹介したい人がいる、と私が声を掛けられた時、キルシェには一緒についてくるか否かを確認したのだよ」


「ええ。私は、まだこの後がありますから、留まることにしたの」


「うむ。それに、ここは一苑だよ。警備は厳重だ」


 ビルネンベルクが視線で示すように、ヒトの出入りがある場所や壁際で人々の動向を注視する武官__第一礼装の龍騎士らと神官騎士がそれぞれ10名前後佇んでいる。


「__おそらく、今一番この世界で安全な場所だろう? まさか、同胞の実力を疑っているのかい?」


「そんなことはありませんが……」


 やれやれ、とリュディガーは天を仰いでため息を零す。


「__何はともあれ、リュディガー、お疲れ様だったね。見事だったじゃないか。伊達に2年もこなしてはいないね。いやぁ、貫禄が違った。君が最後で正解だ」


 ビルネンベルクがからり、と言う言葉に、リュディガーが口を開こうとした時だった。


 こぉん、という土鈴の音と、太鼓の音が広間に木霊した。


 何事か、とリュディガーはもとよりビルネンベルクも眉をひそめる。


 広間の一部に三段高くなった区画__その四方に御簾が降ろされたのだ。


 広間の皆は明らかに戸惑い、息を呑み身構えて、御簾を振り返った。


 次いで御簾近くにある香炉から煙が立ち昇り、やがて一番離れたところにいたキルシェのもとにまでほんのりと香りが漂ってくる。漂ってくる香りは、じっとり、と重くそれでいて不快ではない明るい印象の香りで、思わず深呼吸をしてしまうほど好みの落ち着いた香りだった。


 龍騎士らは、その御簾の左右に等間隔で並ぶと、広間の中央へ向き直る。


 御簾が降ろされ、香炉から煙まで立ち昇っている。加えて龍騎士がそこを固めるとなると__


 __陛下が御出座おでましになる……?


 リュディガーをちらり、と見ようとした刹那、をぉぉ、と唸るような声が響き渡った。


 それは幾重にも重なるヒトの声のおどろおどろしい響きで、ともすれば禍々しくも聞こえる。発しているのは神官騎士らと、いつの間に現れたのか神職の司祭ら8名。司祭らは粛々と御簾の周囲に進み出て、御簾へむかって膝をつく。


「__あの声は守りだ。御出座しになる陛下を包み、御簾の中へ誘う」


 リュディガーが耳打ちする。


 __でも……玉座もなにもなかった気がするけれど……。


 キルシェは目を凝らして御簾の中を探ろうとするが、無論内部を垣間見られるはずもない。


 台の近くの柱の陰から、人影が12名。教皇を筆頭に、大賢者、元帥、そして九州侯である。彼らは、台から遠のくように移動して、一番近い壁際に粛々と並んで広間の中央へと向き直った。


 その並びが整うと、今度は同じところから蓬莱の装束に身を包んだ御子2人__天麒と地麟が現れて、御簾から一段下の団に左右分かれて控えた。


 いよいよ場の空気が緊張してきた。


 をぉぉ、という声も、二柱の護法神の登場を境に静かになっていき、やがて止む。


 会場のみなは誰に言われるということもなく、御簾へ向かって姿勢を正した。


「ナハトリンデン卿。これへ」


 言い放ったのは、天麒だった。


 呼ばれた当人は、え、と思わず声を漏らしてしまって、口を抑え周囲を__上官である元帥を見た。


 元帥はしかし、その時天麒と目配せを交わしており、リュディガーの視線には応じなかった。そんな元帥の脇へ、人影がにじり寄る。人影は文官で、目線の高さに掲げた漆黒の薄い箱を粛々と運んできたのだった。


 箱を両手で受け取った元帥は、教皇と大賢者とともに、天麒のそばに歩み寄った。


「ナハトリンデン卿」


 再度促したのは、箱を持つ元帥。


 弾かれるようにリュディガーは、キルシェとビルネンベルクへ困惑した表情を一度見せて、元帥のもと__龍帝の膝下へと足早に進み出た。


 階から5、6歩は離れたところで、心得ている彼は、誰に止められるわけでもなく足を止め、膝を付き、手をついて額を床につける。


「__先の、イェソドでの任における功労を讃え、ここに一頭龍大綬章を授与する」


 元帥がはっきりと広間に木霊す声で言うと、途端に皆小声で、耳打ちのようなことを交わしはじめて会場がざわついた。

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