欠ケル夜 Ⅴ

 するり、とわずかに開けた扉の隙間から入り込み、静かに扉を閉める。


 荒い呼吸を押し殺しながら、閉めた扉に耳を当てて聞き耳をたてた。


 分厚い扉越しでは聞き取りにくいが、しばらくすると廊下の向こうを誰かが通り過ぎていく足音がかろうじて聞こえる。


 完全に聞こえなくなって、通り過ぎたと確信を得られたところで、はぁ、とマイャリスは息を吐き、扉にすがるようにしながらその場に崩れた。


 そこでやっと、肩で呼吸をして息を整える。


 地響きと揺れの中、外を目指して進んだが、生ける死者となった使用人を見かけてはやり過ごしていて、なかなか進めずにいた__むしろ、迂回させられている。

 

 __このまま合流できなかったら……。


 ふと、そんなことが頭をよぎって、マイャリスは払拭するように頭を振った。


 飛び込んだ部屋は、州都の邸宅での私室とそう変わらない広さ。調度品から察するに、談話室のようなものだろう。


 そこそこの格があるだろう調度品は、幾度かの揺れで部屋に乱雑な印象を与えていた。


 ある程度呼吸が整ったところで、窓辺へと歩み寄る。


 自分のいる場所を確認し、外観からおおよその道筋を読み解こうと試みた。州城の一角に押し込められていなければ、こうも苦労はしなかっただろうに__。


 そうして見えたのは、夜空に浮かぶ月。


 鈍く、昏く、不気味な赤金に染まったそれ。


 ぞわぞわ、と悪寒が走り抜け、思わず身震いして、気をとりなして__と、見覚えのある露台と大窓があることに気づいた。


 それは晩餐会が開かれていた広間に違いなかった。


 __誰か……。


 動いている者を探すが、広間は床に転がる人々の姿しか見えない。


 目をさらに凝らす__と、肘の長さほどの光る帯が、視界の端を通り過ぎたのを見かけた。


 弾かれるようにそちらへ視線を向け、マイャリスは驚きに息を詰めた。


 光る帯には、親指ほどの赤の粒と、小指ほどの青の粒がそれぞれ対になるようについていて、とりわけ赤の粒はまるで海老を思わせる眼に見えた。


 現実味がない半透明の体をもつそれは、いつか観た蛍のように頼りなげに飛んでいる。尾を引くように空中を滑って、やがて窓にぶつかると思いきや、それは、すぃ、と硝子をすり抜けて外へと抜けていってしまった。


「__不可知の……」


 思わずこぼれた言葉。


 その存在を認識した途端、周囲には虫とも獣とも判別つかない異形が、空中や地上に蠢いていることに気づいた。


「……秋分は、境が曖昧になる……不可知に近づく……」


 帝都の片翼院と呼ばれる建物で見かけたもの__光景がまさしくそこにあった。


 あの当時は、怖い気はしなかった。


 だが今は__。


 襲ってくる気配はないものの、おどろおどろしいものに見えてしょうがない。


 どこまでの範囲で、この事象は起きているのだろう。


 秋分は帝国全体での出来事。だが、これまで生きてきた中で、不可知を目視できたのは、片翼院でのみだった__はずだ。


 生まれ育ったこのイェソドではただの一度もなかったと記憶している。


 __月蝕が見える範囲……?


 詳しいことはわからないが、不可知に詳しいらしいリュディガーの腹心らの元へ向かうことを最善とすべきなのは間違いないのだろう。


 生唾を飲み、窓から離れ、踵を返したところで、またも息を飲んでしまった。


 部屋の中に、床から伸び上がるようにして人の大きさほどの、黒い影があったのだ。輪郭はぼんやりとした靄のような塊で、引きずるようにして床を滑って動く影。


 目的はないようで、ただそこにあって動いている。こちらは先程の光る帯の異形とは違い、床から伸び上がって以降は、壁や調度品に干渉できるようである。


 ひとつ、またひとつ、と床から伸びてくる様を見て、マイャリスは部屋を出ることにして、意を決して、注意を払いつつ扉へと足を向けた。


 物音を立てずに進む間も、影らは相変わらず徘徊していて、マイャリスに危害をあたえる風ではない。


 だが、干渉できている以上、油断はできない__と、扉へあと数歩のところに至った刹那、目の前の扉が室内にむかって轟音とともに爆ぜた。


 反射的に前に出した両腕。幸いにして扉の破片にあたることもなかったが、爆ぜた扉の残骸を蹴破るようにして現れる人影に、体が緊張で動かなくなる。


 黒い甲冑を纏った男が、そこにいたのだ。


「やはり、ここに居なすった」


 彼の一言で、体の呪縛が僅かに解けて、半歩下がった。


 __やはり……?


「__どうしてわかったか、という顔をなさっておいでだ」


 すん、と鼻を鳴らすスコルは、部屋へと踏み入る。


 黒い甲冑はいくらか装備が欠損しているのが見受けられたが、彼自身の動きはいたって普通であった。


 __リュディガーは、どうしたの……。


 どうして彼がいない。


 どうして彼が遅れてでも現れない。


 嫌な想像が浮かんで、内心、ひやり、としてしまう。


 彼が手にした得物を見るが、血糊はついていない。拭ったにしても、綺麗すぎるものだった。


 __まいてきた……のよね……。


 そうだ。きっとそうに違いない。


 __そんなことあるはずがない。


 あってはならない。


 __だって、彼が倒れたら……誰が……動けるというの。


 自分は対処の仕方は知らない。


 この地には、彼以外に対処できる者がいないのだ。


 __孤立無援で……彼しか……。


「私は、鼻が利くんです。そういう性でして……とりわけ、今回、貴女の香りは、辿りやすかった」


 マイャリスの焦りや不安を知ってか知らずか、くつくつ、と喉の奥で笑うスコル。彼は、マイャリスの足元をすい、と指し示した。


「靴、脱ぎ捨てて行ったでしょう。追尾は容易だった」


 その口布に覆われた顔が、不敵に歪んだのがわかった。


 咄嗟に逃げようと駆け出すが、武人の男の動きは恐ろしいほどに速く、腕を捕まれる。その掴む力は容赦なく、痛みに怯めば、引きずられるような形で廊下へと連れ出されてしまった。


 抵抗するも、それさえも楽しいと、スコルは始終くつくつ、と笑う。


「もっと追いかけっこしてもいいんですがね。追い回すのは好きな性なので。だが、いい加減連れてお連れしないと」


 しん、と静まり返る廊下は、スコルの不敵な笑い声がよく響き、強固に掴む彼の手に絶望を抱いた。


 __リュディガー……っ。


 強引に引っ張られながら進む廊下に、その姿を求めた。

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