魂振儀 Ⅱ

 待機するための馬場元で馬を流していたリュディガーは、何度か調子を確かめるように鐙に立つ。そして、やおら矢筒に手を伸ばし黄の矢を探り、進むべき馬場を鋭く射抜くように見た。


 その顔。その横顔。


 鋭い眼光の、まさしく武官の顔つき。


 イェソドで『氷の騎士』という異名で畏怖された片鱗が見え隠れするが、殺気立っておらず、双眸も昏いわけではない。


 ただただ神事という大舞台に臨み、し損じまいとする決意が表れているのだろう。


 __これまでの成果をすべてぶつける。結果を出すため。


 前回__3年前の冬至の矢馳せ馬は、彼は最後の出走ではなかったらしい。


 __その時は二の的だけ外したらしいけれど。


 一の的と三の的を射抜けたという話は彼から聞いたが、にわかには信じられなかった。彼は、当時の候補者の中では一位二位を争うほど上のほうだったからだ。


 彼は、一の的を射掛けた後、二矢目を矢筒から出した時に取りこぼした。仕方なく二の的は捨て三の的へ向けて準備をしたが、取り出した三矢目も取りこぼしてしまったのだそう。早くに目標を三の的へ絞っていたから、かろうじてもう一矢取り出す猶予はあったものの、三の的を外したと聞く。


 __それでも、五矢目を取り出して、駄目押しの一矢。


 放っては駄目、という決まりはないが、異例なことだった。


 あくまで神事であるから、見臭いことは暗黙のうちにしないことになっている。


 神事には流れがあり、結果だけでなく至る過程も重きを置いているからだ。


 想像するに、その時には馬上の彼は、ひねった上体がほぼ真後ろを向いている状態だっただろう。


 矢馳せ馬の馬上では、上体はまっすぐで、ただ向きが変わるだけ。下半身と上半身が別物のように動く訓練をする。彼はきっと、お手本なぐらい上体だけきれいにひねった状態だったに違いない。


 __最後の最後で三の的は射抜けたが、あれはねぇ……。まぁ、見ていて清々しいとはお世辞にもいえなかっただろうね。私は兄と大父祖から聞いただけだけれども。武官にとってはでかした! って感じだろうが、神官らにすれば愚かしく見える。そうした輩という印象になっているから、今年ナハトリンデンを出すことに神官は難色を示したんだ。


 候補に今年も彼が決まったことについて、ビルネンベルクが苦笑を浮かべながらそう話した。


 __彼もあれについては、自覚もあるらしい。思うところはあるようだ。でもしかたない。大学にいま推せる学生はいないし、一番時間に融通がきくのは彼だ。


 それに、とビルネンベルクはくつり、と人の悪い笑みを浮かべる。


 __地麟様がお召とあらば神官は従うよりほかない。無論、我々も。龍帝従騎士団にしたって、評価をし直せる好機を与えてくださったんだ。いいじゃないか、龍騎士冥利に尽きるってものだろう。彼も本望に違いない。


 リュディガーに、当時の矢馳せ馬の話題を持ちかけても、二の的を外した、とだけ答えてあまり多くを語らないどころか、すぐに話題を切り替えてしまっていた。


 疑問に思っていたが、ビルネンベルクから当時の詳細を聞き、間違いなく彼には含むところがあったのだろう、と推察した。


 __今回は、どうなるのかしら……。


 改めてリュディガーを見るキルシェ。


 そこで、勇壮な出で立ちに負けず劣らずな端整な顔立ちであることに目がいって、何故だかキルシェは心臓がひとつ跳ね、思わず口を引き結んだ。


 否、ひとつ跳ねてから、とくとく、と早く打つようになったと思う。


 そこへ、こぉん、と鳴るのは土鈴。


 儚くか弱いが、一度鳴るとしばらく韻韻と響くそれが、走り出しの合図。


 途端に周囲の気配が一層静まり、一層張り詰める。


 その空気に飲まれまいとキルシェは息を詰め、きゅっ、とマフの中で手を握りしめた。


 馬場元を流すリュディガーが、さらにもう一周__と思いきや、半周したところで馬の首を返し、一気に加速して馬場末まで伸びる一本の道へ進入した。


 そのときにはすでに、彼は手綱から手を放している。


 どどっ、どどっ、と重量感のある蹄が踏みしめる音に、キルシェは心臓がいよいよ強く早鐘を打つ。


 たっ、と短い音を立てて、一の的が砕ける。


 __速い。


 普段のそれよりも、そして他のこれまでの十一人の矢馳せ馬よりも速く見える。


 だが、一切の姿勢のぶれのなく、馬上より上__腰より上はまるで静止しているかのよう。振動と衝撃を、両脚全体をつかって柔らかく逃しているのがわかる。


 動くのは、首と手のみ。


 空の右手が滑るように動いて、番える矢を矢筒から抜き出し、最小限の無駄のない動きで弓に番えると引き結び__二の的が砕ける。


 ぎゅっ、とマフの中で両手を握りしめた。


 二矢目を放ったリュディガーは、視線はもう次の三の的へと移していた。そうしなければ間に合わないし、意識せずともそうなるよう訓練を今日まで重ねてきた。


 __大丈夫。ただ、普段どおりを繰り返せばいいだけ。いいだけだけれど……。


 三の的を見つめたまま、数瞬前と同様の腕の動きを見せた直後、三の的が砕ける。


 わっ、と声を挙げそうになるが、それをキルシェはどうにか飲み込んだ。


 あまりにも場違いな反応だと、つぶさにわかったからだ。


 はぁ、とため息を吐くと、いかに全身が緊張していたかがわかった。マフの中でも力の限り両手を握りしめていたらしく、解そうと揉む。


 そうしながら、射掛けたリュディガーの様子へ視線を向けた。


 馬場末で一周する彼は、何事もなかったよう。特に拘りも感じられず、気負っている風でもない彼のその様は、ある意味、味気ないものだった。


 夏至の時とは違う静かな終わり方に、キルシェは戸惑うばかり。


 拍手はあるものの、歓声ではなく、感嘆の声が漏れる程度の静けさが残る場。


 キルシェは、放った矢を数え直してしまう。


 そして、的を見る。

 

 __終わった……。終わってる。うん、終わった。


 当たり前のことを、確認するまでもなく噛みしめるように確認して落ち着こうとするも、心臓の早鐘はなかなか落ち着かない。


 馬場末に至ったリュディガーは、と視線を向けると、彼は馬を降りたところだった。


 白い息を吐き、外気の寒さに晒される温まっただろう体からは、湯気が昇っているサリックス。疾走した興奮冷めやらぬ様子で、まだまだ、と勇んでいるようにも見える馬の首を、リュディガーは強く叩いて労い、上座の龍室へ居住まいを正すと一礼した。


 そこへ馬を引き受ける馬子がやってきて、馬を引き渡すと、改めてもう一礼をとり、神官に誘われてその場から下がっていった。


 一区切りついたことで、さらにざわつく貴賓席。


 矢馳せ馬のことを、みな主に会話としているようである。


「__最後の彼は、昨年も見覚えがあるように思いますが……ドゥーヌミオン殿」


「ええ、不肖の教え子ですよ」


 ビルネンベルクに話しかけるのは、隣に座る老年の男性で、そこから彼らは他の走者についても意見を交わしていた。


 そうしていると、ひとつ太鼓が鳴って、場が一瞬にして静まる。


 もうひとつ太鼓が鳴ると、ややあってから、御簾があげられた。そこには、いるはずの龍帝や皇后、皇太子と皇女の姿はなかった。退いたのだろう。


 その後、櫓の宮家の面々が退席し、州侯ら、文官の長である大賢者、武官の長の元帥、神官の長の教皇と、次々に下がっていく。


 州侯の中にいたイェソド州侯となったブリュール夫人は、去り際、ビルネンベルクの姿を見、神事が開始したときと同様に会釈をし、次いでビルネンベルクを目印にしてキルシェも見つけて、笑みを向けてくれた。

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