氷の騎士
父が振り返った先を、マイャリスもまた父越しに見やる__が人の姿などはない。
「面を上げたまえ」
怪訝にしていれば、父が言い放つ言葉で、引き合わせたい者という相手がその護衛官だと悟る。
ゆるり、と身体を起こすも、跪礼のままの護衛官。
指示以外のことはしない従順な部下なのだろう。有事でもない今、身分が格下で不敬にもあたるが、兜を外すことはしないその護衛官。
兜によって顔の全容はおろか、
ただただ、侮れない雰囲気__覇気とでも形容すればよいのだろうか、一切の隙きがないことは、武人でないマイャリスでさえ感じ取る事ができる。
「マイャリス、お前は『氷の騎士』と呼ばれる輩を知っているか?」
小さく頷くマイャリス。
「……皆さんが噂している限りですが。__昨今の、お父様のお気に入りの方だそうですね」
揶揄する響きを込めて言ってみるが、さも面白い、と言わんばかりに、くつり、と父の口元が笑みに歪んだ。
「__彼だよ」
背後のマーガレットが息を飲む気配がしたが、振り返ることなく父に顔を向けたまま面を上げた護衛官__騎士を見た。
「兜を」
その指示には、ちらり、と主人を見る騎士に対し、促すように顎をしゃくる。
それを受けてやっと兜を外すも、そっと脇に置く仕草の流れで、男は今一度、頭を垂れた。男の風貌は、兜を外す動作でまるで見えなかった。
唯一見えるのは、彼の頭__御髪に目を細めた。榛色の御髪。兜を被っていくぶん乱れていたが、それでも整えられていることが分かる。
「__少し、昔話にでも花を咲かせるといい」
「昔話、ですか?」
怪訝にするマイャリスに対して、くつくつ、と喉の奥で笑う父は、連れてきた彼をそのままに踵を返す。
「粋な計らい、と受け取ってくれて構わん。__あとは、よしなに」
去っていく父の姿を見送って、その姿が草木の向こうへ消えてから、マイャリスは改めて男を見た。
相変わらず律儀に指示を待っているのだろう。頭を垂れたまま動かない。
__お父様が連れてきた気に入り……よりにもよって噂の御仁とは。
父が使う__使えると判断した者は、実力こそあるが為人は期待できない輩ばかり。
マイャリスの周りの者__使用人ばかりだが、彼ら彼女らから漏れ聞こえる話を聞くに、やるせない気持ちを抱かせる。
彼もそうした輩のひとりだろう__否、そうだ。
__そんな方と、昔話とは……よくわからないわね。
交友は限られている。
しかもそれは、すべて父が承知のはずだ。
__知っているからこそ、連れてきたのでしょうけれど……。
よくわからないわ、とため息を小さく零して、マイャリスは気持ちを切り替える。
ここでは父が絶対だ。抵抗するだけ無駄であるし、今、父の気に入りだからと邪険にするのは大人げないことで、自分自身を貶める行為に思えてならない。
「どうぞ、こちらへ。ちょうどお茶にしていたところです。__そちらへお掛けになって」
マイャリスは踵を返して事務的な響きで言えば、はっ、と短く応じる声。その声は、覇気を放つ男にしては、控えめなものだった。
ゆらり、と立ち上がる気配を背に感じながら、自身の羽織物をとって向かいの椅子へと掛けてから、自分は元の席へと腰を下ろした。
マーガレットがお茶の用意をしようと動くのを制し、マイャリスが自らお茶のポットにお湯を注ぎ淹れ、控えているように目配せで指示をする。
そうしていると手元が陰った__陰ったのは何故、と見れば、男が東屋に踏み入って差し込む陽光を遮ったからだとわかった。
より近づいて、男がいかに大柄か驚かされる。
その大柄さだけではない。
その顔__深い青の底に沈むような紫の双眸に、息を呑んだ。
じっと見つめてくるその目。
忘れることがない、その目__否、今、記憶の奥底に沈めて、忘れようと努めていたことを思い出した。
__なんで……。
心臓がひとつ早く、大きく打つ。
明らかに動じたのを見たはずなのに、彼は素知らぬ顔で椅子に敷いた羽織物を取ってマイャリスへと返してから、その椅子に腰を下ろした。
緊張から強張って取りこぼしそうになる羽織物を、辛うじて受け取るが、彼の顔から目が離せない。
目の前の男の表情は、蓬莱から伝わった能面にあるように、一見して無表情にも見えるが、同時に怒りにも哀しみにも憂いにも染まって見えるもの。その内に潜む鬱屈した心が燻っているような、不思議で形容し難い顔である。
記憶の中の彼は、自分に対してこんな顔を向けてきたことなどない。
端正な顔立ちにはしかし、皮肉にもよく似合った。
__何故彼が、ここに居るの。
「……リュディガー……」
自分は彼を知っている。
__どうして、貴方が……貴方ほどの人が……。
羽織物とともに膝に置いていた手が震えるので、握りしめて堪える。
__彼が『氷の騎士』……。
何かの間違いではないのか。
表情を変えることなく、無慈悲に断罪をするとされるその者。今や心も凍てつかせた『氷の騎士』という、揶揄とも尊崇ともとれる異名を囁かれる、父の気に入りの懐刀。
表に出ることはない自分の耳にもその噂は届いていたが、それが彼だとは思いもしなかった。
なぜなら、自分の知る彼は崇高な理念をもち、良心も持ち合わせ、人の痛みが分かる人__だったはず。
そんな彼が、父のような男に付き従うとは天地がひっくり返ってもありえない。
__何が彼を変えてしまったの……。
深みに紫を秘めた蒼の双眸は、相変わらず一点の曇りなく。しかしながら、苛烈なほどに射抜いてくる。
彼の視線__かつてのことを責め立てているように思え、ただただ胸が苦しくなってくるのだった。
__多くを、伏せていたから……。
そんな胸の内を知ってか知らずか、彼は僅かに目を細める。
「__3年前、貴女様は、お隠れになった、と聞きました」
よく通る低い声は、淀みない。
感情の読み取れないその声で淡々と言い放たれた言葉は、瞬時に理解できない言葉だった。
__隠れる?
隠れる、とは、文字通り隠れることか。
であれば、彼と別れてから確かに軟禁生活だ。
てっきり、嫁がされるものだと思ったらそうはならず、だからといって表へ出されることもない生活。それが今日まで続いている。
「だが……生きておられた」
更に続く男の言葉は、混乱の渦にさらに叩き落とす。
__生きて……?
「……なにを、言っているの?」
__わからない。
何が、どうして__。
「__キルシェ・ラウペン」
抑揚なく紡がれたその言葉に、ぐぎり、と胸に痛みを覚えた。
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