『氷の騎士』との密会
真っ白い景色の中に、ひとり佇んでいた。
自分はカーチェを弾いていたはず__だが手にはカーチェはない。
怪訝にして、周囲を見渡す。
光源はどこにもない白い景色は、よくよく見れば、霧のような靄が周囲を覆っているのだとわかった。
「__やっと、練り上げられた」
朗々とその空間に響く声。
振り返れば、真っ白い空間にあって、際立つ黒い影のようなアンブラがいた。
「アンブラ」
「ご協力を感謝いたします、マイャリス様」
胸元に手を置いて、頭を垂れるアンブラにマイャリスは、怪訝にした。
「練り上げ……?」
「時間がかかったこと、誠に申し訳ございませんでした」
マイャリスの疑問は拾わず、彼は謝罪するものだから、なおのこと困惑してしまった。
「あらゆるところに、目と耳があり、今日までご不便をおかけしたこと、平にご容赦いただきたい」
「目と耳……」
「州侯の目と耳です。まこと用意周到と申しますか……只者ではございませんな。あちらの屋敷__ハイムダルの屋敷でもわずかながらありまして……あちらではもう少しというところまできていたのですが、夜会の話があり、こちらで急遽」
そこまで言ったアンブラは、微かに口元に笑みを浮かべる。
「これで、恙無くお話しできる。__州侯に知られずに」
「知られずに……あの、よくわからないのですが……ここは……今は、どういう状況なのですか?」
ふっ、と細く柔らかく笑むアンブラ。
優美な長い指を揃えて、横を軽く祓うと霧が薄れた。その薄れた先に見えるのは、見慣れた私室。カーチェを奏でている自分と、それを見守るアンブラがいた。
「ここは、所謂、不可知の領分です」
不可知__その単語で、妙に納得してしまった自分がいた。
いつぞや覗いた不可知の領分。その雰囲気に似ていなくもない空気が流れているのだ。
「マイャリス様のカーチェ。あれがなければ、成立しなかった。リュディガー様にハイムダルの屋敷で音を奏でてもらったが、やはりこういうことには、土着の楽器は呪術的なことに向いていると痛感させられました。マイャリス様が爪弾く音は、本当に素晴らしい。抜きん出て適しておられた。宮妓に匹敵します」
「もしかして、以前、彼が大鍵琴を弾いていたのは__」
「はい。このような状態を作り出すためです。悪くはなかったのですが、盤石ではなく不安でして、策を講じている最中でして……そこへちょうどマイャリス様が爪弾かれたのを聞き、取り入れる方針にしたのです。最良でした」
遅い時分に、彼が弾いていたのはそのため。
「リュディガー様が、お話をしたいそうなのです。夜会の前に」
「えっ……」
途端に緊張が走った。
「練り上げたと申し上げても、付け焼き刃。突貫工事のようなもの。私を介さなければなりませんが」
「話す……彼と……」
アンブラは首肯する。
「断ることは……」
「断ることを、本当にお望みならば。__ですが、どうしても、貴女様のお耳に入れておかねばならないことがございますので。私の見立てですが、いくらか話をしたい、とはお思いでしょう」
マイャリスは、僅かにうつむく。
話したいことはあるが、何もかもが手遅れにも感じていた。
だから、正直に言えば、今更という気がしてならないのだ。
__でも、こんなことまでしなければ伝えられない話がある……のよね。
州侯の目と耳が届かないところで。
つまりそれは__。
「__お呼びいたします」
マイャリスが迷っているのを知ってから知らずか、彼は長い腕を伸ばして霧の中へと沈める。
数瞬の後、霧から引いた彼の手は、がっちりとした手を掴んでいて、それをさらに引っ張り出した。そうして霧の中から現れたのは、紛れもなくリュディガーだった。
彼を目の当たりにして、身体がこわばるのがわかった。
相変わらず感情のない表情の彼は、マイャリスを認めると僅かに目を細めるだけだ。冷徹な印象を覚える、視線に耐えかね、マイャリスは視線を落とした。
こんな用意周到な状況を作り出して話をするのだ。少しは表情に変化があってもよいのに、どこか落胆をしてしまっていた。
「リュディガー様の言葉を私の口からお伝えいたします。マイャリス様からの言葉はリュディガー様には届きますので、どうぞそのまま口に出してくださって結構です」
こくり、とマイャリスは頷いて顔を上げる。
「話……というのは……?」
「__話というのは、知らせておかねばならないことだ」
声はアンブラの声のまま。言葉は彼のもの__そういう認識でいいようだ。
「__明日の夜会。そこで、おそらく州侯の悲願が達成される」
「悲願……?」
「__具体的には、辿り着けていない。『氷の騎士』となっても明かされていない部分だ」
__父の悲願……そんなものがあったの。
「__これまで、毎月夜会が開かれてきたのは知っているだろうか?」
「毎月あったことは知っていましたが……関係があるの?」
「……少々、私アンブラから説明をさせてもらいます。この一年、州侯は毎月、満月の夜に宴を催しておられました。呪い師の私とフルゴルの見立てでは、呪術的な要素が隠れていたとしか思えないのです。満月とは、呪術的な要素に利用される。星々の運行は不可知に影響を__とりわけ太陽と月は切っても切れないと言って良いのです」
「そう、なのですか」
「はい。おそらくですが、不可知の領分との境目が曖昧になる。明日は満月であり秋分であり__月が食われる日」
「まさか、月蝕……?」
首肯するアンブラに、マイャリスは驚かされた。
月蝕は前触れ無く起きるもの__それが帝国の常識だ。それを予め知る術を持っているとは、恐るべきこと。
__本当に、彼らは何者なの?
ただの呪い師ではないのかもしれない。
俄には信じがたいが、こうして不可知の領分に引き込むような芸当ができる能力を持ち合わせているのだから、信じないと切って捨てることはできない。
「秋分で満月。秋分というだけでも、不可知に近づくというのに、極めつけに月食__とてつもない呪力が働きます。何が起こるのか、呪い師である私やフルゴルでも、計り知れない境地になるのです」
え、とキルシェは目を見開き、アンブラからリュディガーへと視線を移す。すると、彼は小さく頷いてみせた。
「__何が起こるかわからない。だから、こうして予め伝えられることは、と。ずっと場を設けようと試みていた」
「ずっと……」
いつから。
それは、いつからだ。
__それこそ、信じられない……。
彼は、父の気に入り。懐刀。
人々に恐れられる『氷の騎士』と異名を持つ立場だ。
__父に心酔していた。
彼の言動は、すべてそれを物語っていた__はずだ。
__父に毒されてしまったはず……ではないの。
何故そんな彼が、こうして場を設ける。ずっと模索してまで。
「……リュディガー。教えて。……貴方は、『氷の騎士』と言われるような立場でしょう? 父の気に入りの懐刀で……州侯の手足となるのが貴方でしょう?」
すい、とリュディガーの視線が細められる。
「今の貴方の行動が、私にはわからない。貴方は何なの? 何者なの?」
恐る恐る、彼の細められた目を見た。
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