宿屋にて
湯浴みの後、ラエティティエルが至極申し訳無さそうに差し出したのは、彼女の普段着だという服。
人馬族アッシス・マグヌ・アから事情を聞いた、ラエティティエル。元帥から名指し派遣された彼女は、取るものもとりあえず、といった状況下で慌ただしく出てきてくれたのだそう。
面識がある彼女は、体格がそう変わらないことを覚えていて、自身の衣装箪笥から令嬢らしいものを見繕って馳せ参じてくれた。
薄い紫色のそれは耳長族の女性がよく纏う、露出が少ないもの。どこか、魔術師が纏う法衣に通じる雰囲気がある。
肘から膝辺りまで装飾の袖が優美に垂れ、くるぶしまでを隠す長い裾のそれ。補正下着をつけずとも、ほどよく女性らしい体の輪郭を出すのだが、体の動きを邪魔しない程度にゆとりが作られている。
耳長族の伝統的な衣装と言うよりも、貴族の令嬢が纏う服として違和感がないものであった。
「よく、お似合いです」
「お世辞でも嬉しいです」
「お世辞などでは」
仕上げに刺繍が素晴らしい羽織物を肩に掛けられ、ラエティティエルに支えられながら立ち上がる。
「湯浴み前のお召し物ですが、もし差し支えがなければ、私が処分しておきましょうか?」
ちらり、と椅子に掛けられた先程まで袖を通していた自分の服をキルシェは見やる。
かなりの汚れ、ほつれ。そして、破れている箇所もあるその服に、キルシェは息を詰めて目を伏せる。そこで目に入るのは、手首の圧迫痕。明らかに手の形になってきたそれ。
「……お願いしても、よろしいですか?」
絞り出すようにそう言うと、手を乗せている彼女の手が、やや力を込めてキルシェの手を握った。
大丈夫です、と元気づけるようなそれに、キルシェは感謝とともに申し訳無さを覚えた。それをきっと敏い彼女は察したはずだが、特に気にせず隣の部屋へと移るようにすすめる。
扉をくぐった先の部屋には、身支度を整えたリュディガーがすでに居て、彼は外へと続く扉の脇に背中を預けて腕を組んでいた。
彼は現れたキルシェの身なりを見て、目を見開く。
「それは……
「ええ。まだ人間族よりのものを選びました」
「__のようだ」
「良家のご令嬢なら、変ではないでしょう?」
「ああ。__似合っていると思う」
柔らかく笑んで言われ、キルシェは一瞬驚くも、苦笑を彼に向ける。
「ほら、お世辞ではないと申し上げましたでしょう?__貴方は、それで従者を貫いてくださいね」
先程のリュディガーの身なりに比べれば、整えられて綺麗になったには違いないが、身拵えは従者のそれには欠けると言える。故に、ラエティティエルはそう言ったのだろう。
苦笑を浮かべたリュディガーは、先程キルシェが腰を据えていたソファーに先回りして、辿り着いたキルシェをラエティティエルから引き継ぐ形で座らせた。
ありがとう、と伝えるが、それはため息を多く含んだ声になってしまった。
離れていったラエティティエルは、湯浴みの間に届けられていたらしい茶器にお茶を注ぎ入れ、キルシェの前に焼き菓子のお茶受けとともに静かに置く。
これにも礼を述べ、キルシェはカップを手にとり、口に運んだ。
この時気づいたが、かなり喉が乾いていたらしい。温かいお茶の香りや味を、ゆっくり愉しむことも忘れ、息を吹きかけつつ冷ましながらほぼ一気に一杯を飲み終えてしまった。口から喉にかけて残るのは、ほのかな苦味である。
はぁ、とため息をこぼして、爽やかな残り香を鼻の奥で感じ取りながらカップをソーサーに戻せば、すかさず注がれるお茶。それを迷うことなく、再び手にとって口に運ぶ。
そして三度のお茶を口に運んだところで、ラエティティエルが口を開く。
「__リュディガー。確認したいのですが、キルシェ様のお怪我は宿の方には何と?」
リュディガーはちらり、と扉を見てから、やや声を小さく言葉を紡ぐ。
「彼女は元帥閣下の縁故。閣下の元へ向かう前に街を散策していたら、賊を追いかけていた人馬族のアッシスが横をすり抜けた際の勢いに驚いて、そこが運悪く石階段のところで足を滑らせて負傷した、ということになっている」
「マグヌ・ア中尉のことを話されたの?」
「ああ。古い友人を見送っているときに、賊を追いかけているアッシスに出くわしたから、宿の者にもそれは見られていたはずだ。それに触れないわけにはいかなかったのだろう。閣下はそれ以上の説明をなさっていない。どうやらこの宿は閣下が懇意にしている宿らしくて、融通がかなり利くらしい」
「そうなのですか」
「あくまで、私の感じたことだが、おそらく、やたらに踏み込まないのだろう。皆が皆ではないだろうが、口が堅いのだと思う」
「なるほど。……でしたら、少し宿の方にお話しをしてこようと思います。要望がいくつかありますから。後を任せてもよろしいですか?」
無論、とリュディガーはラエティティエルに頷く。
「キルシェ様。そういうことですので、暫し御前を失礼しますね。リュディガーでは、気が付かないことが多くご不便をおかけしますが」
はい、と頷けば、彼女も笑顔で頷き返し、まるで手本のような歩き方で扉へ向かうと一礼して去っていった。
はぁ、と途端に重くため息を吐いたのは、側近くにいたリュディガーで、見上げると肩を竦めて自嘲する。
「いや、ほら……見ての通り、彼女にはどうにも頭が上がらないからな」
小さく笑うキルシェに、リュディガーは穏やかな表情になった。
「顔色がよくなって、安心した。まだ腫れてはいるが……さきほどよりはましだな。とは言え、まだ痛むだろう」
「薬湯のお陰か、そこまでは」
ぼんやりとした感覚。痛みが格段に滲むような、弱いものになっていた。
「横になっていなくて大丈夫か?」
「寝てしまいそうで……」
「眠れるなら、眠ったほうがいいと思うが」
「まだ、いいで__」
と、キルシェの答えをそこで断ち切ったのは、急に窓を叩いた風だった。
びくり、と体を弾ませてそちらを見やれば、リュディガーがその窓の側へと向かう。
「__雨が止んで風が出てきたんだ。雲間から空が見える。……君の部屋からは、“龍の山”の東の
帝都の背__北側を、弧を描くようにして守る“龍の山”。その中は龍帝従騎士団の騎龍の巣だ。
「リュディガーの部屋からは見えない?」
「ああ。あくまで使用人の部屋だから、庭の木々……生け垣と言えばいいのか、それとその向こうに通りが見える程度だ。こんな密集した区画でも庭を有する余裕があるとは」
密集した区画__という言葉に、キルシェは唇を噛み締めた。
この宿からそう離れていないところに工房が立ち並び、そこからいくらか入ったところは、まさしく迷路だった。
「……あの、これから、私はどうすれば……? どうなるのでしょうか……」
「……君は……今の君にとっての一番の気がかりは、先生__大学のことだろうか?」
こくり、と頷く。
健やかに、とは言われたが、何日ここにとどまらなければならないのか。留まるのであれば、大学のビルネンベルク担当教官に何と報告をするのか__否、されるのか。
__強姦未遂……。そう、未遂なのよ。
大学で馬術、弓射と並んで必修である法律を修めたキルシェだが、事後処理については詳しくは知らない。
未遂でも、ここまで被害者が厚く遇されているということが、驚きでしかない。
大事にはしたくない__元帥はそれを理解してくれていたから、よしなに動いてくれるのかもしれないが、だとしても自分とは雲泥の地位の差で、面識など数える程度しかない自分にどうして、と思ってしまう。
__キルシェ・ラウペンをよく知る人ではないもの。
自分は、どこの馬の骨ともわからない、ちょっと生活にゆとりがある、大学に進学した変わり者の令嬢に過ぎない。
__あの方には、やるべきことが山積しているはずだもの。
事件や事故は無論、武官の統率、他の組織との調整、首都州内外の動向等__軽く考えただけでもそれだけあるのだ。
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